賭け
「今日の朝、沖田と一緒に出勤してたでしょ」
月曜の午後、給湯室で千鶴がマグカップを洗っているると同じ第二担当の例の既婚者が冷蔵庫の水を取り来た。そして千鶴が居るのに気が付くと、そう話しかける。
給湯室はドアは開いているものの中にはもちろん千鶴とその既婚者だけだ。
「……」
結局週末ずっと総司は千鶴の家に居て、日曜日の夜も帰らなかった。Yシャツと下着とネクタイ、私服を新しく買って、月曜の今朝も一緒に千鶴の家から会社へ向かったのだ。
千鶴は、さすがに会社の入口まで二人で来るのには抵抗があり、例のモニュメントの辺りで二人で別れて別々に出社したのだ。この既婚者は駅からモニュメントまでのところで、総司と千鶴が一緒にいるところを見たらしい。
千鶴は何と答えたらいいのかわからず、顔を赤くして沈黙する。
「去年の冬の沖田の電話で、つきあっている、って言ってたけど、会社ではそんな風に見えなかったから、どうなのかなって思ってたんだけどね。うまくいってるんだね」
千鶴が顔をあげると、既婚者は優しく微笑んでいた。
「あ、ありがとうございます……」
恥しそうに千鶴がお礼を言うと、既婚者は「あ〜あ」と言って伸びをした。
「結局賭けは沖田が勝ちってことかぁ」
「賭け?」
千鶴が首をかしげて聞き返すと、既婚者は肩をすくめてうなずいた。
「去年の夏の終わりごろに、賭けをしたんだよ。沖田と俺と……おっ原田!ちょうど話してたところだよ〜」
既婚者は千鶴の向こう側、廊下の方に視線をやり、来い来い、というように手招きをする。
「何だよ?俺の話か?」
後ろから聞こえてきたのは、左之の艶やかな声だった。千鶴に「よっ」と挨拶をして、たまたま通りかかっただけのようだが給湯室に入ってくる。既婚者が先ほどの続きを話し出す。
「ほら、お前も覚えてるだろ?賭けしたろ、三人でさ。誰が雪村さんをおとしてお持ち帰りするかって」
一瞬彼が何を言っているのかわからなかった。
しばらくして既婚者の言葉の意味が頭の中にまで浸透すると、千鶴は冷たいものを頭からかけられたように体の芯が冷たく震える。
隣の左之も目を見開いて固まっている。
「賭け……」
千鶴がぼんやりとつぶやくと、何も気づいていない既婚者が呑気に笑った。
「そうなんだよ。誰が最初に行くかって話してた時に、沖田のやつろくに話も聞かないで雪村さんを誘いに行っちゃってさ。で、なし崩し的にアイツがトップバッターになったんだけど。まぁ今朝一緒に出勤したってことは『お持ち帰り』も成功したってことで、俺ら賭けに負けたってことだよなぁ、原田?何を賭けてたんだかわすれたけど、まぁ一回沖田をおごってやるくらいでいいかなぁ」
「おいおいおい…おまえ、ちょっとそれは……」
左之が千鶴の顔を気遣わしげに見ながら、べらべらと話す既婚者をたしなめる。と、既婚者は廊下を背にして立っている左之と千鶴の向こう側を見て、「おっ」と嬉しそうに目を見開いた。
「沖田まで。これで役者がそろったな〜!なぁちょうど今お前と雪村さんのことを話してたんだぜ。一回おごりでいいよな?」
「左之さん、7階でこれから打ち合わせですよね?ココで何してるんですか。おごりって何の話ですか?」
背後から総司の声が聞こえてきた。千鶴の隣に来て、既婚者と左之、千鶴の顔を見ている気配を感じるが、千鶴は顔をあげられなかった。
賭け……
賭けをしてたんだ。
私を誰がおとすかって……
お持ち帰り。
私、男の人とろくに付き合ったことがないから……
鼻の奥がツンとして、絶対この場所で泣きたくはないのに目の周りがじわりと熱くしびれたようになる。
これまでの総司の態度からは、そんなことは全く分からなかった。男性の友達もいなくて、多分普通の女の子ならひっかからないようなことにも、簡単にだまされてしまっていたのだろう。全く疑いもせずに信じ切っていた。
週末から今朝にかけての浮かれた自分が恥ずかしくて情けなくて、千鶴は消えてなくなってしまいたかった。
総司の顔がまともに見られない。
浮かれている千鶴を見て、総司が心の中で笑っているような人だとは思っていなかったが、でもこんなに男性のことを知らない自分の判断など、全くあてにならないということが今わかったではないか。
「あ、あの私……仕事にもどるので……」
顔を見られないようにうつむいたまま、給湯室を出て行こうとする千鶴を、総司は何かおかしいと思い呼びかけた。
「千鶴ちゃん、何か……」
左之も慌てて千鶴に言う。
「おいおい、ちょっと待てって。賭けの話はそもそも俺が総司と千鶴ちゃんをだなぁ…!」
「賭け?」
去年の夏の話などすっかり忘れていた総司は、いぶかしげな顔で左之と既婚者を見た。既婚者はようやく何かまずかったかと気づきだしたようで、戸惑いながら答える。
「あれ、なんかまずかった?お前らつきあってるんだろ?ほら、去年さ原田と俺と沖田で話したろ。雪村さんを誰がお持ち帰りできるか賭けようぜって」
何が起こったのかを正確に把握した総司は、素早く振り返り、給湯室を出て行こうとした千鶴の手首を掴んだ。
「千鶴ちゃん!違う、ちょっと待って!」
左之も駆け寄る。
「そうだぞ千鶴ちゃん。ちゃんと話を聞いてくれねぇか」
総司と左之を見上げた千鶴の顔は、傷つきと戸惑いが出ていて総司の胸はひどく傷んだ。左之が千鶴の方を向いて、真剣に言う。
「お持ち帰りってのは、自分の家に連れて行くことだろう?先週末は千鶴ちゃんの家に総司が行ったってことは、お持ち帰りなんかじゃねぇよ」
「左之さんはもう黙っててもらえますか」
ぴしゃりと総司は左之に言っている間に、千鶴は廊下に出てオフィスへと歩き出してしまっていた。
「千鶴ちゃん、ちょっと待っ…」
追いかけようとした総司より先に、千鶴の担当の課長が千鶴を見つけて話しかけてしまう。そしてそのまま二人で第二担当へと戻って行ってしまった。総司はどうしようかと迷ったが、まず給湯室へと戻る。そこでは左之と既婚者が叱られた仔犬のようにしゅんとして立っていた。
「悪かったよ……。俺、なんか無神経で……」
既婚者が謝る。
「俺も、なんつーかずれてたよな……」
左之が困ったように言う。
総司は怒りを抑えて冷たく二人に行った。
「僕は賭けに乗って彼女を誘ったわけじゃないし、そもそも賭けをした覚えもありません。今後一切そんな誤解を生むようなことは言わないでください。いいですね」
しょんぼりと頷く二人を置いて、総司はオフィスへと戻った。第二担当へと行くと、千鶴の席には誰も座っておらず、しかもパソコンも電源が落ちて片付けられている。
「……」
辺りを見渡して千鶴を探していると、千が声をかけてきた。気にして追いかけてきた左之もやってくる。
「千鶴ちゃんですか?なんだか頭が痛いとかでさっき早退しちゃったんです。すごく顔色が悪くて……沖田さん何か知ってます?」
千の言葉を聞いて、総司はパッと左之を見る。左之はすぐに察した。
「わかった。課長には言っておくからお前も帰れ」
先ほどの失態のお詫びとでもいうように、左之は頷いた。総司はもう自分の席へと歩き出しながら、左之に礼を言う。
「ありがとうございます。腹痛でお願いします!」
急いで机を片付け、コートとカバンを持ってオフィスを出て行く総司を、千と左之は眺めていた。何があったんですか?と聞いてくる千に、左之が事情を話す。
「ああ、なるほど……。それは千鶴ちゃんじゃなくても頭が痛くなりますね……」
千が呟く。
「総司も、腹痛っていうより胸痛だな」
左之の言葉に、千がちらりと彼を見た。
「無駄にうまいこと言っても、給湯室での罪は消えませんよ」
千の冷たい言葉に、左之は頭を抱えた。
「あ〜!言うなって!反省してんだからよ〜」
本当に心の底から悔やんでいるような左之の様子に、千は苦笑いをして溜息をついた。
「……大丈夫なんじゃないですか?すぐに後を追いかけたし、きっと明日には仲良く二人で出社してきますよ」
「……だといいんだけどな……」
二人の仲直りを祈るばかりの、左之と千だった。
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