【掌中の珠 10】 


 





花が立ち去った後、元譲と孟徳はかいがいしく手入れされている馬を眺めながらその場に残っていた。

「……どうするんだ」

唐突な元譲の問いに、何をとも聞かずに孟徳は答える。
「手はもう打ってるよ。とりあえず地方の関係は、みんな清算した。あのへんはみんな向こうから差し出してきた娘ばっかりだったしそんなに長く滞在もしてないところばかりだし」
「関係もあいまいだろうな」
孟徳はうなずいた。
土地を征服すると、その土地のボス的な男が地域の美女や自分の娘、親族の娘などを賄賂として差し出してくるのがふつうだ。孟徳はそういったものはありがたくいただいておくことにしているので、継続的な関係といえるような女はいない。
そしてそれは、この許都にある孟徳の本邸でも同じことだ。
「お前は管理もせず来る者拒まずで好きなように食い散らかしすぎだ。前々から文若に言われてただろう。まあ、遠征や戦が多くてそう頻繁には通えないのはわかるが、だからと言って女が他に間男を作っても咎めもせずに邸においておくのは問題の元だ。気に入ってるのを2,3人だけ選んできちんと通うんだな」
元譲の説教に孟徳は肩をすくめた。
「そんなことをしたら花ちゃんに嫌われちゃうよ。聞いたろ?あの子、嫌うどころかこの城から出ていくらしい」
「えらい執着の薄さだな」
元譲はからかい半分でニヤニヤと笑いながら言ったのだが、孟徳は口に笑みは浮かべていたものの、瞳は笑っていなかった。
「あっさり出ていけるんだろうな、あの子は本当に。たとえ元の世界に戻れないとしても、変わってないってことか。結局、鶴は人間にはなれないのかな」
「鶴?」
冷やりとした孟徳の雰囲気に、元譲はフォローするように言った。
「あいつを正妻にすればいいだろう。それにお前は、そりゃ妾はたくさんいるにはいるが、それはあいつに会う前の話だろう?」
孟徳はうなずいた。
「そうだな、彼女と会ってからは……。戦続きで忙しかったこともあったけど、ほかの女とは会ってもいないよ」
元譲はうなずいた。
「あいつを正妻にしろ。お前の邸に引っ越しさせて……は、いろいろ難しいだろうから、この城でいいからあいつと一緒の部屋に住んで生活をして子供を作れ。そこまで特定の女をきっちり扱えば、うるさく言ってくる奴らは今のお前にはもういないだろう。女と引き換えに自分の立身出世を望む奴らもあきらめるだろうし。そうでもしないと娘やら美人やらの貢物はとまらんぞ」

孟徳は柵によりかかるとのけぞるようにして空を見上げた。
ふー……と長い溜息をつく。
茶色の長めの前髪が、吹かれてなびいた。

特定のお気に入りの女性がいない状態で、娘や親せきの娘を献上してくる者を拒否するのは難しい。
相手のメンツをつぶすことにもなる。
だがこの状態のまま拒否せずにどんどん妾を受け入れれば、実際にはその女たちに通っていなかったとしても、花に知られたらどうなるかわからない。
だが花が正式な妻となるか、もしくは孟徳にとっての唯一の思い人だと内外に知れ渡れば、拒否することは可能だ。
孟徳は閨閥を作ることを良しとしないので、地位としての正式な妻を作ることはするつもりはなかった。
それに丞相にとっての正式な妻にするにしては、花には身分も財産もなさすぎる。そのどちらもない女性を正妻とすることは、乱れのもとになる。
そして、妾の中でも特定な女を作らなかったのにも、同じような理由があった。
1人の女ばかりに通い、子を何人も成した場合、当然ながらその女の父親や兄たちの力が強くなるのだ。そしてそんな女が2〜3人いたらもう……陰謀策略が渦巻く権力闘争が裏で繰り広げられるのは明らかだ。
過去の為政者たちが、男であるがゆえに皆落ちてきた罠だと、孟徳は考えていた。

そういう意味でも、花ちゃんは都合がいいんだよね。

孟徳は夕焼けが広がる空を見上げながら、そう思う。
まず第一に、孟徳がこれまでにないほど気に入っている。そのうち飽きるとか飽きないとか、そういう感じではなく。
そして、政治に口を出して来たり便宜をはかるよう言ってきそうな面倒な親族が一切いない。
そこまで考えて、ふいに玄徳の顔が横切り、孟徳は眉をひそめた。

あいつはまあ花ちゃんの実家みたいなもんだけど……、こっちのことには口を出してこないからな。

花を、今の状態で自分の唯一の人にしたい。
もとから考えていた閨類関係の理想と、花の状況はぴったりと合うのだ。
ただ……
「花ちゃんが『うん』と言ってくれないんだよねー……」
孟徳は空を見上げながらあきらめたように言った。
「仲はいいんだから、許可なんぞもらはなくても強引に部屋を引き払わせたらいいだろう」
元譲が当然のようにそういうと、孟徳は苦笑いをして首を横に振った。
「花ちゃんがけがをしたあの騒ぎを覚えているだろう?あれはもとはと言えば俺が彼女の意思を無視して俺の邸に閉じ込めたせいだ。あの子は城から……俺から逃げようとして、俺の暗殺をもくろんでいたあいつらに利用されたんだ」
低くなった孟徳の声に、元譲は顔を見る。

あっという間に陽が落ちて暗くなり、孟徳の表情はわからない。
だが元譲には、孟徳の決意を込めた茶色の瞳をしていることがわかっていた。
孟徳は二度と同じ間違いを犯さないだろう。
花が襲われて何日も意識を取り戻さなかったあの事件は、孟徳の心の奥深くに深い傷をつけたことを元譲は知っていた。

「まあ……そういうことなら、ゆっくりやるしかないな」
ため息とともに元譲はそう言った。
孟徳は空を見あげたままだ。
「勉強や乗馬や……この世界でできることが増えれば、部屋を一緒にしてもいいって言ってくれてたんだけどね。でもそれが、あの子が俺の手から逃げるときの有効な道具になるとは思ってなかったな」
元譲は思わず笑ってしまった。
「あいつの方が一枚上手じゃないか。お前が囲い込むために許した事は、お前から逃げ出すのも簡単にするというわけか。かといって禁止にしたら、そもそも囲い込ませてもくれない、と。お前が搦め手で身動きとれなくなってるとはな」
そして腕を組み、自分のセリフに納得してうなずく。
「さすが軍師だな」
「頭で計算してやってるとは思えないところがまたやっかいなんだ」
孟徳も笑い出した。
思い通りにならなくてイラつくことはあるが、この自分にそんな思いをさせる人間がまだこの世にいたのかと楽しい気分もある。玄徳や仲謀は、当然ながら思い通りにはならないが特にイラつきはしない。どうやって戦や謀略に勝つか、淡々と策を練るだけだ。
憎らしくてもどかしくて、いとおしい。
いとおしいからこそ甘く焦がれるのだ。

すっかり暗くなり馬番の男たちも挨拶して去っていく。
孟徳と元譲も、城内へと歩き出した。
「まあ、ゆっくりやれとは言ったが跡継ぎの問題もある。お前の地位を継ぐことになるのだから、早めに決着をつけた方がいいだろうな」
元譲の言葉に、孟徳は彼の顔を見た。
何も言わずにまじまじと見てくる孟徳に、元譲は首を傾げる。
「なんだ」
「いや……お前とは長い付き合いだからある程度俺の考えていることはわかっていると思っていた」
元譲は盛大に顔をしかめた。
「……お前の考えていることがわかる者などこの世におらん」
孟徳はにやりと笑った。
「だな」
孟徳の考えは、通常は周囲に受け入れられることが少ない。
そのため戦や施政で実績をあげ、有無を言わさず納得させて受け入れさせてきたのだ。孟徳にしてみたらなぜわからないのか、そちらの方が不思議なのだが。

歴史、慣例、伝統そして保身

何も問題なくすべての人間が幸せに暮らせるのなら、それも悪くない。
だが実際は一部の人間の横暴に民は疲弊し土地は痩せてしまっている。漢王朝はその枯れ果てた国土からなお、最後のエキスをしぼりとっている。
変えるためには壊さなくてはいけない。





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