バレンタイン 2
『俺の名前だしゃあ予約なくても大丈夫だからよ』
左之が電話でそう言っていたので、総司は特に深く考えずに入口で左之の名前を出した。
そこは駅近くのデパートの最上階。落ち着いた和食の店だ。
「ああ、原田様の……こちらへどうぞ」
にっこりとほほ笑んだ女将が案内してくれたのは、こじんまりとした個室だった。
真ん中に机が一つある畳の部屋。机の下は掘りごたつのようになっているため畳の上に腰掛ける感じで向かい合って座る。
狭い部屋の四方が壁で完全に二人きりの雰囲気。何かを心得たような給仕の女性たち。
親密感ただよう部屋に、総司はなんだか妙な気分になった。
なんというか……千鶴との距離が近い。
彼女の吐いた吐息を余すことなく吸い込んでいるような……
部屋中に彼女の甘い匂いが充満しているように感じる。先ほどの抱きしめた時の感覚を思い出して、総司はぎゅっと手を握りしめた。お互いコートの上からなのに、彼女は驚くほど細かった。いや、細いのではなく華奢だった。
服を脱いだらどんなふうなんだろう……
彷徨い出る自分の思考に、総司は首を振った。
そしてきょろきょろとあたりをもの珍しそうに見ている千鶴に、雰囲気を変えるように笑いながら言う。
「秘密なデート用っぽい感じだよね。左之さんの名前をだしてここに案内されたってことは、いつもあの人この部屋使ってるってことかな」
千鶴は、部屋の親密感を特に意識していないようで明るく返事をした。
「ほんとですね。左之さん、いろんなお店知ってるんですね。左之さんは素敵ですし優しいですし……なんだかリードしてくれそうな安心感があって女の子がデートしたがるのもわかりますね」
ね?とにこっと微笑まれて総司はムッとした。
「『わかりますね』って……僕は男だからまったくわかんないんだけど。僕から見た左之さんは、人の恋愛にあれこれ口つっこんでくるめんどくさい人だし」
千鶴が左之をほめたことが面白くなく、思っていること以上に左之を貶めてしまったが、一部真実でもある。
「そうですか?いろいろ気にかけてくださって私は嬉しいですけど……忘年会の時だってわざわざ慰めてくださって……」
「千鶴ちゃんさ、今目の前にいる人は君の何?」
唐突に話をさえぎった総司に、千鶴は目を瞬いた。質問の内容の意味が分からず口ごもりつつ答える。
「…え?……えっと…えーっと……か、彼氏さん……です」
『彼氏』と言うのが思いのほか照れくさく嬉しく、千鶴は顔を赤らめた。
「そうだよ。そう言う人の前で他の男を褒めるのはマナーとしてどうなの?」
「ええ?で、でも……そうなんですか?でも左之さんは…」
総司と仲がいいからこそ褒めたのだが……と千鶴は思ったのだが、総司を見ると本格的に機嫌を損ねているようだ。
ふくれっつらをしてそっぽを向いている総司が、かわいらしくて千鶴は思わず微笑んだ。
総司が目ざとく千鶴のほほえみに気づきつっこむ。
「何?」
「いえ……すいませんでした。一番素敵なのは沖田さんです、もちろん」
「……何それ。なんか子ども扱いしてない?そんな『ヨシヨシしとけ』みたいなこと言われてもね」
普通の女子なら『めんどくさ…』と思う総司の態度だが、千鶴は気にせずさらににっこりと優しく微笑んだ。
「そんなことないです。私にとっては沖田さんが一番素敵で優しくて……デートしたい人です」
「……」
全く照れもないストレートな千鶴の言葉に、今度は総司が照れて沈黙した。そして「ふーん、ま、それならいいけど……」ともごもごとつぶやいて機嫌をなおしたのだった。
店をでるともう時間は遅かった。雨は止んだようだ。
千鶴の家まで送って行く時間はあるから、という総司に千鶴は言った。
「あの、今日は私が沖田さんを見送りたいです。何回か送っていただいて分かったと思いますけど、家の周りは下町の住宅街で危なくないですし……」
「でもさ…」
「送っていただいて、また駅まで戻って……っていう沖田さんの時間がなんだかもったいなくて…。その時間も一緒に過ごせたらその方が私は嬉しいんです」
きゅん……
街の灯りに照らされてこちらを見上げている千鶴の表情と切ない言葉に、総司の胸が鳴った。
今ならもうわかる。この胸の音は、千鶴を好きだという音だ。
「……」
総司は何を言ったらいいのかわからなくて、黙って千鶴の手を取って新幹線の駅の方へ歩き出した。
ああ、まずい……すごい離れたくない
こんなに痛いくらいの思いは総司は初めてで、もてあましていた。いつもはしたいようにしているのだが、さすがに今日は状況が許さない。重要な出張の最中だし近藤に今日『がんばってくれ』といわれたばかりだ。その上出張先には左之がいる。千鶴だって明日は会社だ。
新幹線に乗り込むまでのわずかな時間だけしか、千鶴とは一緒に居られないのだ。
来週からは出張も終わってこっちの会社に通勤するのだから、あと5日間だけ我慢すればいい。
あと五日か……
妙に長く感じるのは、やはりこっちに千鶴がいるからなのだろう。
千鶴も入場券を買って新幹線のホームまで来てくれた。出張先の話や左之のモテぶり等他愛のない話をしながらエスカレーターをあがると、新幹線はもう来ていた。
「じゃあね。送ってくれてありがとう」
冗談っぽく総司は笑い、手を離して新幹線に乗り込んだ。千鶴はホームに立ったまま自分のカバンを慌ててあさっている。
何をしているのかと総司が見ていると、千鶴が小さな箱を取り出し総司に渡した。
ほぼ同時に発車のベルがホームに鳴り響いた。
「あの、チョコレートです。せっかく14日に会えたんでどうしても渡したくて、昼休みに買いに行ったんです。前のはみなさんに食べられちゃったって言ってましたし……新幹線の中ででも食べてください。あと『おいしかった』って言ってくださったブラウニー、また作ってお渡ししてもいいでしょうか…?」
総司は千鶴の顔を見て、差し出されている黒とオレンジの箱を見た。
発車のベルと駅員のアナウンス。
黒とオレンジの箱と千鶴の笑顔。
総司は手を伸ばすと、箱ではなく千鶴の手首を掴み引き寄せる。
千鶴はよろけながら新幹線の中に足を踏み入れた。
「…えっ?」
千鶴の戸惑ったような声ごと、総司は千鶴を抱きしめる。
抱きしめられて驚いた千鶴は、自分の背中越しに新幹線の扉が空気音をさせて閉まるのを聞いた。
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