【夜の虹 6】
月を肴に近藤と総司は飲み明かしていた。主に総司が千鶴との生活を近藤に愚痴っていたのだが……。
「それでね、聞いてくださいよ近藤さん。何にも言わないで悲しそうな顔で見るんですよ。だって僕は何度も言ったんですよ?こんなに食べられないよって。なのにたくさんつくっちゃって。すいません、って言う割には捨てる僕を泣きそうな顔で見て。何も悪いことしてないのにそんな顔されるこっちの身にもなってみて欲しいですよ、ほんとに」
近藤は楽しそうに、うんうん、とうなずく。
「それで、まぁちょっとは可哀そうかなぁって思って、風呂を焚いてあげたんですよ!井戸から水を何回も汲んで。薪をくべて。喜んでくれるかと思ったら、これが絶対入らない。何で入らないかもよくわかんないんですけど、ほんとに頑固なんですよ。あの子は」
まだまだ続く愚痴を、近藤は頬を緩めながら聞いていた。総司が一通り話し終わると、近藤がうなずきながら言った。
「お前は、雪村君に喜んでほしかったんだな」
近藤の意外な言葉に、総司は、え?と顔をあげた。珍しく少し酔っているようで頬が赤い。
「お前はな、雪村君に喜んでほしかったんだよ」
近藤が繰り返すと、総司は憮然として言い返した。
「……なんで僕があの子を喜ばせたいんですか?別になんの負い目も……」
「彼女の笑顔が見たかったんだろう?女子の笑顔のためには、男というのは何でもするもんだ」
近藤の言葉を素直に受け入れるつもりはないが、その言葉は総司の胸に何故かストンと落ちた。
……そうか、僕があんなに不機嫌になったのは、彼女が喜んでくれなくて、笑顔が見れなかったからか……。その笑顔を他の男にばっかり見せて……。
黙り込んだ総司に、近藤は続けた。
「女子が機嫌を直して笑顔を見せてくれる必殺技を、お前に伝授してやろう」
そう言って近藤はあたりをはばかるように総司の耳に口を寄せた。総司も思わす体を傾けて耳を寄せる。
「……菓子だ」
近藤の断言に、総司は目をぱちくりさせた。
「小間物でもいいな。帯あげやら帯留やら。櫛やかんざしもいい」
近藤の言葉に、総司は疑わしそうな顔をした。
「それは、あんまりにもご機嫌取ってるのがあからさますぎやしませんか?」
「それでも嬉しいものらしいぞ、女子は。まあ、だまされたと思ってやってみろ」
そもそも隊の仕事で夫婦のふりをしているのに、そこまでご機嫌をとる必要がなぜあるのか……。
そんな根本的な疑問もふと頭をよぎらないでもないが、他ならぬ近藤が教えてくれた裏の手だ。本当に効くのかもしれない。
それになにより、総司は千鶴の嬉しそうな笑顔が見たかった。
「おや?遠雷かな?」
近藤が耳をそばだてるようにした。空は今のところ晴れているものの、確かに遠くで雷の音がかすかにする。
総司は昨日のことを思い出して空を見上げた。
千鶴ちゃん、大丈夫かな……。
そして今は斎藤が家にいることを思い出す。
……斎藤君になだめてもらうんだろうか……。
そう考えると、なぜだか妙に胸が痛かった。
一方千鶴は斎藤と二人で楽しく夕飯を食べていた。屯所でいるときも、千鶴は結構斎藤とはよくしゃべる方で、二人は話題にはことかかなかった。自分たちが居なかった間の屯所でのみんなの様子を聞いたり、総司の呆れた生活態度を斎藤に愚痴ったり……。斎藤はあまり表情を変えないながらも楽しそうに返事をしたり、かすかに微笑んだりする。
食事をしながら千鶴は、斎藤がすっかり自分の分を食べてしまっているのに気が付いた。いつのまにか総司の夕飯の量に慣れてしまっていて、足りなそうな斎藤に謝りながら自分の分を分ける。
たった三回、総……沖田さんの夕ご飯をつくっただけなのに……。
すっかり総司の食事の量を体が覚えてしまっていた。
食後、斎藤が風呂の用意をしてくれている間、千鶴は夕ご飯の片づけを勝手場でしていた。皿を片付けていると遠くで雷の音がする。ぎくり、と体をこわばらせたが、不思議と昨日総司のそばに行ったように、斎藤のところに行って怖さをまぎらわそうとは思わなかった。行けばきっと宥めてくれるとは思うが、なぜだか……斎藤に頼るのは親密すぎるような気がする。別に総司とだって本当の夫婦ではなく単なる新選組隊士と居候という立場で、関係性は斎藤と同じはずなのだが……。
なんでなのかな……。
千鶴は考えてみたが、わからなかった。そしてなぜだか妙に寂しくなる。
総司が今、ここいないのがとても切なかった。
総司さんに会いたいな……。早く明日にならないかな……。
千鶴も月を見上げながら、総司のことを思っていた。
次の日の朝、屯所で朝食を食べるとすぐに総司は千鶴との家に帰った。扉を開けて居間の方を覗くと、千鶴と斎藤が朝食を食べている所だった。
「なんだ、もう来たのか。午前中いっぱいは非番でかまわんぞ」
そういう斎藤が、いつも自分が座っている場所に座り、自分が使っている食器を使っているのに総司は少しムッとする。まるで斎藤が千鶴の旦那のようだ。
「そんな中途半端な自由時間があってもかえって困るよ。別に僕はいいから斎藤君もご飯を食べてたら屯所に帰ってもいいよ」
総司の言葉に斎藤は静かにうなずいた。
「そうか、ではちょうど食べ終わったところだし、帰らせてもらうとするか」
「斎藤さん……。せめてお茶でも……?」
「いや、いい。総司の顔に何故か『早く帰れ』という文字が見えるからな」
「え?」
千鶴は思わず総司を見ると、総司はうっすらと笑っていた。
「よくわかったね」
立ち上がった斎藤に、千鶴がかけよってひざまずき、着替えなどが入った風呂敷包みを渡したり、裾をなおしたりして出かける準備を手伝う。千鶴の仕草がまるで斎藤の妻のようで、総司は苛立った。
二人で斎藤を見送る。斎藤の姿が見えなくなるまで玄関で見送っていた千鶴を、総司は冷たい目で見た。部屋に戻った後、朝食を片付けて洗い物をするために庭にある井戸に向かった千鶴に、総司は意地悪く聞く。
「斎藤君が帰っちゃって悲しい?」
総司の冷たい口調に、千鶴は驚いた。
昨日からずっと総司に会いたくて、朝早く帰ってきてくれてとても嬉しかったのになぜか総司はとても冷たい。何か怒っているようだ。
「そんな……。そんなこと……」
千鶴の悲しそうな顔に、総司は余計苛立った。そんな顔をさせてしまった自分にさらに腹が立つ。けれども胸に湧き上るどす黒いものは、もう止まらなかった。
「どうせ、昨日の雷の時だって、斎藤君になぐさめてもらったんでしょ?」
顔を背けて投げ捨てるように言う総司に、千鶴は戸惑う。
何を怒っているのかわからないけど……。でも……。
「……斎藤さんには、慰めてもらってなんかいません」
千鶴の言葉に総司は振り向いた。
「なんで?怖かったんじゃないの?」
「……怖かったです……。総司さんが、いてくれればな、って思いました」
俯いて恥ずかしそうに言う千鶴に、総司の胸のしこりはスーッと流れるように溶けていった。
「……僕も……」
総司はそう低く言いながら、総司も庭に降りて千鶴にゆっくりと近づく。
「……僕も、君のそばにいたかった」
まるで射すくめられたように、千鶴は近づいてくる総司を見つめていた。総司は千鶴の近くまで来ると立ち止まり、そっと千鶴の頬に手を添える。
しばらく二人は無言で見つめあう。そしてまるで引き寄せられるように、総司の唇は千鶴の唇に近づいて行った。触れる寸前、ふと総司は聞く。
「……口づけは、知ってる……?」
「……教えてください……」
千鶴の言葉に、彼女の唇を見ていた総司は、瞳へと視線を移す。そこには頬を染めてまっすぐに総司を見つめる千鶴がいた。
「まず、目を閉じて……」
総司はそう言って、そっと口づけた。
千鶴の顎が、総司の背の高さに合わせて上へと反る。総司は千鶴のその細く白いうなじに両手を這わせながらついばむ様に唇を合わせた。そして彼女にも口づけに応えるよう促す。舌で優しく唇をなぞると、千鶴の肩が震えるのがわかった。そのままゆっくりと舌を口の中へと進ませる。ぐらり、と千鶴の体がゆれて総司にもたれかかってきた。総司は自分の体にぴったりと沿わせて彼女を強く抱き寄せる。そのまま口づけを深めていくと、千鶴が苦しそうに総司の胸の着物を掴んだ。
「んん……っ」
小さなうめき声に、総司はゆっくりと唇を離す。息継ぎのタイミングがわからなかったようで、千鶴はトロンとした顔のままで大きく息を吸っていた。
総司は、くっと笑うとそんな千鶴を胸に抱きしめる。千鶴は素直に胸におさまった。そしておずおずと手をのばして総司の背中をきゅっと掴む。
離れたくないと思っていてくれているような千鶴の仕草に、総司の胸は熱くなった。自分の胸のなかにいる千鶴を愛おしげに見下ろす。
あ、そうだ……!
結い上げられた千鶴の襟足を見て、総司はあるものを思い出した。朝早く押しかけて店主を無理矢理起こし、買ったもの……。
千鶴を抱きしめたまま袂をさぐり取り出して、目の前にある千鶴の髪に総司はそれをそっと挿した。
驚いたように髪に手をやって総司を見上げる千鶴に、総司はにっこりと笑った。
「うん、似合うね」
「……取って見てもいいですか?」
千鶴の言葉に、総司は自分で取って千鶴の手にのせてやる。
それは小さなピンクの花がゆらゆらと小さく揺れるかんざしだった。
「これ……?」
目を真ん丸に見開いて総司を見上げる千鶴は本当に可愛くて、総司は自然と笑顔になった。
「山崎君、服は揃えてくれたみたいだけど、かんざしや櫛はないでしょ。千鶴ちゃんに似合うかなぁって思ってさ。服や小物は今回のことが終わったら返さなきゃいけないけど、これは君のだよ」
優しく微笑む総司のきれいな若菜色の瞳を見つめながら、千鶴は胸が熱くなるのを感じた。これまでこんなに素敵な贈り物をもらったことなんてない。自分が傍にいないときでも自分のことを考えて、これを買ってくれた総司のことを思うと、嬉しくて幸せで、千鶴はなんといっていいのかわからなかった。
「……ありがとうございます」
なんとかその言葉だけを絞り出して、千鶴は総司を見上げて心の底からにっこりと笑った。
見たかった千鶴の笑顔を自分の腕の中で見ることができて、総司も思わず同じようににっこりと笑う。
彼女が悲しそうだと僕も悲しくて。
彼女が嬉しそうだと僕も嬉しいんだ。
総司は、微笑んだ千鶴の頬にそっと口づけをする。そっと閉じた千鶴の瞼に、おでこに次々と口づけをおとす。そして最後に唇に……。
「また接吻している」
「なんだ。見張れっていうから見張ってるのに、新婚イチャイチャをみせつけられてるだけではないか」
「この家のご内儀も、あの二人は密偵などではなく本当に想いあっている夫婦だと思う、と言っていたな」
隣家の離れで、長州の武士三人が垣根に作ったのぞき穴から総司と千鶴を見張りながらぼやいていた。
三人の後ろで、年かさのもう一人の武士が冷静に言う。
「この時期に、あの場所に急に越してくるのだ。疑って当然だろう。その前に怪しい小間物屋と物乞いもうろちょろしていたのだし。我らを目の敵にしている新選組か見回り組の密偵が遊女でも金で雇って夫婦のふりをして越してきたのかと思ったのだが……」
そう言って、その男は腕を組んだ。
「まぁ、もう見張りはいい。どうせ今夜国から同志が来る。あいつは以前新選組の一番組と斬り合いをしたことがある。隣の家の旦那のことは知らなくても出入りしている女の兄というやつらの誰かの顔は知っているかもしれぬ」
その男がそう言うと、残りの三人も、おお、と返事をして立ち上がった。