誤解
心の一部が凍ったまま、千鶴は自分の部屋にあがりカバンを置きコートを脱いだ。
会社を早退してしまった。
あの場所にいるのがどうしても耐えられなくて。
でも明日も仕事だ。
総司には必ずあわなくてはいけないのだから、今逃げ出したことは何の解決にもならないのだ。
泣いて怒って責めて、謝罪してもらって、終わりにすればいいのかもしれない。でも今の千鶴にはそんなことはとてもできなかった。
薄暗い部屋の隅っこで、血を流している傷を一人で舐めるだけで精一杯。どうすればいいのかわからないけれど、とにかく一人になって頭と感情を整理したかった。
思えば確かに最初から変だった。
特に仲がいいわけでもないのに突然夕飯に誘われた。舞い上がっていて深く考えていなかったがかなり唐突だった。話の流れで一緒に夕飯を食べに行くことになった、とかではなく、本当に唐突に誘われたのだ。
あの時に、普通の女の子だったら何かおかしいって思ったのかな……
あいにく千鶴は全く疑りもせず、総司と一緒に夕飯を食べに行けることだけで嬉しくて頭がいっぱいだった。多分あれが賭けだったのだ。その後だって、優しくされたことなんてない。意地悪されたり冷たくされたり、ランチを自分から誘っておごったり。さぞかし必死に見えたに違いない。
千鶴はその時の自分を思い出して、恥ずかしくて両手に顔をうずめた。涙も一緒に出てくる。
そうだ。総司は最初から千鶴には冷たかったのに。賭けで誘われただけで勘違いして、ランチに誘ったりメールアドレスを聞いたり。「つきあっている」の話も、総司は千鶴に言うよりも前に、あの先ほどの既婚者に携帯電話で言っていた。普通は彼女の方に言うものだろう。
「っ…うっ…」
千鶴の口から声がもれた。手のひらでぬぐってもぬぐっても涙が出てくる。恋愛経験のない自分にとって、これがいい勉強なのかもしれない、と千鶴は思ったが、つらすぎた。総司のような素敵な人が、自分を誘ってくれるだけでおかしいとおもわなくてはいけなかったのだ。
無知で、経験がなくて、馬鹿な自分に嫌気がさして、千鶴はぽろぽろと涙を流し続けた。
最悪なのは、それでも総司を好きなことだった。
こんなひどいことをすることができる人間だとわかっても、それでも一緒にフリーマーケットを冷やかしていたときの楽しそうな笑顔や、クリスマスイブの時の優しいキスや、バレンタインの時の千鶴を求めている真剣な緑色の瞳が、嘘だとはどうしても思えない。
「ほんと馬鹿……」
千鶴が小さく呟いた時、ピンポーンと呼び鈴が鳴った。
とても出る気になれなくて無視をしていると、扉をドンドン叩いて声が聞こえてくる。
「千鶴ねーちゃん!クッキーの空きビン!」
同じ階の子の声だ。そういえば月曜日にビンを返しに来るって言ってたっけ……
このままだといつまでもピンポンを鳴らされそうで、千鶴はしょうがなく鍵をはずして玄関のドアを少しだけ開けた。
その途端、すごい力でぐいっとドアを大きく開けられる。
千鶴がハッとして上を見上げると、そこにいたのは総司だった。後ろの方に同じ階の子どもがビンを持って不思議そうにこちらをみているのがちらりと見える。
千鶴は素早くドアを閉めようとしたが、総司は足を隙間に入れて、さらにドアの上の部分に手をかけて、ドアを閉めるのを阻止していた。
「チェーンをかけろって言わなかったっけ?」
「沖田さん……!帰ってください」
「いやだ。話を聞いて」
「もう聞かなくてもわかってるんで……!もうこれ以上は……」
後半は泣き声になってしまって、千鶴は唇を噛んだ。
「ほら、誤解してる。違うんだよ、ちゃんと話を……」
入口のドアのところで押し問答をしている総司の後ろに、同じ階の人が通りかかる。
「なにやってんだい?」
問いかける老婆の声。
「あ、ばーちゃん」
返事をしたのはドアを開けさせた同じ階の子ども。どうやら顔見知りのおばあちゃんが通りかかったらしい。
「このビンを返しに来たんだけど、千鶴ねーちゃんがドア開けた途端このにーちゃんが後ろから……で、今こんなことしてんの」
「こら!廊下でいつまで遊んでんの!ビンを返したんなら早く…あら?何してんの?おばあちゃんまで」
これはその子の母親らしい。向かい側のドアから顔をだして、息子と近所のおばあちゃんが廊下に立っているのを見て不思議そうに尋ねる。
「千鶴さんどうかしたの?」
廊下に出てきた少年の母は、総司の後ろで少年とおばあちゃんに話しかけた。
総司はちらりと後ろを見る。
後ろが騒がしいのが気になるが、今は千鶴の方が重要だ。
「千鶴ちゃん、こっち向いて話を……」
「もういいって言ってるじゃないですか。もう聞かなくてもいいです」
「浮気かね」
「そうかもしれないわねー」
後ろで呑気に話している二人に、総司は訂正をいれた。
「違います。浮気なんてしていません」
千鶴が口をはさむ。
「う、浮気よりひどいじゃないですか!」
「だからそれは誤解で……」
「じゃあこの男前のにーちゃんは何をしたっていうのさ?」
おばあちゃんが千鶴に聞いた。千鶴は一瞬口をつぐんだが、ギャラリーという味方がいるせいか総司を責めるような口調で言った。
「……男の人同士で賭けをしたみたいです。私を……その、だましてその……」
「貞操を奪えるかどうか賭けをしたってことかい?」
おばあちゃんが続けると、少年の母親が目を剥いた。
「まぁ!ひどい!!ちょっとそれひどくないですか!?」
「〜〜!だからそれは誤解だって!僕は賭けなんかしたつもりこれっぽっちも……」
「じゃあ、じゃあ!どうしていきなり夕飯に誘ってくれたんですか?あのスペイン料理の時です!特に親しかったわけじゃないのにおかしいですよね?」
おばあちゃんと少年の母親の追い風を受けて、千鶴が言い返した。総司はぐっと言葉に詰まった。それを見て千鶴はさらに傷ついた顔になる。
「……ほら、やっぱり……!」
千鶴が呟くと、ギャラリーの女性陣が援護した。
「ちょっとお兄さん、それはあんまりだわー」
「性格悪そうな顔してるしねぇ」
「静かにしてくれませんか。千鶴ちゃん、確かに最初に誘ったのは左之さんとかあの男(既婚者)と話しててそう言う流れになって誘ったんだよ。僕が誘わないと千鶴ちゃんがホントに賭けの対象になっちゃいそうで嫌だったからさ」
「それで沖田さんも賭けに乗ったんですよね?」
「非国民だね」
「というより人非人でしょう」
「このおにいちゃん、悪い人なの?」
「女の敵だね」
「違うって!」
劣勢の総司は強く否定する。
「僕は賭けには参加してないよ。バカらしい!賭けしてたことなんてさっきまで忘れてた。千鶴ちゃん!」
総司はそう言うと、がしっと千鶴の両肩を掴んだ。
「最初は僕も、自分の気持ちに無自覚で、変な始まりだったかもしれない。でも無自覚なりに君のことが気になってたんだ。左之さんとあの男が君をターゲットにしそうなのに我慢ができなかった。自分の気持ちもわかってなくて、君を不安にさせたことは謝るよ。本当にごめん。でもその後二人で積み重ねた時間は信じて欲しいんだ。あれは全て本当の気持ちで、君のおかげで、無自覚バカだった僕も、ようやく自覚することができたんだよ」
「熱いスピーチだね」
「千鶴ちゃん、ほだされちゃだめよ」
後ろの声は無視して、総司は続ける。
「君が好きだ。僕の言葉も信じられない?僕が言うことよりあの男が言うことの方が信じられるの?君と何回もデートしてメールして電話して、手をつないだのは誰?君といろんなことを話したのは誰?あの男じゃなくて僕でしょう?君が好きなのは誰?好きなヤツの言うことを信じられないの?」
「私……」
総司の緑の瞳は怖い位真剣だった。信じたいという気持ちが、彼の嘘を見抜けなくしているのかもしれないけれど、千鶴はもう騙すとか騙されるとかはどうでもよくなった。
だって沖田さんが好き…。
賭けだろうとヒドイ男だろうと、それは誤解だろうとなんだろうと、好きな気持ちは変えられないのだ。
もう誰が悪くて悪くないのか、最初から最後まで賭けだったのかそうじゃないのか、わからない。
でも今目の前で、私のことを好きって言ってくれている沖田さんを、私は好きで。
信じちゃいけないのかどうなのかわからないけど、信じたい。ううん、もう信じちゃってる。
「沖田さん……!」
千鶴はそう言うと総司の胸に飛び込んだ。すぐさまがっしりとした腕がまわされ、きつく抱きしめられる。
「沖田さん、私……私沖田さんが好きです…!賭けとか意地悪とかされても、好きで……」
「千鶴ちゃん、ごめん。ほんとに不安にさせて傷つけちゃったね。でも本当に賭けなんてしてないし、君のことも大好きだよ」
総司の声が震えている。抱きしめている腕も、まるで不安を表しているかのように必要以上に力が入っている。
見上げた総司の瞳は、とても真剣で。
これを信じられないのなら、もう千鶴は一生何も信じることもできないだろう。
「仲直りしたみたいですねー」
「犬も食わないってやつかね」
「ほら、私たちお邪魔虫ですよ」
「隣の花屋ががっくりくるね、千鶴ちゃんがこの男とくっついたら」
「あら、あの人結構しつこいから大丈夫じゃないかしら。まぁこの人もいいスピーチだったしなにより男前だしね〜!」
そんな話をしながら、ギャラリーたちは散って行った。
総司は千鶴を抱きしめたまま玄関に入る。
そしてドアを閉め鍵を閉めると、チェーンをかけたのだった。
※長い間応援ありがとうございます!次回で最終回になります!
そしてタイトルを決定しました!そうです、ご想像通り…ww
無自覚ラブ
ということで(仮)をとりました(笑)
BACK NEXT
戻る