【夜の虹 8】









 千鶴が目を開けると、至近距離から青ざめた顔で自分を覗き込んでいる総司と目があった。
「……総司……さん?」
声をだそうとすると喉が渇いていて痛い。泣きそうな表情の総司に触ろうとするけれど体が動かない。頭が痛くてとても寒くて……。でも頬は萌えるように熱い。急須のような形をした容器で、総司はそっと千鶴に水を飲ませてくれた。千鶴は夢中で飲みこむ。嚥下するだけで全身が激しく痛む。千鶴は苦しそうな息を何度もはいた。そしてそのまま、眠るようにまた意識を失った。

 総司は力の抜けた千鶴の体をそっと布団に横たえる。
「どうだ、千鶴の様子は」
静かに障子を開ける音がして、土方が入ってきた。
「……生きているのが不思議なくらいです」
青ざめたまま無表情に千鶴を見つめている総司を、土方は無言で見た。
「お前も、風呂でも入ってこい。血まみれだぞ」
総司はそう言われて自分の手を見た。乾いた血がこびりついている。このほとんどは……千鶴のもの。普通だったら致死量の血が流れた。あっという間に。少しでも目を離せば、千鶴の命がどこかに飛んで行ってしまうような気がして、総司は傍を離れることが出来なかった。
「……一人で四人とはな……。ったく、人間業じゃねぇぜ」

 

 

 土方達が駆け付けたときはすでに戦いは終わっていた。庭には6人の男たちの死体。総司が殺った相手はすべて一太刀で絶命していた。その中の一人、片目がつぶれた男は、新選組がずっと追い続けてきた長州でのリーダー的な存在の重要人物だった。左之が連れてきた隊士たちと隣の家に踏み込むと、若夫婦たちも離れもすべてもぬけの殻でがらんとしていた。幾人かの隊士を、念のための見張りに置いて、左之と平助たちは屯所への襲撃にそなえて引き上げる。

 なかなか千鶴を離そうとしない総司を説得して、血まみれの千鶴の身を清め山崎が屯所から持ってきた薬や包帯で手当をする。
「……こんなところを貫通されて、なぜ生きていられるのか……」
山崎が薬を傷口にあてて包帯を巻きながら青ざめた顔でつぶやいた。総司も同感だった。傷口は意外に小さく血は止まってはいたが、まだじわじわとにじんでいる。
「……この位置は太い血が流れていて血はなかなか止まらないはずなのに……」
しかし血が止まらなければその場で千鶴は死んでいた。今はまだ生きていてくれている。もしかしたら生き抜いてくれるかもしれない。総司は山崎の手当を手伝いながら祈ることしかできなかった。


 総司の様子を心配しながらも、土方は隊士たちに命じて庭の死体を始末させ血の跡を拭き取らせると屯所に帰った。山崎は総司と交代で看病するために、隣の部屋で仮眠をとっている。

 一晩中傍にいて、総司は千鶴を見つめていた。最初は青白く呼吸も絶え絶えだった千鶴は、次第に熱がでてきたようで頬を染め荒い呼吸を繰り返すようになった。山崎が言うには体の中で善玉と悪玉が戦っている最中はこうなるらしい。血が足りない千鶴の体で抵抗が最後までできるのかがだけが問題だった。
「……大丈夫、大丈夫だよ。千鶴。……君はあんなに頑固で、皆に恐れられる一番組組長をすっかり尻にひいていたじゃないか。負けないよ。……負けないで……」
総司が祈るようにつぶやく言葉だけが、静かな家に響いていた。


 千鶴の病状が安定しだしたのは次の日の昼すぎだった。頬の赤身もひき、呼吸も安らかなものになっている。意識は戻らないものの、もう後は無理をせずしっかり療養すれば大丈夫だと山崎もほっと溜息をついて言った。
総司はまだ安心できるような気分ではなかったが、とりあえずは千鶴のそばを離れ、血まみれの自分を井戸の水で清め、山崎が焚いておいてくれた風呂に入った。

 夢みたいだ……。

風呂につかりながらぼんやり総司は思う。ほんの少し前には屯所で暮らしてて、あの子は単なるちょっと面白いやっかいものでしかなくて。それが夫婦のふりをすることになって。あっという間にとても大事な人になって……。

 そして失いそうになった。

思い出したくないのに、どうしてもあの時の男の自分の名を呼ぶ怒鳴り声と、千鶴の姿が目の奥に張り付いて離れない。総司はお湯で濡れた手で、自分の顔をごしごしとこすった。そうすることで脳裏にやきついたあの時の瞬間が消えるとでもいうように。

 総司は風呂の中から板囲いと屋根の隙間から見える青空を見上げる。

 ……あんな思いはもうたくさんだ。

 空には昼の月が見えた。

 


 風呂のあと、山崎にしつこく言われてとりあえず握り飯を食べて総司は横になった。次に目が覚めたときはもう夜だった。
山崎の姿も見えない。家は静まり返っていた。急いで、けれども足音を立てないようにして千鶴の部屋へと行く。そっと障子をあけると、なんと千鶴は起き上っていた。

「っちょっ…!千鶴!何を……!」
「あ、総司さん。喉が渇いて……」
そう言いながらも千鶴は腕を伸ばして水差しを取ろうとして、痛っ!と言って首をすくめる。
「僕がとるから!」
総司は大股で部屋の中へとはいり、水差しを取って湯呑につぎ千鶴へと渡してやった。
「熱はどう?」
総司が千鶴の額に手をおく。
「もう下がったみたいです。ずいぶん楽になって……」
「安心するのはまだはやいよ。ちゃんと横になって大事にして。傷が悪化したらどうするの」
総司が怒りながらもそっと千鶴を布団へ寝かせた。そしてそのまま真面目な顔で千鶴の眼を覗き込む。


 「……なんであんなことしたの」
怒っているような目で言う総司に、自分が総司をかばってしまったことを言っているのだと気づき千鶴は視線を逸らした。
「……ごめんなさい……。思わず……」
「……もう、二度としないでね。君が今こうして生きていられるのは、奇跡に近いんだよ」
自分より傷ついているような総司の瞳を見て、千鶴は胸が痛んだ。
「……ほんとうに……ごめんなさい……」
千鶴はぎゅっと布団をつかんだ。しばらく考えて、ゆっくりと起き上る。
「千鶴!寝てなって……」
「総司さん、見て欲しいものがあるんです。私も何故だかわからないんですけど……」
そう言って千鶴はゆっくりと襟ぐりをはだけた。総司はこんな時なのにドキッとしてしまう自分に嫌気がさした。千鶴はそんな総司には気づかずぐるぐると包帯を外しだす。そっと薬をはさんだ当て布をとるとその下の傷はもう渇いていた。

総司は目を見開く。

 昨日怪我をしたばかりなのに……。

傷を見ている総司から千鶴は恥ずかしそうに目をそらした。
「……気持ち悪いですよね。自分でもなぜだかわからないんです。でも小さいころから異常に怪我の治りが早くて……。ほんの切り傷なら1時間後くらいにはもう後も残らないくらいに治ってしまうんです」
総司がなんと思うのかが怖くて、千鶴は布団を見ながら呟いた。

しばらくの沈黙ののち、総司は黙って千鶴の着物をなおすと、そっと彼女の手をとり指に柔らかく口づけた。

 そのまま瞼を閉じている総司に、千鶴はおずおずと言った。

「あ、あの……?」
「……そうだったんだね……。だから、なのか……」
総司が自分に言い聞かせるように言う言葉に千鶴は不思議そうな顔をした。総司は瞼をゆっくりと開けると、真剣なまなざしで千鶴を見た。
「君の傷はね……。僕がいつも人を殺すときに狙う場所なんだ」
総司の言葉に千鶴は目を見開いた。
「そこには太い血の通り道があるから外すことは少ないし、心の臓も傷つけることができる。どちらかができなくても一方だけでも人は死ぬ。両方できれば即死なんだ。一番確実な場所だ」
総司は握っていた千鶴の手を、さらに強く握った。
「……だから、君が刺された時はもうだめだと思った。血は止まらないと。……もう二度と君の笑顔は見られないと思ったんだ」
そう言って総司は千鶴の手を自分の額に押し当て、苦しそうに目をつぶった。その時の恐怖がまた襲ってきているかのように。

 「総司さん……」
「君が特殊な体質で、本当によかった…」
そう言って総司はそっと、震える手を千鶴の頬に伸ばす。
「ありがとう。……生きていてくれて」
「総司さん……」

千鶴はそう言って目に涙をためた。こんなに、こんなに心配して不安に思っていてくれたんだ……。嬉しい、なんて不謹慎で、総司が苦しんでいることはとてもつらかったが、でも千鶴はとても嬉しかった。千鶴も握られている手を、ぎゅっと握り返した。
「……私も、嬉しいです。また総司さんとこうやってお会いすることができて……」
総司も千鶴の眼をじっと見つめる。

二人の視線が絡み合う。

 

 総司は、千鶴の視線をフッとはずし、握っていた手を布団の上に戻した。
「……君が元気になって、屯所に戻ったら、いっしょに近藤さんのところに行こう」
「近藤さんのところに?」
「君はもう新選組に居ない方がいい。君はこんなところにいるような女の子じゃない。近藤さんに頼めばきっといい嫁ぎ先を探してくれるよ。綱道さんは僕たちが必ず探し出すし、支度金や後見人は新選組がなんとかしてくれる。なんだったら僕がしてもいい」
淡々と総司がしゃべっているのを千鶴は茫然と見ていた。

 何を言っているのかわからない。頭に入って行かない。

 「今回怪我させちゃったけど、そんな体質なら痕は残らないだろうし、親元にいないっていうのはちょっと問題かもしれないけど、大丈夫。君はかわいいし、綺麗だし、優しいし……。きっといいところに望まれて嫁げるよ」
「……総司さん、何を言ってるんですか……?だって……総司さんが教えてくださるって……。夫婦のことを…」
千鶴の言葉に総司は気まずそうに目をそらした。
「……君と、夫婦として少しだけ過ごすことが出来て……僕はとても、幸せだった。あんまり幸せだったからつい夢を見ちゃったんだ。僕の世界と君の世界は違うのに、片足だけ新選組において、もう片足を君との生活において、二つの世界で幸せに暮らしていけるかもって。でもそんなの朝の夢みたいに儚くて、しょせん夢でしかなかったんだ。僕の世界は血と涙と暴力に満ちていて……、君には似合わない。君には笑顔や明日の約束や他愛もない会話が似合うんだ。だから……」
そう言って総司は言葉を探すように黙り込んだ。

 「……だから君は大丈夫だよ。幸いまだ……口づけしかしてないし。それなら傷物とは言われないよ。まっさらなままだ。そうして……君は本当に幸せな花嫁になるんだ」

 「……どうして……!どうしてそんなこと言うんですか?わ、私は総司さんが……」
「僕はもうあんな思いはしたくないんだ」
総司は硬い表情で言い切った。
「君があんな目に合うのは、もう二度と見たくない。君には、いつも幸せそうに笑っていてほしい」
総司の言葉は、反論を許さないような揺るがないものだった。
千鶴は溢れるほどの想いが胸に渦巻いていたが、混乱しすぎていて言葉にできない。
「……どうして……」

出てくるのはそればかり。あとは頬を伝う涙だけだった。





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