【掌中の珠 9】
「はーなちゃーん」
孟徳は馬で花の隣に並び、馬上で緊張している花に手を振った。
花の方は緊張の余り手綱を離せないようで、こわばった笑顔で孟徳に頷いて見せる。
「もう結構慣れてきたんだから、ほら肩の力を抜いて!」
孟徳が言っても、花は頷くばかりで全身に力が入っている。だが、乗っている馬はおとなしく調教もきちんと受けているし、花をこれまでに何度も乗せているので落ち着いている。柵のあたりで立っている元譲以外にも三人、厩舎の前には控えていて何かあればすぐに飛び出せるように準備していた。
皆が見守る中、、孟徳は花にパッカパッカと歩かせて五周ほどした後、速足をさせてさらに五周。
花は緊張しながらもきちんとそれについてくる。花は運動は苦手だと言っていたが、コツをつかむのはうまいと孟徳は思っていた。体力と筋力が驚くほどないが。
しばらく練習した後で、ようやく乗馬が終わった。
馬を使用人に任せて、花は一人で馬から降りた。最初は自分の体を持ち上げる力もなくてへっぴり腰だったが、最近は一人で一通りはできるようになっている。
「だいぶうまくなったね」
孟徳がほめると、花は嬉しそうな顔をした。汗を布で拭う。
「そうですか?緊張しちゃってよくわからなかったです」
元譲もうなずいた。「速足も並足もできていた。あとは慣れるだけだな。できれば毎日乗れるといいんだが……」
「あの、いつもついてくれる人たちにお願いしたら、孟徳さんなしでも練習できますか?そしたら毎日練習できるかなって」
「それはだめ」
ぶーっとふくらませた花の頬を、孟徳はつついた。
「だって君は最近忙しいからね。こういう時でもないとゆっくり二人で会えないし」
元譲がその言葉にふと思い出したように花を見た。
「そうか、そういえば読み書きをならっているそうだな」
花はうなずく。
「そうなんです。乗馬と読み書きと。皆さんが普通にできることを私もできるようになりたいなって。孟徳さん、許してくれてありがとうございます」
孟徳は頭をかいた。許したわけではなく、どちらかといえば不本意なのだが、なんとなく花の言う通りになってしまっているのだ。だが、まあ、花のこの満面の笑顔を見れたのだから不本意も良しとするかと思えなくもない。
「君につけた先生はどう?専門の教師というわけではないんだけど」
「先生のおじさんはここの高官で、お父さんは地方の牧で資産家ですごいお嬢様なんですよね?女官の人たちに聞きました。女の人には珍しく勉強が好きだって……」
「そうそう。授業だけ?何か話したりする?」
花は首を横に振った。それができればいいなとは思うのだが。
「実家の話とかしないの?女同士の話とか」
「いえ、勉強を教えてくださるだけで……」
「城で困ってることとか悩んでることとか、君に話したりしないのかな」
いやにしつこく聞いてくる孟徳に、花は首を傾げた。
「孟徳さん、なんでそんなにあの先生に興味が……」
そしてふっと何かに気が付いたように暗い顔をしてうつむく。
「……先生、きれいな人ですもんね……昔聞いた、孟徳さんの女の好みっていう感じで……」
年上の色っぽい女が好きだと聞いたことがある。
あの先生はまさにそれではないか。あまりあからさまな服は着ないし髪や化粧も地味だが、よくみると真っ白な肌に整った顔立ちをしており、すらりと背が高く出るとこが出て引っ込んでるところは引っ込んでて……。花とは真逆だ。
「違うよ、そういう興味があるわけじゃない!」
慌てて否定する孟徳。それまで黙っていた元譲が不思議そうに孟徳に言った。
「あの娘の父親からは、お前に差し出されたと聞いたが。妾になりなんなり好きにすることに特に問題はないだろう」
逆にこの国で孟徳のものになることに問題がある女など、既婚者以外いない。いや、既婚者というか妾でも、美女と名高い自らの妾を差し出してくる者も多い。
「元譲!」
孟徳は元譲にそれ以上言わないように目で制し、花の顔色を窺った。
花は相変わらずどんよりとしている。
「……えーと、もともとはそうだったんだけどね、断ったんだよ、だって俺には花ちゃんがいるし?で、花ちゃんの先生にどうかなって、彼女にはちゃんと俺の奥方付きでっていう条件できてもらったんだよ、花ちゃん聞いてる?」
元譲が妙に慌てている孟徳をあきれたように見る。
「何をそんなに焦ってるんだ今更。本邸はもとより地方の城にも……」
ガシ!と大きな音がして同時に元譲の顔がゆがんだ。
孟徳が花に気づかれないように元譲の足を思いっきり蹴とばしたのだ。
「俺たちの世界の常識と、花ちゃんの世界の常識は違うんだよ。花ちゃんの世界では妾とかそいうのはないの!」
元譲は目を丸くした。
「そうなのか?」
そんなに驚くようなことなのかと思いながら、花はうなずいた。芸能人の浮気とか不倫とかは聞くけれど、堂々と妾を作るというのは聞いたことがない。昔の話なら聞いたことはあるが……
「私の元いた世界では、そういうのはとても非難されます。法律でも…どうなんだろう?重婚罪とか聞いたことがあるから罪になると、思います」
「な?まあ今の俺はもう花ちゃんしか見えないからいいんだけど、許都でそんな令をだしたら反乱がおきるな」
妙にいい子ぶっている孟徳を、元譲は呆れた顔で見る。
「じゃあ、お前の世界の男たちは奥方一人以外とは一生寝ないのか。そんな男ばかりとは信じられんな」
あからさまな質問に、花は赤くなった。
「いえ……もちろん、隠れてそういうことをする人はいますし、それが奥さんにばれたりとかもあります」
「じゃあ、もし旦那が他の女とねんごろになった場合はどうするんだ?その、お前たちの世界の奥方は」
花はしばらく考えた。
花の父親はそんなことする人ではなかったし、まだ高校生だった花のまわりにも、そんなどろどろした話はなかった。
聞いたり読んだりした話から想像して、どうだろう?
我慢して許す人もいるだろうけど……
花は、孟徳と一緒に過去にタイムトリップした時の、歌妓と孟徳を思い浮かべた。
その時感じた胸が狭まるような息苦しさも。
「許す人も許さない人もいる、と思います、けど……。私だったら……別の人とそういうことにいなるっていうことは、自分にはもう興味がなくなったからだと思うので、別れると思います」
「えっ!!」
花の世界の常識では別に驚くほどの意見ではないと思うのだが、この世界ではそうではなかったようで、元譲も孟徳も目を見開いて驚愕の表情で固まった。
そんなに驚かれるとは思っていなかった花もびっくりした。
「え?そんな変な意見、ですか?」
「変、というわけでは……」
ゴニョゴニョと口の中で何かを言う元譲。
「は、花ちゃん、別れるってのは、それはいきなり過ぎない?だってほら、別に奥さんに興味がなくなったわけじゃなくてもさ、ほら、おせちもいいけどカレーもねってかんじで、その、男なんで結局馬鹿だから、気の迷いってのもあると思うなーなんて……」
なぜか汗をかきながら言い訳のように言い募る孟徳に、花は首を傾げた。
「……でも、好きで好きでその人のことしか考えられないときに、別の女の人とそういうことにならないと思うんです。人の気持ちは変わるものだし、それはしょうがないかなって。そんな状態でその人のそばにいても自分がつらいだけだし、その人との幸せだった思い出も嫌いになっちゃいそうなんで、私なら、その人から離れると思います」
「……」
孟徳と元譲は再び顔を見合わせた。
孟徳は笑顔の裏に青ざめた冷や汗。
元譲は視線と表情で孟徳に聞いた。
こいつはお前に星の数ほど妾がいることを知らんのか?
孟徳は青ざめた笑顔で何度もうなずく。
「だから、孟徳さん。すこし……いえ、とってもさみしくてつらいですけど、ほかに興味が惹かれる女の人がいたら言ってくださいね。私、辛いとは思いますけど、でも、孟徳さんのことを好きになれてよかったって後悔はしないと思うんです」
「いやいやいや、ちょっと待って。なにをもう終了みたいな過去形で言ってるの。別に君の読み書きの先生にはそういう興味はこれっっっっぽっちもないんだよ?その先生以外にも、僕は花ちゃん一筋なんだから!」
「そうですね」
花は顔をあげて、どことなく寂しそうな笑顔を見せた。
「でも、そうなったら本当に私のことは気にしなくていいんで、教えてくださいね」
元譲の知っているこれまでの孟徳の女たちは、いろんな意味で孟徳に執着していた。
丞相の地位になった今では、孟徳の寵を得ることが今後も生き抜く道だと言わんばかりにぎらぎらしている女ばかりだとういうのに、この花のあっさり具合はどうだ。
そのあまりの潔さに興味を惹かれて、元譲が聞いた。
「お前はそうなったらどうするんだ。この時代に実家があるわけではないのだろう?玄徳のところに帰るのか?」
「それもあるかもしれないですけど……」
花は首を傾げた。
その時になってみないとわからない。
今は、たとえ一緒に暮らせなくてももう好かれていなくても、孟徳のそばにいたいと思うからきっとこの許都に残ると思う。
でも、要は失恋するわけなのだし、辛くて辛くて実際には許都にはいられないかもしれない。
花は腕を組んで考え込んだ。
「あれですね、乗馬とか読み書きとかもう少し真剣にやったほうがいいですよね。それで城をでても仕事が探せるかもしれないし」
花がそういったとたん、孟徳がのけぞり、元譲は大きくむせた。
「ゴホッ!お、お前は何を……!」
「花ちゃん!君の一生の面倒を見たいって言ったよね?ほかに女ができたとしても、君がそんな城を出て日銭を稼ぐようなことにはならないよ…っていうか、そもそもほかに女なんてできないから!」
「それは嬉しいですけど、人間何が起こるかわからないかなって思うし……」
冷静な花に慌てる孟徳。
横で見ていた元譲はとうとう吹き出してしまった。
こんな変わった女は初めてだ、と元譲は声に出して笑った。こんなにあせって身の潔白を証明しようと躍起になっている孟徳も。
「いやはや……」
これはさぞかし孟徳にとっても新鮮だろう。新鮮で不安で、だからこそ執着する。
もしかしたらあの『呪い』も、こいつが解いてみせるかもしれんな
元譲は、大笑いしている自分を驚いたように見ている花と、笑われて憮然としている孟徳を見てそう思った。
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