【掌中の珠 8】 


 

「花様、最近お忙しいようですね」
「本当に。楽しそうでらっしゃいますわ」

毎朝身だしなみを整えにやってきてくれる女官たちにそういわれ、花はうなずいた。
「はい。今はいろいろやれることが増えて毎日が楽しいです」
色鮮やかな帯を結んでもらう。
前までは朝こうやって身だしなみを整えてもらってから夜まで、ほーんとに何もやることがなかったのだ。外をぼんやり眺めて、あれもできないこれもできないと指折り数えていたのはつい最近だ。
孟徳をもっと知りたくて彼のためにこの時代にいようと決めたのだが、孟徳は当然ながら忙しい。昼も夜も、人と会う予定や会議がつまっているのだ。時間を見つけて顔を出しに来てくれるが、会えない日の方が当然多い。
だからこそ部屋を一緒にして夜眠るときだけでも、と孟徳は言ってくれているのだが、そうなってしまうと本当に孟徳を待つだけの日々になってしまう。
花はそれに少し抵抗があった。

でも今は違う。
ほぼ毎日、孟徳が紹介してくれた先生から読み書きの授業を受ける。
それの復讐や予習もする。
それに、ちょっとしたことで知り合った友達もできた。
今日は、午前中は授業で、午後からその友達と会い、夕方からは孟徳が乗馬を教えてくれることになっている。
暇で暇で溶けそうになっていた前までの日々とは大違いの充実ぶりだ。
「今日もがんばろう!」
花が気合を入れてそう言うと、女官たちも楽しそうに笑った。





思ったよりも遅くなっちゃった。もう待ってるかな。急がないと……

花が急いで角を曲がったら、ちょうど曲がってきた人とぶつかってしまった。
手に持っていた筆箱やお手本の書、書き損じが足元に散らばる。
「わっ!…す、すいません!ちょっと急いでて……」
花が慌てて謝ろうとすると、ぶつかった相手の大きなため息が聞こえてきた。
「おまえか……すこしは落ち着いたらどうなのだ」
「文若さん」
相変わらずのしかめつらで、文若は廊下の地面に散らばったものに目をやった。
「……そろそろ三月ほどたったか。どうだ?少しは上達したのか」
文字書きの勉強のことだ。
以前の先生である文若の前で、花ばピッと気を付けをした。
「はい!あの…基礎はしっかりできていますねって。文若さんのおかげです。ありがとうございます」
「私は大したことはしておらん。今の師がいいのだろう」
「今の先生……」

花は先ほどまで教わっていた先生を思い出した。
年のころは20代……後半だろうか?落ち着いたきれいな女性。
孟徳から『今日からこの人にいろいろ教わるといいよ』と紹介されたのが、ちょうど秋ごろ。
『宜しくお願いします』とお辞儀をした花に、その女性は丁寧に膝を曲げ頭を下げて、最上の礼をした。『せ、先生、そんな…!私の方が教えてもらうんだから頭を上げてください』と焦る花に、女性は首を静かに横に振っただけだった。
それからというもの、丁寧に親切におしえてはくれるのだが……

嫌われてるのかな……
好かれはいないよね。

孟徳に相談してみたこともあるが、『君は俺のお気に入りだからねー。うかつなことを言ったりしないように気を使ってるんじゃないの』と、気を使われて当然の実力を持っている孟徳は全く気にしていない。
元譲をメッセンジャーにしているときにも思ったのだが、孟徳とそういう関係になったとしても花自身にはあまり関係なくて、そんな頭を下げてもらうような者ではないのにと却って居心地が悪いのだ。
先生の授業の時においしい果物を持って行って一緒に食べませんか、と言っても結構ですと断られ、他愛もない話をしてもほぼスルー。きっちり決まった時間決まったことを教えてくれたら一礼してさっさと帰ってしまう。目もなかなか合わせてくれない。

お友達…とまではいかないけど、ほぼ毎日結構な時間会うんだし、もうちょっといろいろお話しできるようになりたかったんだけどな。
まあ相性とかもあるかもしれないし、私の立場は微妙だから付き合いにくいんだろうし……
そんな嫌われることをしたかな……

だがまさかそんなことを文若に相談できるわけもない。
花は首をぶんぶんを横に振った。
「急いでいたのではないのか」
文若の言葉に、はっと我に返った花は急いで散らばった筆を集める。ため息をついて一緒に筆を拾ってくれる文若に、花は礼を言おうとした。
「ありがとうござ……」

「俺の奥さん寝とるなよ」

ふいに後ろから巻き付いてきた腕に、花は抱き寄せられた。
「孟徳さん!」
がっちり花をホールドして文若をにらみつけているのは、孟徳だ。花は真っ赤になる。
「な、何を言って……」
「寝とってなどおりません」
文若は冷静に返事をすると、花に拾った筆を返した。
「ふーん……」
孟徳は相変わらず花を抱き寄せたままだ。そして花の顔を後ろからのぞき込む。
「こいつと話してもつまらないからあんまり近寄らない方がいいよ。急いでたみたいだけどどこ行くの?」
「えっ……と……」
花は言葉に詰まった。孟徳にしてみたら何気ない質問だろうが、これから行こうと思っていた目的地は、もしかしたら何か言われるかもしれない可能性がある場所だった。最近できた新しい友達に会いに行くのだが……孟徳にはまだ話したことはない。
この前も夜に一人で歩いていて襲われて、そのせいで一人歩きを禁止されそうになったし、孟徳の気分によってはもう行かないようにと言われてしまうかもしれない。

『急いでないです』
『部屋に帰ろうと思ってただけです』

とかなんとか適当に言ってごまかそうと思ったが、花はすぐに思い直した。

孟徳さんには嘘は通じないんだよね。

かといって自分の生活の隅から隅まで孟徳の許可をもらわないといけないなんて嫌だ。
報告して孟徳に禁止されたら花にはもう打つ手がないのだ。悪いことをしてるわけじゃないけれど……
どうすればいいかと花はしばらく考える。そして言った。

「……内緒です」

「……」
孟徳と文若は顔をみあわせた。
「内緒?」
孟徳が再度花の顔を覗き込む。花はにっこりとほほ笑むと頷いた。
「はい。じゃあ、私失礼しますね。あ、孟徳さん、夕方の乗馬、忘れないでくださいね」
「あ、ああ、もちろん」
花は嬉しそうに頬を染めてほほ笑むと孟徳の腕からするりと抜け、文若に会釈をしてそのまま急いで角を曲がっていった。

残された孟徳は大きな手で顎のあたりをなでながら、花の去った方を見る。

「内緒ねえ……」

追及するか静観するか。がんじがらめに束縛するかある程度の自由を与えるか。
「ま、あの子次第かな」
丞相孟徳にああやって正面から対峙しようとするところが面白い。わかってて言ってくる挑戦のようななぞかけも心地よく楽しい。
孟徳は、隣でこちらを見ていた文若に頷いた。
「例にが来るんだろ?行こうか」
「……かしこまりました」



花は今度は人とぶつからないように気を付けながら、小走りで中庭を通り抜けた。
約束の時間には遅れてしまっている。廊下を回って別棟を通り、向かった先は厨房の裏。
食材や薪や水などが大量に蓄えられているたくさんの倉庫の間に、ここに出入りする商人や職人たちが一休みする空き地がある。
花がそこに顔をだすと、「遅ーい!」「俺らはひまじゃないんだぞ!」と、文句を言う声が聞こえてきた。
「ごめんね!途中でちょっと人に会っちゃって」
花が謝った相手は、二人の男の子だ。兄弟のうち兄の方が偉そうに花に言った。
「言い訳はいいからさ、早くここに書いてよ」
「うん。先生に聞いてきたから……えーっとね……」
花は急いで持っていた竹簡と筆を取り出して、兄弟の前に座った。
「字はこれで、『安い』っていう意味はこっちね、でこれがキノコっていう字で……」
読み書きの授業で先生に聞いてきた字を、花は兄弟の目の前で書いて見せる。
「自分で書いてみたら?この前まで基本は教えたよね」
花がそういうと、兄の方がうなずいた。
「うん。やってみる」
弟の方も真剣な顔で覗き込んでいる。

花はそんな二人の幼い横顔を見ながらほほ笑んだ。筆を持って先生のお手本を見ながら慎重に書いている兄に花は話しかけた。
「どう?今日も木の実を買ってもらえたの?」
花が聞くと弟は「うん!」と大きくうなずいた。兄の方が答える。
「いい値で買ってくれたよ。花のおかげだ」
「私はなんにもしてないよ。珍しい木の実だって料理長さん言ってたし、がんばってとってきてる二人のおかげだよ」
花がそういうと、兄は首を横に振った。
「城の厨房みたいなところは、いい値で買ってくれるし安定してるからありがたいんだけど、たいてコネがあるやつしか出入りできないんだ。だから俺らみたいなのはまず無理。花が厨房の料理長を紹介してくれなかったら、俺たちはずっと城の外のあの広場で木の実やキノコを売ってなきゃいけなかった」
「……そっかー…」
ふとしたことで知り合ったこの幼い兄弟。
孟徳と街へお忍びで出かけた時に、城のすぐ外の広場で親をなくした兄弟二人が山からとってきたキノコや木の実を売っていた。兄弟を見た時、花はなんとなく元の世界での弟を花は思い出してしまって、おなかをすかせていた彼らに手持ちの肉まんをあげたのだ。
親を亡くして生活に苦労しているらしい二人に何か力になれないかと花は考え、厨房謀の料理人に紹介してみた。そうしたら、定期的に売りに来るようにと言ってもらえたのだ。

「できた!これでいい?」
兄が木札に書いた字を見て、花はうなずいだ。
「うん。この字は前に教えたよね?これと組み合わせて使うんだね」
「花よりお兄ちゃんの方がうまくない?」
「うっ…確かに」
弟の指摘に花は肩をすくめた。兄弟たちに読み書きを教えればこれからの生活の足しになるかもと、自分の勉強に合わせて厨房の裏で読み書きを教えてきたが、兄弟たちの覚える速度はすごいのだ。
花が文字に接している時間は授業の時だけだが、彼らは生きるすべとして習った文字をすぐにあちこちで使い、また読めない言葉を花に教えてもらいにやってくる。
「私が教えてもらうのはもっと…なんていうのかな、詩とかそういうのなんだよね。こういう『安い』とか生活に密着した言葉は教えてもらえないんだよ。だから韻をふむとかそういうのなら私のほうがまだ上だと思う」
花が年上のメンツを保つためにすこし偉そうにそういうと、兄の方が不思議そうに聞いた。
「え?そうなの?じゃあ花はどうやって『安い』とか『キノコ』とかを知ったの?」
「先生に聞くんだよ、それはもちろん」
「……花みたいな女官がそんな言葉を知りたがるのって、先生は変に思わないの?」
花は、『激安!』という文字を教えてほしいと言った時の、あの冷たい先生の微妙な顔を思い出した。
「……変に思ってる……と思う」
兄弟はぶーーっと吹き出した。文字を勉強している女官から、『激安』や『キノコ』やらを教えてほしいと言われて目を白黒させている先生が思い浮かぶ。
「あっはっはははは!花、変なヤツって思われてるよ!」
「だって、教えてほしいって言ったのはそっちなのに…!」
花は笑われて赤くなったが、しばらくすると一緒になって笑い出した。それにまた兄弟たちは笑い転げる。

花のことを下級の女官だと思っている兄弟との、こうした気楽な会話はとても楽しい。
先生から教えてもらって読めるものが増えていくのもやりがいがある。
孟徳とずっと一緒にいたいのはやまやまだけど、丞相は忙しいのだ。かといって一人で刺繍をしたり人を集めてサロンのようなものを開いておしゃべりをしたり…という、この時代の高官の妻がやるようなことは花にとっては苦痛以外の何物でもない。
その中で、花が自分で見つけた安心できる関係。

孟徳に言っても頭から禁止はしないと思うけれど、花はもう少し自分だけの世界を楽しみたいと思っていた。




一方、文若は自分の執務室で、とある人物と面会をしていた。
廊下に面した窓しかなく、それにも薄い布がかけられ中が見えないようになっているため、部屋は薄暗い。広く重厚なつくりの机には文若が座り、向かいに面会者が立っている。
面会者は、花の読み書きの教師だった。
背が高くすっきりとした美人だが、あまり自分を飾るのは趣味ではないようで地味な衣装を着ている。
「……で、本日はここまで進みました」
教師が指導に使っている書を指し示すと、文若はうなずいた。
「なるほど、順調なようだな」
「はい。異なる言語では教育をきっちり受けていたようで、体系だった教養はお持ちです。ですので、新しいことを教えてもすぐに吸収できます。発想も新鮮なものが多く頭の回転が速い方だと感じました」
「わかった、これからもこの調子で進めるように」
「かしこまりました」
そう言って礼をして立ち去ろうとする教師を、文若は呼び止めた。
「待て、その……親族の様子はどうだ」
教師は立ち止まると振り返る。
「叔父のことでしょうか?」
「いや、お父上の方だ」
「父は……今回のお申し出をありがたくお受けしています。今は家で書を読み静かに暮らしているようです」
「ふむ。こちらの様子を文で伝えるといい。安心するだろう」
教師は、ありがとうございます、と丁寧に礼をして部屋を出て行った。

「……」
文若はしばらく彼女が出て行った扉を見つめていた。立ち上がると、部屋の隅にある豪華な飾り彫りがされた衝立の後ろに回り込む。
「丞相。いかがでしたか」
そこには孟徳が座っていた。
目線だけで、文若を見る。
文若は孟徳の前にある椅子に座った。

「許都にいる彼女の叔父の方は時勢がわかってるんだけどね。地方の父親の方は頭が固いな」
孟徳が背もたれにもたれながら伸びをする。文若は相変わらずの無表情だ。
「しかしあれの父親は牧であり、あの地域はやっかいです」
「そうだな。玄徳の勢力と接している。三国分立が建前上でも成っている今は攻め込むわけにもいかないし、かといって放っておいて玄徳側に通じられるのも痛い」

あの教師の父親は地方で牧をしており、叔父は許都で高官としてこの城で働いていた。
叔父とその息子が、地方の牧であるあの教師の女性の父親が、地方で孟徳に反抗する者達を招き怪しげな動きをしていると忠言してきたのはつい先日のことだった。
「あのような立派な玉まで献上し、自分たちには二心はないことを証明したかったのでしょうな」
文若が思い出すように言った。
花への首飾りとなったあの玉だ。
あの会見のあと彼らと話して、父親の方の忠誠心を計ってみることになったのだ。方法としては娘を差し出すように、父親へと告げた。人質というわけだ。
通常、この場合は女官として城に努めるようにと言うのだが、今回は花の教師として城に勤めるようにと指示をした。
この牧の娘は嫁にも行かずに学業三昧の変わった娘と評判で、それなら花の教師としてもうってつけだろうと言ったところ、恐縮して差し出してきた。自分達の孟徳失脚についてのはかりごとについて孟徳が感づいていることを薄々さっしていたのだろう。大目に見てもらえるならと、即答だったらしい。

考えるように顎を撫でて空を見ている孟徳に、文若はすこし迷ってから言った。
「丞相。あれの父親が望んでいるのは、漢王朝の正統な統治です。丞相が魏王になるつもりがないのでしたら、そのように正式に発表されるのがよろしいかと思います。そうすれば謀反の心も収まるかと……」
孟徳はにやりと笑うと、横目で文若を見た。
「お前の信念にも合致するしな」
「……」
孟徳は立ち上がる。
「例えばここで俺や玄徳、呉のあの坊主がいなくなれば、漢王朝が復活すると思うか?……まあお前をはじめ、玄徳やあの教師の父親やそれに賛成するやつらは思うんだろうがな。漢王朝だからといってまともな統治ができるわけじゃない。力と知恵がいる」
「ですからそれを、丞相をはじめ有能な者達が官として支えて……」
「わかったわかった。もうこの話はやめだ」
孟徳はそういうと出口へと歩き出した。文若は後を追う。孟徳は扉を開けて文若を見た。
「お前は有能だ。与えられた命題を解くだけならお前以上に有能なものはいないかもしれない。だけど、それでは現状維持しかできない。現状が苦痛のない桃源郷だと思うのか?」
孟徳はそう言い捨てると、そのまま足早に文若の執務室を出て行った。



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