総司の部屋
「千鶴ちゃん?」
キッチンで総司がペットボトルからアイスティーを二人分グラスに注いでいると、湯上り姿のミツが来て聞いた。
「うん」
「こんな時間に?」
「そ」
「……」
鼻歌を歌いながらカランカランと氷を入れている総司を、ミツは横目で見る。
「もう遅いんだし部屋のドアは開けて話しなさいよ……なんて言ってもきかないわよね」
「せいかーい♪部屋のドアはもちろん閉めるよ。プライバシーだからね。もちろん鍵も。変な物音聞きたくなければ姉さんも近寄らないでね」
部屋数の多いかなり豪華な沖田家。通いのお手伝いさんのおかげで今も綺麗だが、住んでいるのは総司と社会人のミツの二人だけ。
その総司の部屋に、千鶴が今いるのだ。
さきほどなにやら話があると携帯に彼女から連絡があったらしい。もう夜の10時過ぎだし、総司は高校生で千鶴は嫁入り前の女性で…。でも二人は結婚するのしないのの話を多分するのだろうから、別に二人きりにしてもいいのか?
ミツはこんがらがってくる頭をひねる。暫く考えたが、たとえ自分が何を言ったとしてもこの弟は聞かないだろうと思い、ミツはそのまま自分の部屋に戻ることにする。
こーこーせーの総司にはわかんないだろうけど、あの千鶴ちゃんがそう簡単に総司の思い通りになるとは思えないしね……
そういう意味でも、あの弟に年上の常識人である千鶴ちゃんってのはいい組み合わせだわ、とミツは一人うなずいていた。
「おまたせ」
後ろ手できっちり自分の部屋のドアを閉めて、総司は机のまわりを眺めていた千鶴に声をかけた。
「ありがとう。ごめんなさい、こんなに遅くに。勉強していたんですか?」
「うん、この期末と実力である程度とっておけば、多分学校推薦とれるんだよね。早く大学決めて千鶴ちゃんと新婚の準備の方に力を入れたいし、今は頑張らないと」
総司がアイスティーを置きながらそう言うと、千鶴は後ろめたい顔をした。
「ああ、でも今は別に邪魔になってないから気にしなくていいよ?ちょうど一息入れようと思ってたし」
「……そうですか……すいません」
「いいって言ってるのに。……そう言えば小学校以来じゃない?千鶴ちゃんが僕の部屋に来るの」
気分を変えようと言った総司の言葉に、千鶴は目を少し見開いた。
「そういえば……。前に来た時と全然……」
違う、と言おうとして部屋を見渡した千鶴は、ベッドに腰掛けている総司と目があい続きの言葉が途切れた。
ハーフチノに白いシンプルなTシャツ。くつろいだ格好のまま長い脚を折るようにして、総司はベッドに腰掛け楽しそうに緑の瞳をきらめかせて千鶴を見ている。
その目は、まるで自分の巣におびき寄せた獲物をどう料理しようか考えている捕食動物のようで……
「あ、あの、私、明日また…」
何かまずそうな雰囲気だと思い、千鶴がくるりと総司に背を向けてドアを開けようとしたとき、後ろから腕が伸びてドアが抑えられた。
「よかった」
いつの間にか総司がすぐ後ろに来て、ドアを開けられないように腕で押さえている。
体は全く触れてはいないが、これはほぼ壁サンド……。
背中に総司の体温を感じる。千鶴は固まったまま目の前のドアを見つめた。
「な、何がよかったんでしょうか…」
かちこちになりながら答えると、耳元で総司の甘い声がした。
「千鶴ちゃんが意識してくれてるみたいでさ。こんな夜遅くに男の部屋に来てるのに、全く平気でいられたら傷つくよ」
「……」
「…ね?意識してくれてるんでしょ?」
総司の声はさらに甘く低くなり、吐息と共に千鶴の耳をくすぐった。
「ひゃっ…!あっ…!」
後ろから壁サンド状態のまま、総司が首を傾けて千鶴の耳にそっとキスをする。
ま、まずい、まずい、まずい気がすごく…!!
ここから逃げ出さないと。ううん、それは無理でも、せめて空気を変えないと。
結婚はやめましょうという話をしに来たっていうのに、このままずるずるとあんなことしたりこんなことになったら……!!
「そ、総司君!話があるんです!その、私、『結婚』について、もう一度考え直したいと思って……」
千鶴の言葉に、総司は千鶴の耳をくわえながらもポーカーフェイスを崩さなかった。
しかし、内心『来たな』と思う。
千鶴の性格上、結婚までのどこかのタイミングで、かならず正面から向き合って話し合いに来ると思っていたのだ。
ミツからも、『千鶴ちゃんはがっつり惚れさせないと結婚まではもちこめないわよ』と言われている。想定の範囲内だ。
総司は千鶴の耳からうなじへと唇を這わせ、最後にペロリと舐めた後、体を離して一歩後ろへ下がった。
美味しい体勢とシチュエーションだったが、ここはちゃんと話し合った方がいい。
「考え直すって?プロポーズ受けてくれたのに?」
「それは……その…そうですが…」
総司は机の上に置いてあったグラスを一つとり、自分はベッドに再び座った。そして勉強机の椅子の方を指差して、千鶴に座るよう促す。
「でも、よく考えたら別にお見合いを私がちゃんと断ればいいだけの話だなって思ったんです。総司君の提案はとっても嬉しかったんですが、でもやっぱり総司君はまだ高校生だし結婚なんて無理だと思うんです」
「……」
黙ってアイスティを飲む総司を、千鶴は息を詰めて見つめていた。なんだか話がこんがらかってしまったが、できれば総司にイヤな思いをさせずに何もなかったことにできればと思っているのだ。
総司は半分ほど飲んだグラスを机の上に置くと言った。
「……どうして無理だと思うの?」
「え?」
「まだやってみてもいないのに、なんで無理だってわかるの?君の義理のお母さんがそう言ったから?義理のお母さんは高校生の旦那と結婚したこともないのに、どうして無理だってわかるのかな」
「……」
「ねえ、千鶴ちゃん僕の事どう思ってる?」
真っ直ぐに澄んだ緑の瞳で見つめられて、千鶴は思わず口ごもった。総司は気にせずに続ける。
「僕は千鶴ちゃんのことが好きだよ、すごく。小さいころからずっと好きだった」
総司はそう言うと、にっこりと微笑む。
「……千鶴ちゃんが少しでも僕の事を好きでいてくれるなら、いっしょにやってみようよ。『無理』なんかじゃないって、きっと千鶴ちゃんと一緒なら証明できる気がするんだ。そりゃ、ただでさえ結婚ってどうなるかわからないから少しでも先が読める形でしたいって思う気持ちもわかるけどさ」
総司はそう言うと、言葉を止めてキラキラと光る緑の瞳で千鶴を覗き込んだ。
「でも、先なんてわかんない方がドキドキしない?」
「……」
「二人ともちゃんとした社会人で、両親友人からもすんなり祝福されて、何の心配もなく結婚しました…ってのもいいけどさ。先がまったくわからないのも楽しいよ、きっと。千鶴ちゃんがこれまでいろいろ考えて堅実に真面目に生きてきたのは知ってるしそういうところもすごく好きだよ。でもほら、JRと私鉄の話でさ、新しいことに対する好奇心も千鶴ちゃん実はけっこうあるじゃない。進路とかそういう大事なところではその好奇心は抑えてきたみたいだけど、僕と一緒の結婚生活がどんなになるかには、好奇心がわかない?ドキドキしない?やってみたくなるでしょう?」
総司はそう言うと、ベッドから立ち上がり椅子に座ったままの千鶴に手を差し出した。
総司の言葉は、見るだけでワクワクするシャボン玉のように、いくつもふくらみ部屋を飛び回る。そして千鶴の眼の前でパチンパチンと七色の虹を残してはじけ、千鶴は目を瞬いた。
総司の表情がキラキラと輝いて、これまで決して踏み外そうとしなかったレールを外れて、楽しそうな道を二人で探そうと誘っている。
千鶴は、目の前に立ち手を差し伸べている総司を見上げた。
『無理』かどうかなんかで人生を決めるのはつまらない。
ううん、それで決めることだってもちろんあるけど、でも彼となら。
総司となら。
だってもう千鶴の心は、総司の言葉でドキドキしてきてしまっているのだ。
わかり切った路線で、わかりきったレールの上で、わかりきった目的に着く今の人生よりも、総司が先ほど言った先のわからない人生の方が、楽しそうだとワクワクしている。
これまで小さく狭かった空が総司の一言で360度開けたように、新鮮な風を感じて千鶴は深呼吸をした。
義母や周りの人が満足するような、どんな男の人と結婚したとしても、このドキドキ感や爽快感は味わえない。
行先のわからない、乗ったことのない私鉄電車に乗ってみるのも、きっと総司と一緒なら楽しい。
駅で待たされたり迷ったり、目的地につくまでに時間がかかったりするかもしれない。
JRに乗っておけば早く到着できるのに、と人から言われるかもしれないけど。
でも二人で知らない景色を見たり知らない人と話したり。
手をつないで一緒に乗って行くことが出来たら、それはどんな目的地につくことになっても素敵な旅になるだろう。
きっと総司となら、これまでの通いなれたJRの沿線以外の景色が見られるに違いない。
総司が差し出してくれている、この手を取ったら……
千鶴は、自分を見つめている緑の瞳を見上げる。
その瞳は楽しそうに煌めいて、新しい悪戯に一緒に参加するようそそのかしていた。
千鶴は胸の奥からウキウキした笑い声が湧き上って来るのを感じる。
新しいことに飛び込むドキドキも。
そして椅子から立ち上がり、緑の瞳を見返して。
ゆっくりと手を伸ばしたのだった。
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