【夜の虹 9】
となりの寝所から千鶴の泣き声が聞こえる。
必死に押し殺そうとして布団にもぐっているのだろう、くぐもった泣き声。夜のしじまにひっそりと響く。
総司はろうそくの灯りの下で報告書をしたためていた手を止めた。
あれから10日。
驚くことに千鶴の傷はすっかり治っていた。しかし千鶴が特異な体質のことを知られたくないというので、総司は土方には何も言わなかった。千鶴はまだ床についたままのふりをして、山崎が作ってくれた薬湯を飲み、包帯は自分で変えている。
急にいなくなった隣人について、近所の家は様々な噂話をしていた。借金取りから逃げたんじゃないだろうか、いや、実家に不幸があったそうだ……云々。総司の圧倒的な強さのおかげで戦闘時間は極端に短く、近所の人々は殺人があったことには気づいていないようだった。ただでさえ壬生狼といわれて京の人々から白い目で見られている新選組の評判をこれ以上落とさないために、総司達はあいかわらず若夫婦のふりをして住んでいた。時折山崎が訪れる以外は何も起こらない平穏な日々…。
しかし総司と千鶴の関係は、変わってしまっていた。
あれから何度も千鶴は総司の考えを変えてくれるように頼みこんだ。泣いたり、怒ったり……。何をしても、どんなに頼んでも総司の考えは変わらなかった。
「もう、私のこと、なんとも思ってないんですか?」
思わず口走ってしまった千鶴の言葉に、総司は沈黙のあと冷たく答えた。
「……そう思ってくれていいよ」
総司の最後通牒に、千鶴は何も言えなくなってしまった。
そして今夜も千鶴の泣き声を聞きながら、総司は居間で眠れぬ夜を過ごしていた。
でも、それも今日で最後だ。
総司は報告書を書くのはあきらめて、筆をおいた。
千鶴の経過がいいのと、いつまでも総司を隊務から離しておくと新選組がまわらないのとで、明日二人は屯所に戻ることになっていた。千鶴は屯所で療養を続けた方が食事や洗濯の手がたくさんある分楽だろうし、総司も仕事に戻ることができる。近所の噂ももうそろそろいいだろう。千鶴がなんとか籠にのることくらいはできるようになった、という総司の報告を受けて、土方はそう決めたのだった。
千鶴が悲しんでると……、僕も悲しい。
でも、これは正しいことなんだ。今はつらいかもしれないけど、きっと……。
きっと、どうなのだろう?
きっとどこかに嫁いで、千鶴の容姿と性格ならたぶん旦那にも愛されて、子供を産んで、幸せにくらしていくだろう。そしていつか、ふと総司を思い出してほんの少し胸が切なくなるかもしれない。でも、その一瞬の後には今の幸せな生活を思ってすぐに胸の痛みを忘れるだろう。
それがきっと千鶴の幸せで。
千鶴が幸せなら、僕も幸せなんだ。
これだけ人を殺してきた自分の行く末は、血の海のなかでの野垂れ死にだろう。それでも、千鶴がこの世のどこかで幸せに暮らしていてくれると思うと、きっと幸せに死んでいける。
総司はそう考えて、ふと千鶴の泣き声が聞こえないことに気づき顔をあげた。
具合でも悪くなったのか、何かあったのか……?また賊が、ということはないだろうが……。
総司が立って様子を見に行こうとした時、隣の障子が開く音がして廊下に千鶴の静かな足音が響いた。その足音は居間の障子の前で止まり、総司が見ている先でスッと障子が開く。
泣きはらした目で廊下にいる千鶴を見ないようにしながら、総司は言った。
「……何?こんな夜遅くじゃないといけないこと?明日じゃだめなの?」
総司の言葉には答えず、千鶴は居間に入ってきて正座した。ろうそくの灯りにうつる千鶴は、陰影がはっきりしていて瞳の奥が陰って見えて、この少しの間にすっかり少女から女性に成長したように見えて総司は落ち着かなかった。
じじっ……とろうそくが音をたてて灯りが揺れる。
梅雨と夏の間の湿気のせいで空気がねっとりと重かった。
「……総司さんのおっしゃるとおりにします……」
俯いたまま千鶴がぽつんと言った。
「ちゃんと、お嫁に行って、子供を産んで、幸せになります」
そうするように、と突き放したのは自分なのに、千鶴の口からそのことを聞くと、総司の胸は自分が驚くほど痛んだ。それを押し殺して総司はにっこりと笑う。
「……それがいいよ。きっと幸せになる」
総司の笑顔を見て、千鶴は傷ついたような表情をした。しばらく総司を見つめた後、千鶴は思い切ったように言う。
「おっしゃるとおりにするので……、一晩だけ……。一晩だけ私を総司さんのお嫁さんにしてください」
千鶴の言葉に、総司の心臓は一瞬止まった。その後いつもの倍のはやさで打つ音を無視して、総司は平静を装った。
「……それは、できないよ。それじゃあ、ほんとうの『傷物』になってしまう。嫁ぐことができてもいろんな意味で条件は悪く……」
総司の言葉の途中で、千鶴は立ち上がった。
「……私は総司さんが好きです。だから……」
そう言って、自分の白い夜着の帯の端に手をかけた。
「だから、『傷物』と言われても平気です。条件が悪くなっても構いません」
千鶴のやろうとしていることに気が付いて、総司は上ずった声で言う。
「……だめだ…!部屋に戻るんだ。僕は……。僕は君の体に傷をつけた。痛い思いもつらい思いもさせてしまった。これ以上僕を最低な男にしないで」
総司の言葉に、帯を解こうとした千鶴の手が止まった。
そしてみるみるうちに、千鶴の大きな瞳には涙があふれてくる。滴になって零れ落ちる涙にかまわずに千鶴は総司を見つめた。
千鶴は総司がこれまで見た中で、一番美しかった。
覚悟を決めたような強いまなざし。
裏腹な儚い涙。
ぎゅっと噛んでいるやわらかそうな唇……。
「最低の男になってください……」
しゅ……と柔らかな音がして、千鶴の帯が畳に落ちた。
帯がとけて前がはだけそうになったまま千鶴は膝まずき、総司に体を寄せる。
「……私のために」
頬を伝う涙にかまわず千鶴はそう言うと、自分から総司の唇に唇を合わせた。
たどたどしく触れてくる震える唇。涙の味。早い呼吸。甘い匂い。艶やかな髪の感触……。
全てが総司にとっては最高の誘惑だった。だめだと叫ぶ声は、あっという間に小さくなり目の前の千鶴の感触が総司の思考のすべてを占める。柔らかく、おずおずと触れてくる舌が唇に触れた時、総司は抵抗をあきらめた。千鶴の頬を両手で挟み視線を合わせる。
「……ホントに……頑固だね」
千鶴は不安そうな怯えたような目をしていた。総司は優しく笑うと、自分から口づけをする。はだけた着物の下から腕をいれて裸の千鶴の腰を抱き寄せて自分の体に合わせた。受け入れてくれるような総司の態度に、千鶴の眼が輝く。
「……総司さん……!」
「負けた。……っていうより勝てると思った僕がバカだった。君の頑固さは嫌って言うほど知ってたはずなのにね」
「じゃあ、じゃあ、一晩お嫁さんにしてくださるんですね?」
千鶴の言葉に総司は苦笑いをした。
口づけを深めながらゆっくりと千鶴を布団に横たえる。
「君は本当に男を知らないね……」
濃厚な口づけに息を切らしている千鶴を見ながら総司は言う。
「君みたいな子を抱いて一晩で満足するような男は、この世にはいないよ」
ゆっくりと千鶴の肩から袖を抜く。傷跡はすっかりなくなり滑らかな白い肩があらわになる。
「?……じゃあ……どのくらい……」
恥ずかしさでぼんやりとしながら聞いてくる千鶴に総司は答えた。
「一生」
自分の夜着も脱ぎながら総司は千鶴にもう一度口づけをした。やさしく上唇を挟み、舌でそっとなぞる。千鶴の首がのけぞるように反り、なだらかな白いラインがむき出しになる。総司は唇を離して、生まれたままの姿の千鶴をまじまじと見つめた。ろうそくの明かりが暗いせいであまりよく見えないのがくやしいが、それでも……。
「すごく……きれいだ」
千鶴は顔を真っ赤にして手で体を隠すようにする。総司は千鶴の手首を握り布団に優しく押さえつけた。
「こんなにきれいなのに、なんで隠すの」
「……だって……恥ずかしいです…」
顔だけじゃなく、千鶴の体はいまや全身がほんのりとピンク色に染まっていた。もっと眺めていたいけど、触れたいという欲望にかなわなくて総司は千鶴のうなじに唇をはわせる。
「ん…」
千鶴がぎゅっと目をつぶる。
「……くすぐったい?」
総司は舌でうなじを味わいながら千鶴に聞いた。
「少し……」
なだらかな肩、繊細な鎖骨、総司はついばむ様に、舐めるように少しずつ味わっていく。豊満ではないが形のいい柔らかな胸へと唇が動いていくと、千鶴が小さく叫んだ。
「あ、あの……!」
「何?」
「そ、そこは……」
千鶴の言葉は待たずに、総司は優しく胸の先端を口に含んだ。優しく吸い、舌で転がすように愛撫すると千鶴の体が小さくはねて唇から甘い声がもれる。
「可愛い声だね」
「ぁあっ。あ……。ん……!」
「もっと聞かせて」
もう片方の胸を手のひら全体でやさしくもむようにして、親指の腹で先端を転がす。千鶴は驚いたようにまた声あげた。しばらく胸を味わった後、総司はもう一度千鶴の唇に優しく口づけをした。手は胸を強めに揉みあげている。耳に唇をはわせて耳たぶをもてあそぶと、鼻から抜けるような声が千鶴の唇から洩れた。
「ここも好き?」
耳元で優しくささやかれて、千鶴はいやいやするように悶えた。耳たぶと耳の下のうなじのラインをなめたりついばんだりしながら総司の手は胸から下へと降りて行く。
「あ、あの……」
千鶴の困惑した声に総司は優しく答える。
「ん?」
「あの、お布団の上に座って挨拶するの、忘れてました……」
千鶴の言葉に総司は一瞬愛撫の手を止めて、そして吹き出した。
「そっか……。そうだね。でも今は……ちょっとやめられないから、次にしよう」
素直に、はい、という千鶴を見ながら、総司はほんとうに彼女が頑固でいてくれたことに感謝した。
同じ最低な男になるのなら、彼女の傍でなった方がましだ。
純粋で、暖かく、優しい千鶴……。自分でできるかぎりの幸せを、彼女に与えよう。