【夜の虹 4】






その日も朝から二人はケンカをしていた。
「だーかーらー!そんなに毎日洗うと布だって傷むでしょ!」
「そうはいっても、こんな暑さの中着物を洗うのが十日に一回だなんて不潔すぎます!面倒でしたら私が洗いますから脱いでください!」
「なに?そんなに僕の下帯が洗いたいの?それとも脱がせたいわけ?」
「-----!っそっそういう意味じゃないのはわかってるはずですっ!!」
「だいたい屯所にいるときなんかもっと洗ってなかったのに、なんで今になってそんなこと言い出すのさ。僕の服は僕が好きな時に洗濯するから放っておいてくれていいんだって」

 総司の言葉に、千鶴はぐっと言葉につまった。
自分はもしかして、隊務にかこつけて女房面をしているのだろうか?総司の言うとおり別々に好きな時に洗濯をすればいいのだろうか……?それを妙に寂しく感じてしまうのはなぜなのだろう……?


 千鶴の悲しそうな顔をみて、総司は髪をかき上げて溜息をついた。
「あ〜、もう!いいよ、わかったよ。洗うからそんな顔しないでよ」
頭をかきながら帯をほどこうとした総司に、千鶴は言った。
「いえ、やっぱりいいです。変に女房面して言った私が悪かったんです。そうですよね、私は奥さんでもなんでもないただの居候なんですから出過ぎたことはいうべきじゃなかったんです……」
そう言って背を向けようとする千鶴に、総司はあわてて言う。
「違うって!そんなつもりじゃなくて……」
「いいんです。沖…総司さんはそのままプンプン汗臭いにおいをまきちらしたまま生活してください。私は鼻をつまんで我慢します」
千鶴の言葉に総司は思わず自分の腕の匂いを嗅いだ。
「えっ!?そんなに臭う?毎日風呂入ってるのに?」
急いで帯をひっぱろうとした総司の手を千鶴が慌てて止める。
「洗わなくていいっていってるじゃないですか」
「そんな臭うなら言ってくれればすぐに洗ったんだよ」
「べっ別に臭わないです。でもこれから10日間も洗わないんでしたら臭うかな……って…」

「……僕をだましたってこと?」
黒い顔で微笑む総司に、千鶴はぱっと帯をつかんでいた手を離して逃げようとした。そんな千鶴を後ろから総司は抱きすくめる。
「だました罰。君が脱がせて!」
「ええっ!無理っ無理です!!そんな……!」
「奥さんならできるでしょ。ほらこうやって……」
総司は千鶴の両手を掴み、抵抗する力を無視して自分の帯を掴ませひっぱらせる。
「きゃーっっ////!!やっやめてください!!見っ見え……!」
「えー?何が見えた?」


 「……何やってんだ、おまえら」
呆れたような声がして、二人がふりむくと、玄関に左之が立っていた。
「あれ?左之さん。定時連絡には早いんじゃないの?」
総司が千鶴の手首をつかんだまま聞く。
「今日は俺は非番。来たのは隊務じゃねぇよ。定時連絡は屯所から文でも来んじゃねぇか?」
左之はそう言いながら上り込み、千鶴の手首をつかんでいる総司の手をひっぺがした。そして千鶴を自分の方に向かせる。

「うん、やっぱりべっぴさんだな、お前は。女のかっこすると際立つぜ。今日はそのべっぴんさんと一日逢引きでもしようと思ってな。土方さんの許可もとってある。千鶴、でかけようぜ!町をぶらぶらして、京の名所見て、だんごでも食って……。芝居小屋でもありゃあ、それも見てみるか?」
左之の言葉に、千鶴は目を輝かせた。
「え?いいんですか?」
「ああ。俺らは非番があるけどお前にはないだろ?屯所で非番になっても籠ってるだけじゃつまんないだろうし、今はいい機会だって土方さんも言ってくれてな。さ、おしゃれしろ。おまえ箪笥みたか?夏物の絽の着物があったろ?あれは俺がお前に似合うと思って見立てたんだぞ〜」

左之はそう言いながらずかずかと箪笥に近づき次々と引き出しを開けて行く。おっあった!これこれ、といいながら出した着物は薄く透ける涼しげな地に紫の朝顔が描かれた鮮やかなものだった。下に着る襦袢もだして、緑の夏帯も一緒に千鶴に押し付ける。
「山崎がお前が女の姿になるために必要なものを買いに行くっていうのに出くわしてな。知ってる古着屋を教えてやったんだよ。そこにこれがあって千鶴に似合うだろうと思ってよ」
左之に押されるように千鶴は着物一式とともに寝所に押し込まれた。


 勝手に出かけるなりなんなり好きにすれば?僕は隣の離れが見えるところで見張りをしてるよ。と言って席をたとうとする総司を左之は、まぁまぁ、と言って止めた。
「女がめかしているのを待ってる時間ってのもいいもんだぜ。このあとどんな美人がでてくるか、お前興味ないのか?」
「別にないよ。中身は前とかわらない子犬みたいな子どもでしょ」
千鶴の女姿にころっと態度をかえた初日のことはすっかり忘れて、総司は憮然として言った。
「なんだ、色気ねぇなぁ。せっかく新婚だってのによ」
「新婚って言ってもフリだけだし……」
総司の言葉は寝所からおずおずと出てきた千鶴の姿に途切れた。

 すっきりとした立ち姿。やわらかい体の線。薄い夏物の着物は千鶴のすんなりした体を余すところなく表していた。裾に大胆に散った濃い紫の朝顔が色気を醸し出している。白に濃い緑の帯が映えていた。襟元にも散っている紫の花が千鶴の白い顔と対照的で、妙に千鶴のまなざしを艶めいたものにしている。

 「……こりゃぁ……」
初々しい色気とあでやかさに、女慣れしているはずの左之ですら息を呑んだ。総司は言葉もない。
すっかりオトコモードに入った左之は、そんな総司には見向きもせずに千鶴にスッと近寄った。そして優しく声をかける。
「……似合うぜ……。こんなべっぴんと逢引きできるなんて俺は幸せ者だ。今日はたっぷり楽しませてやる」
妙に低い声でささやくように言う左之に、千鶴は頬を赤くした。歩き出そうとして着物の裾が絡み少しつまずく。
「ほら、袴じゃないと歩きにくいだろ。腕に…つかまれ」
左之が差し出した腕に、そっと腕をのせて恥ずかしそうに、ありがとうございます、という千鶴を、総司は苦虫をかみつぶしたような顔で見ていた。
左之はそのまま千鶴を玄関へと連れて行く。千鶴は総司をちらりと見てすまなそうに会釈をすると、左之と一緒に出て行った。


 

 


 夕飯の準備に間に合うように急いで帰ってきた千鶴を出迎えた総司は、かなり不機嫌だった。拗ねてる、というよりは怒っているようで少し怖い。千鶴は手早くいつもの木綿に着替え、たすきをかけてかまどの前に立つ。総司はそんな千鶴を妙に冷たい目で見ながら聞いた。
「……どこに行ってきたの」
総司の冷たい声に千鶴はおずおずと振り向いて答えた。
「……清水さんに行って、帰り道にあるお店を覗いて……」
うどんを食べて、芝居小屋を覗いて、お茶を飲んで……。
次々と続く千鶴の言葉を総司は、もういいよ、とさえぎって、ふいっと寝所の方へ行ってしまった。

 やっぱり沖田さん怒ってる……。そうだよね。隊務ってことでここに住まわせてもらってるのに私だけ遊びに行ってしまって……。一人で見張りをしていた沖田さんはそれは、腹が立つよね…。

 次の総司の非番はいつだろう、その時はしっかり自分が見張りをしよう、と千鶴が考えながら青菜を洗っていると遠くで雷の音がした。
千鶴の手がとまる。

 ……大丈夫、大丈夫。まだ遠くだし。

気を取り直してお湯を沸かし、豆腐を切っていると、どんどん雷は近づいてきた。千鶴はいてもたってもいられなくなって包丁を置いた。


 
 むっつりと寝所の畳の上で横になっていた総司は、入り口あたりで千鶴がうろうろしているのに気が付いた。
「……何か用?」
冷たい声に千鶴がびくっと飛び上がる。
「いえっ……。特に、用ってわけじゃ……ひゃっ」
結構近くで鳴った雷に、千鶴は耳を抑えて目をつぶった。
そんな様子を見て、総司は目を見開いて起き上る。
「……もしかして、雷が怖いの?」
「……は、はい……っきゃあっ!」
ピカッと光る閃光に千鶴は叫んだ。

 雷が怖くて、それで自分のところに来たらしい千鶴が、総司は何故か嬉しかった。雷におびえて蒼い顔をしているのも、かわいいな、と思う。
外は急に暗くなり、ひんやりとした涼しい風が部屋の中を通り抜けて行く。ぽつり、ぽつりと降り出した夕立が次第に大きな音を立てて屋根を打った。
さっきまでの不機嫌が不思議なほど洗い流されて、総司は胡坐をかいた。
「……ほら」
そう言って、腕をひろげる。不思議そうな顔をしてこちらを見ている千鶴に、総司は言った。
「怖いんでしょ?おいで」
千鶴は少し驚いたようだが、素直に総司の傍へと歩み寄り、スッと腕の中に納まった。雷が怖いからだろうが、千鶴のその素直に甘えてくれるような仕草が、自分でも驚くほど嬉しい。総司はゆっくりと千鶴の肩に腕を回して彼女をやさしく守るように抱きしめた。
「大丈夫だよ。ここは部屋の中だし、僕がいるでしょ?」
優しい総司の言葉に、千鶴はまるで自分があやされている子供になったようで少し恥ずかしくなった。しかし実際雷への恐怖はかなり和らいだ。暖かい手、少し早い心臓の音、匂い……。千鶴を包むすべてが彼女を安心させてくれる。
 屯所でいつも千鶴をいじめていた総司が、こんなに優しくしてくれているなんて正直信じられない。しかし今の彼の態度は心の底からの真実であることは千鶴にはわかっていた。

 やさしいのか、意地悪なのか……。わからないからドキドキするのかな……。

総司の胸の着物を掴みながら千鶴はそんなことを考えて顔を赤くした。


 見下ろしている千鶴の耳とうなじがみるみる赤くなるのを見て、どうしたのか、と総司は聞こうとした。そして千鶴のうなじの襟すれすれのところにある小さな赤い湿疹に気が付く。思わず指を襟足にいれてその湿疹をそっとなぞった。
 突然の首への接触に千鶴はひゃっ!と声をあげた。手を、総司がさわったところにあてて赤くなりながら総司を見上げる。
「……あせもだよね」
総司の言葉に千鶴はさらに赤くなった。
「意地張らずに、風呂にはいりなよ。何を気にしてるのか知らないけど、ここには僕しかいないんだし、僕は、隊のこととか組長とか旦那様だからとかを気にされるより、君が風呂に入って気持ちよくなってくれる方が嬉しいよ」
総司の素直な言葉に、千鶴は自分が恥ずかしくなった。

 確かに意地をはっていたかもしれない。総司が一生懸命水を張って槇をくべてお湯にしてくれたのに、変な遠慮のせいで好意を無にするようなことをしてしまった……。

「君は僕の奥さんなんだからさ。僕が気にならないことは気にしなくていいんだよ。二人の生活なんだから」

総司の言葉に、千鶴は目を見開いた。

 そうか…。世間の目や自分の常識じゃなくて、総司さんと二人で、二人の生活を作って行けばいいんだ……。

千鶴は、総司の胸に頭を預けた。


「……はい、総司さん」

沖田さん、と言いそうになるのを言い換えていたいつものようではなく、自然にでたその呼び名は、妙にしっくりときて。

二人は心地いい沈黙につつまれながらお互いの体温を感じていたのだった。

 

 

 夕方の雷雨はすっかりあがり、もう今はすっきりと晴れた夜空だった。雨が蒸し暑さを流してくれたせいで気持ちがいい夜風が庭の草を揺らす。
「湯加減はどう?」
板囲いの外で槇をくべながら総司が聞いた。
パシャン…という軽い水音とともに、千鶴の感に堪えない…といった感じの声が聞こえてくる。
「総司さん……。すごく気持ちいいです……」
千鶴の声に、総司は思わず顔を赤らめた。頭を振って板囲いの向こう、風呂に入っている千鶴の妄想を振り払おうとする。振り払っても振り払ってもわいてくる妄想に、総司はあきらめて浸ることにした。
たすきがけをした時や高いところのものを取ろうと腕を伸ばしたときに袖から見える千鶴の細い腕、先ほど抱きしめたときに堪能したすんなりしたうなじ。自分の膝の上に座っていたときに着物の裾が割れちらりと見えた白い脚……。見えなかったところは想像で補完して、総司は風呂に入っている千鶴の姿を頭に思い描く。


 腰はどんなふうなんだろう。僕の両手に納まっちゃいそうな細さだよな……。それに胸は……。そんなに大きくなさそうだけど、きっと柔らかくて真っ白で……。

 幸せな妄想に耽っていると、風呂から千鶴の声がした。
「総司さん、総司さん!見てください!!」
総司は驚いた。
「ええっ!見てもいいの!?」
風呂の中の千鶴は、総司の言葉にキョトンとした。しばらくして総司の言った意味に気がついてあわてて言う。
「ちっ違います!空です!空を見てください!」
なんだ空か……。と思いながら後ろを見上げた総司は、思わず声をあげた。

「あれは……!」

薄青い夏の夕暮れの空にはぽっかりと満月が浮かび、夕立のあとのせいかその満月に虹がかかっていた。


「夜の虹なんて初めて見ました」
「僕も……」

風呂の板囲いの中と外。

お互いの姿は見えないけれど、見上げているものは同じで、きっと感動も同じ。

 


この、心が満たされるような暖かな感情は生まれて初めてで、なんというのか知らないけれど。

 

いつまでも味わっていたい、と二人は感じていたのだった。





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