【HeartBreaker 説明SS】

 

 

 













 



プラスチックの溶ける匂いが鼻をついた。
時折何かがはぜるような大きな音がする。熱風が押し寄せて呼吸が苦しい。
千鶴は朦朧とした意識の中で小さく呻いた。

「苦しい?あと少しだからがんばって」

艶やかな、けれども決然とした意志の強さを感じる声が耳元でした。
重い瞼を必死にあけると、黒い世界に白い煙、オレンジや黄色の炎がゆらゆらと壁に影を作っているのが見えた。
そしてその影の一つは人のもので、何かを……誰かを抱きかかえて歩いている。
抱きかかえられているのは自分だと気づくのに、千鶴はかなりの時間がかかった。頬が温かく柔らかいものに押し付けられているのをぼんやりと感じる。
いったい何がどうなったのかを思い出そうとしたとたん、ズキン!とこめかみが痛む。
痛みのあまり体がこわばってしまったのか、千鶴を抱きかかえている腕は少し力を緩めた。
そうだ、ここは湖の傍の別荘で、今日は二十歳のお祝いに父様とここに来て……
千鶴はだんだんと思い出した。
確か夕飯の準備ができて父様がワインをあけてくれたんだっけ。『今日から飲めるんだから一番高級なのを買ってきた』と言って、ワイングラスを渡されて……
その時突然千鶴の手にあったワイングラスが木端微塵にはじけた。
中のワインが飛び散る。
千鶴が驚いて目を見開くのと、後ろのキッチンで大音響とともに何かが破裂するのとが一緒だった。ものすごい威力の熱風に吹き飛ばされて千鶴は壁にぶち当たった。天井や棚や壁や……あらゆるものが定位置から飛び出し四方八方に飛び散る。キッチンからまるで壁のような大きな炎があがり……
そこで千鶴は意識を失ったのだった。

 


「ほら、もう外だ」
例の声とともにひんやりとした冷気が千鶴の頬を撫でる。息苦しさが急にとれ、千鶴は深く息をして視線をあげた。
自分を抱きかかえているのは若い男性だった。男性の後ろに先ほど抜け出てきた熱い……多分燃えている別荘があり、逆光なのと夜なのとで男性の顔はよく見えない。
薄暗闇にだんだんと目が慣れてくると、至近距離の下から見上げる形で千鶴はゆっくりと視線を巡らせていく。
広い肩にきれいな首のライン。顎の線と喉仏が男性らしくてきれいだと千鶴はぼんやりと思う。さらに視線を上へとやると、少し長めであちこちに跳ねている髪……
炎に後ろから照らされているからだろうか、その髪は真白に見えた。
千鶴が見ているのに気が付いたのか、その男性がふと千鶴の方を見て目が合う。

その目は炎よりも鮮やかな紅色だった。

 

 

 


 千鶴はぱちっと勢いよく目を開けた。
あまりにも臨場感あふれる夢だったため、まるで今もそこにいてゴムの焼ける匂いが漂っていそうだ。思わず起き上って辺りを見渡す。
そこは見慣れた千鶴の部屋だった。
東北にある地方都市の高級マンションのペントハウス。一応千鶴と父親の綱道の二人の家ではあるのだが、綱道は千鶴が小学生のころからほとんど会社に寝泊まりをしており実際には千鶴が一人で住んでいた。小学生のころは身の回りの世話をしてくれるお手伝いさんが定期的に来てくれていたが、中学生になるともうほとんどんのことは千鶴が一人でできる為お手伝いさんは頼まず、一人で暮らしていたのだった。
父の綱道が死に、今は一緒に眠る人もできて……

千鶴はゆっくりと広いダブルベッドの隣へと視線をやった。
そこには、顔を半分うずめるようにして枕を抱きかかえている男性が眠っていた。
髪は柔らかそうな茶色で、瞳は、今は閉じられているが宝石のように透き通った緑……
先程の夢で自分を抱きかかえて助けてくれた人と髪と瞳の色が違うが顔立ちや体格はそっくり……というより同一人物だった。

そしてあれは多分夢ではない。

 記憶……

千鶴はぼんやりと夢の中で痛んだこめかみを指でさすった。
あんな……別荘での火事の経験などしたことはない。自分の経験では二十歳の誕生日に綱道からはワインを飲まされ、そして……緑の瞳をした暗殺者が半年後に千鶴の前に現れた。
しかし今朝突然、ぽっかりと……まるで深い深い湖の奥底から浮かんできたように、二十歳の誕生日の、『こちらの世界での千鶴』の記憶が生まれた。
千鶴には変若水を飲んだ二十歳の夜の記憶があるので、今朝突然浮かんできた記憶が経験からは切り離された別物だとわかるが、記憶のない他の人達にとっては、この突然浮かんできた記憶を自分の経験として受け入れていくのだろう。
そうして沖田の変えた時間は矛盾なく流れていくのだ。

千鶴も、そして当然沖田も、変わる前の世界の記憶があった。
しかし大久保や守衛さん、他の人達にはなかった。変わる前の話を少しすると、『そうだったかな?』とあいまいな返事しか返ってこない。きっとそうこうしているうちに、時の大きな流れがいろんなことを修復していき、今朝の千鶴のような『記憶』が生まれ、定着していくのだろう。
千鶴と沖田以外にも、変わる前の記憶がある人間がいるのかもしれないが、まだ出会ってはいない。どんな要因があれば記憶が残るのかもわからない。
沖田のいた20年後の世界でもタイムトラベルは未完成で、過去を変えたことの影響が、現在にどのような形で出るかわかっていないのだ。

千鶴は考えれば考えるほどこんがらがってくる頭を軽くふって、ベッドから降りようとした。
と、暖かいがっしりとした腕がするりと腰に巻きついてくる。
「……沖田さん…。起きてたんですか?」
「君が逃げそうだから、今起きた」
そう言いながら沖田は、甘えるように千鶴の腰に後ろから顔を押しつけた。
「ちょっとお水を飲みに行くだけです。まだ早いからまた戻って来ますよ」
「……」
何も言わないで腕を巻きつけたままの沖田の髪を、千鶴は優しくなでる。
「ね?すぐ戻りますから」
「……じゃあキスしてくれたら行ってもいいよ」
千鶴は呆れたような、苦笑いのような、照れ笑いのような顔をして、沖田のおでこに唇を近づけて軽く触れた。茶色の髪をかき上げて、そしてふと今朝の夢を……『記憶』を思い出した。
「ん?どうしたの?」
動きを止めた千鶴を、沖田は下から見上げる。千鶴はその翡翠の瞳を見ながら言った。
「今朝……『思い出し』ました。二十歳の誕生日に沖田さんが助けに来てくれたこと……」

千鶴の言葉に沖田は目を見開いた。千鶴は続ける。
「ああやって……助けてくださったんですね。タイムトラベルの後で頭痛もひどかったでしょうに……。本当にありがとうございます」
沖田は巻きつけていた腕をほどき、仰向けに寝返りを打った。そして下から手を伸ばし、自分を覗き込んでいる千鶴の髪を彼女の耳にかける。
「ふぅん……『こっちの世界』での記憶も……現れるんだね」
そしてにっこりと笑って言った。
「お礼を言われるのはなんか違う気がするな。だってあれは君の為というよりは僕のためにやったことだからね」
「でも体調は……?一度目だけでもあんなにひどくて倒れたりしてたのに、二度目はもっとつらかったんじゃないですか?」
覗き込んでくる千鶴の眼から、沖田はふいっと視線をそらす。
「ああ、まぁ……なんとかなったよ」
自分がつらかったことについては一切話そうとしない沖田の横顔を、千鶴は見つめる。


「……羅刹になっていたんですね……」
真白な髪に真っ赤な瞳。あきらかに異形な姿にもかかわらず、夢の中の自分は「キレイ」だと感じていたことを千鶴は思い出す。

沖田は返事をしなかった。
それがある意味返事になる。タイムトラベル後の頭痛に体力の減退。加えて羅刹の吸血発作……病院に収容されるまでの間、いったいどれだけの苦しみを一人で耐えてきたのか、沖田に聞いたとしても教えてくれないだろう。
「……もう吸血行動はないんですか?」
沖田は軽くうなずいて言った。
「君が純血の羅刹にならなければ、そもそも僕が羅刹になることもない筈だしね。タイムパラドックスの影響がどこまで及ぶかわからなかったけど、多分時間の修復作用で、時がたてば僕が羅刹であるという事実も修復されて人間に戻るんじゃないかって思ってたからさ」
軽い感じで沖田は言っているが、吸血発作がどれほどつらいものか千鶴は身を持って知っていた。そして発作が治まった後の、バケモノになってしまうのではないかという恐怖も……
一人で耐えるにはあまりにも重く、結局千鶴は沖田に甘えてしまったが、沖田は一人でそれとも戦ったのだ。そしてたとえ発作がおさまり人間に戻ったとしても、その世界での千鶴が沖田を覚えている保障はない。もし忘れてしまっていたら……この誰も知り合いのいない20年前の世界で、沖田は一人でいったい何をするというのだろうか。もう未来には帰れないのだ。そんな不安に押しつぶされてしまいそうな夜だってあったはずだ。

千鶴は沖田の手をそっと握った。
「……もう一度逢うことができて、本当によかったです」
沖田も優しい目で千鶴を見つめた。
「うん……それに僕はどっちかっていうと、二人とも人間になれたっていうのが一番うれしいかな」
「そうですね。吸血発作もないし狂っていくことも……」
「そうじゃなくてさ」
そう言った沖田の瞳は悪戯っぽくきらめいていた。
「どうせどっちかが羅刹だと、君、絶対『伝染るから』って言ってなんにもしてくれないでしょ?」
沖田はそう言いながら、キョトンとしている千鶴の手首をつかみ引寄せた。
「…っあっ」
沖田の胸に倒れこんだ千鶴はそのまま抱え込まれてベッドに仰向けに押さえつけられる。沖田の笑みを浮かべた唇がゆっくりと近づいてきて、柔らかく重なった。
それと同時に沖田の手が、千鶴のパジャマの裾をたくし上げ、素肌を辿り胸を包む。
「…んっ…!」
沖田が千鶴の耳にキスをしながら囁いた。


「……こういうこと、何にも気にせずにできるのが一番うれしいね、僕は」

 

 

 

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