【掌中の珠 7】
「孟徳さん、さっき言いかけた話なんですけど、私、やっぱり読み書きができるようになりたいです」
孟徳は、突然どうしたのかという顔で花を見た。
「文若さんから習うのがダメなら、女の人とかどうですか?孟徳さんが、この人ならっていう人で女の人でもだめでしょうか」
「どうしたの?突然」
「一回ダメって言われたんであきらめようと思ってたんです。今でも簡単な文字は読めなくはないんですけど、書くのはほとんどできないし……。それで孟徳さん、忙しいから字以外で孟徳さんとお話しできたらいいなって思っていろいろやり方を考えてみたんですけど、どれもうまくいかなくって。このままで孟徳さんがもっと忙しくなったらって思うと不安なんです。字を習えたら孟徳さんと会えないときには、私、いっぱい手紙を書きます。私も孟徳さんからの手紙も長くても読めるようになるし……。会えなくて連絡もないままずっと離れているのはさみしい、です」
花は、孟徳が遠征に出て何か月も一人でこの城で過ごすことを考えて最後の方は暗い声になってしまった。
元譲も一緒に行ってしまうだろうし、文若は孟徳と元譲がいない分もっともっと忙しくなるに違いない。城で一人で、ずっとぼーっとしているなんて寂しすぎる。
「花ちゃん……」
震える声で名前を呼ばれて、花は上を向いた。それと同時にむぎゅっと思いっきり孟徳に抱き寄せられる。
「むがっ」
「花ちゃん!!!!」
横で元譲が呆れた顔をしているのがちらりと見えたが、後は孟徳の衣で何も見えなくなってしまった。
「も、孟徳さん……くるし……」
花がもがくと、孟徳は「ごめんごめん」と腕の力を緩めてくれた。
「あんまりかわいいことを言ってくれるからついつい。俺がいないとさみしいの?」
満面の笑顔で覗き込まれて、花は言葉に詰まった。
「そ、それは……」
頬が赤くなる。
「さみしいんだ?」
孟徳が嬉しそうに追及してくる。
「……」
花はしばらく孟徳の視線に耐えていたが、とうとう小さい声で答えた。
「それは……さみしいかさみしくないかって聞かれたら、さみしいんじゃないかなって……」
「花ちゃん……!」
また抱き寄せられそうになって、花は一歩後ろに下がった。
「よしよし。じゃあ勉強をするのは許可しよう!先生はもちろん文若じゃだめだけどね。女で……そうだな、ある程度身分もあるほうがいい。俺の方で考えておくよ」
花は目を見開いて孟徳を見上げた。
「いいんですか!?」
「うん!当然!そこまで俺のことを考えてくれてるのに、ダメなんて言わないよ。考えてみれば、昼食を二回食べちゃったのとか、かんざしの意味がわからなかったのとか、あれも君が考えた字以外の方法だったんだね?」
「そうなんです。……うまくいかなかったんですけど」
「それも君が字を書けるようになったら解決する話だったしね。うん、決めた。さっそく手配しようか」
「わーい!ありがとうございます!」
花は思わずぴょんと飛び上がってしまった。
「礼なんて言わなくていいよ。俺のためにもなることなんだし」
「でも嬉しいんです。ありがとうございました」
二人でいちゃいちゃ話していると、元譲が後ろから白けたように声をかけてきた。
「……話し中すまんが、城内に入ったし俺たちはもう解散でいいか」
孟徳はつまらなそうに振り返るとうなずいた。
「ああ、そうだな。……花ちゃん、君も今日一日中で歩いて疲れただろうから湯でも使ってゆっくりしてくるといい。夕飯は一緒に二人で食べよう」
「はい!あ、孟徳さん、夕飯の後何か予定はありますか?」
孟徳の顔に文若の渋面が浮かぶ。今日一日なにもしていないからさぞ仕事が溜まっているだろう。でも今日は一日何もしないと了解させたのた。明日の朝でいいだろう。
「何もないよ」
「よかった。じゃあちょっと私に時間をもらっていいですか?」
「?いいよ?」
「ありがとうございます」と言って花は自分の部屋の方へと急いで立ち去った。
孟徳は手を振りながらそれを見送る。顔が自然ににやけるのはしょうがない。今日は一日花を満喫できたし、かわいい言葉も聞けたし。
気づくと元譲が隣に並んで立っていた。
「……よかったのか」
「何が?」
「あいつが文字を勉強することだ。禁止していただろう」
孟徳はちらりと元譲を見た。
「花ちゃんには字もあまり読めずこの世界についての知識も少なく、飛べないままの小鳥でいてほしかったんだけどね。彼女は賢いから字が読めるようになったらいろいろと学んでいってしまうだろ」
元譲は首をひねった。
「それの何が悪いかわからんな」
「何も知らないままだったらここから逃げてもすぐに捕まえられる。いや、賢い彼女はそもそも今の状態で逃げ出したら生きていけないとわかっていたら逃げ出さない。文字書きやこの世界の常識があれば、逃げ出したあとでも生きる手立てを見つけやすくなる」
「……」
元譲はため息をついた。
これはもうどうしようもない。こんな男に惚れて惚れられた運命だと思って花はあきらめるしかないのだ。
「それに、一度断られたのにあきらめずに行動や言葉で俺に納得させたのも見事だったしね」
孟徳が楽しそうに小さく笑った。
「どういうことだ?」
「あの子が字が読めた方が俺にも利点があるって俺に思わせるように、いろいろ考えて行動してたってこと。やっぱり優秀だな。部下をやめさせたのはもったいなかったけど、でも部下で奥さんっていうのも立場的に難しいからなあ」
満足げな孟徳に、元譲はもう一度ため息をついた。
「……獅子身中の虫を面白がって育てるのは、おまえの悪い癖だぞ」
「あの子はそんなんじゃないよ」
客観的にはそうだが、孟徳個人としては違うだろう、と元譲は思った。
孟徳は強い。
裏切りにも陰謀にも悪意にも慣れていて、感情に惑わされずに冷静な判断を下す。
それが彼を今の地位まで導いてきたのだ。
だが、花については、孟徳の中で唯一予測できない不安要素だと元譲は思う。
花に何かあったら。
花が何かしたら。
ここまで花に夢中になっている孟徳はいったいどうなるのか。それでも魏について、中華全土について冷静な判断を下すことができるのだろうか。
孟徳は危険をもてあそぶところがある。しかしその危険を大事に育てて自分の強力な武器に変えてしまうのも、孟徳の能力なのだから安易に止めるのも善し悪しだ。
元譲は腕組をした。
「お前の悪いところはその公平性だな。能力がある人間を見ると活かさずにおれない」
元譲の言葉に孟徳も笑った。
「そうだな。能力のある人間は逃げ出すのもうまいからな。逃げ出す気がなくなるようにしないと」
「……あいつの件に関しては、逃げ出したりしないだろう?」
元譲の言葉に、孟徳は何も言わずにほほ笑んだだけだった。
「あれ?それ、俺の部屋に置くの?」
一緒に夕飯を食べ風呂から出て自室に戻った孟徳は、自分の部屋にさっき花におねだりされて買ったものが並べられているのを見て驚いた。
植木鉢だ。
それも一つや二つではない。
大きなものは男でも抱えなくてはいけないようなものだし、それ以外にも中くらいの大きさのもの、葉ばかりのもの、木のようになっているもの、花が咲いているものと全部で5,6鉢あるだろうか。
これのせいで今日のお出かけデートの後半、護衛はほとんど荷物持ちとなっていた。
植木鉢の前にいた花は、振り返った。
「はい、だめでしょうか?」
「いや、別に駄目じゃないよ。でもなんで?木なんて庭に手入れされたのがたくさんあるよね」
「そうなんですけど、植物は癒されるじゃないですか」
「癒す?」
花は真面目な顔で大きくうなずいた。
「そうです。人間の吐いた息を吸ってきれいな空気を出してくれるんです。だから部屋にあると空気がきれいになるんですよ。それに緑は目に優しくていいんです」
「……はあ……」
花はぼんやりしている孟徳の手をとると、寝椅子の方へと引っ張る。
「さあ、ここに座ってください。これからマッサージをします」
「まっさあじ?」
座りながら孟徳は聞き返した。今日は一日『デート』をして終りかと思っていたが、まだ何かあるのか?
「そうです。部屋の空気をきれいにして、目に優しい緑をたくさん置いて、マッサージをします。私、お父さんによくやらされていたんで上手ですよ」
「まっさーじって何?」
「こうやって……」
花はそういうと、孟徳の広い肩を手のひらで押さえた。
「コリをほぐすんです。目が疲れると頭痛がおこるときもあるし、ずっと同じ姿勢でいると肩こりから頭がいたくなることもあるみたいなんです。だから適度に運動してこりをほぐさないと」
花の手のひらが驚くほど的確に孟徳のコリを見つけ、丁寧にほぐしていく。
「これは……針やよくやるけど、こんな風に痛くないのは初めてだなあ……気持ちいい」
「そうですか?痛かったらいってくださいね」
首、背中、腰へと姿勢を変えながらもんでもらっていると、優しい感触に花のいい匂いに、眠り込んでしまいそうなくらい心地いい。
「あ、そこ!痛い!」
「ほら、やっぱり目が疲れてるんですよ。遠くを見るように気を付けるといいみたいですよ」
花の小言を聞きながら、孟徳は一緒に物見台に上ったことを思い出した。遠くの木や山やらをやたらとみるように言われたっけ。
「そっか……」
自分は心配してもらっていたのか。
心配して大事にされていたのだ。
孟徳は彼女の手が触れているところから暖かさが伝わり、胸の奥までじんわりと暖かくなるような気がした。
彼女の気晴らしに、彼女のわがままを聞くつもりで一日あけたと思っていたら逆だった。
こびへつらう人間はたくさんいるが、ここまで私生活に口を出して優しくいたわれたことなどあっただろうか。
「……ありがとね」
彼女の膝に頭をのせて、指で顔をマッサージしてもらいながら、孟徳は言った。こめかみを優しくもまれ、重かった頭も軽くなる。
「え?なんですか?」
「いや、なんか……」
嬉しいという言葉ではあらわせない。
ぴったりなのは『幸せ』だろうか。
孟徳は薄目を開けて、真剣な顔でマッサージをしてくれている花を見上げた。
こんな気持ちになることがあるとは思っていなかった。
孟徳は幸せをかみしめながら、再び目を閉じたのだった。