シロノワールを食べながら、総司は千鶴の学生証をまじまじと見ていた。
「……高校二年生」
緑のキレイな目が細められ、皮肉な笑みの形に薄い唇の端があがる。
「……」
「大学生じゃなかったんだ」
総司に返された学生証を受け取りながら千鶴は沈黙を続けた。忘れようと心を決めた矢先に再会してしまうとは。土方もあんなに別れを祝福してくれたというのに。
「沖田さんは、大学4年生ですよね。就職はいいんですか?」
家庭教師を断ってくれないかと千鶴が言うと、あっさりと「もう決まってるから」と回答が返ってきた。
パクパクとおいしそうにシロノワールを食べるのを見て、そんなときではないのに千鶴の胸はまた痛む。
半年弱「都合のいい女」をしていた時にもよくケーキやお饅頭を食べていた。現世でも甘党なんだと知ることは、幸せというナイフで胸を何度も突き刺されることでもあるのだ。
食べ終わった総司は、「で?」と椅子にもたれて千鶴を見た。
「どうして大学生のふりをしてサークルの飲み会にきたのか、どうして何か月も会っていたのに何も言わなかったのか、家庭教師を雇った目的はなにか、のうちのどれがいい?」
指を折りながら聞いてくる。
「……」
決まっている。「家庭教師を雇った目的、でお願いします……」
前の二つを言わないまま家庭教師をお願いするのはそれはそれで怖いが、今日はもう再会したうえ家庭教師に総司がなったというだけで千鶴のキャパはいっぱいいっぱいだ。
総司の瞳が面白そうにきらめき口角が少し上がる。そんなちょっとしぐさにもドキッとしてしまう自分に嫌気をさしながら千鶴は言った。
「大学受験に間に合うように高校の範囲をおさらいしたいんです」
「ふぅん……目標大学とかはあるの?」
「一応、薄桜大学です」
総司の後輩になってしまうが、そのころには総司はもう就職しているだろう。
「学部は?」
「医学部……は無理だと思うので、臨床心理学部」
「医療系か……直近の模試の結果とかある?」
真面目に家庭教師の話をしてくれそうな総司に、千鶴はほっとした。しかし高校はこれまでほとんど行っていなかったことを話さなくてはいけない。前世の記憶が戻ったせいで、などと言わずにうまくごまかさなくては。
「模試はうけてないです。あの、私、体調がよくなくて高校一年生と二年生はほとんど学校にいけてなかったんです。行けるようになったのは最近で。なので高校の授業範囲をすべて来年の三月までに勉強しなおしたくて」
総司はきれいなアーモンド形の緑色の目を見開いて千鶴を見た。が、何も言わなかった。
「休んでいるときはまったくのノー勉?ちょっとはやってた?」
「ちょっとはやってました。来月期末テストがあるのでとりあえずはそれで平均以上取るのが目的です」
総司はなるほど…というようにうなずいた。
「僕、家庭教師のバイトずっとやってたんだよ、ラッキーだったね。ゆるい系がいい?ビシバシ系がいい?」千鶴が答えようとするのを遮って総司はつづけた。「ま、今からやり直しならビシバシにしないと間に合わないか」
そういって千鶴を見るとにんまり笑った。「試験範囲を教えてくれる?」
この笑顔は覚えがある。このあと恐ろしいことが始まる笑顔だ。
「あの、沖田さんはもともと今私の家庭教師やるつもりはなかったと思いますし、家庭教師の応募の人は他に居てその人に…」
「僕がやるよ」
千鶴の最後の抵抗はあっさりと遮られた。
総司の目がまっすぐ千鶴を見る。「千鶴ちゃんがどんなふうに勉強する子なのか知りたいし、もう僕の大学は暇だし。それにお父さんになんて言う?」
「…やっぱり都合が悪くなったみたいでって……」
「僕は、やりたかったのに千鶴ちゃんに断られたって言いに行くけど?お父さんの勤務先わかってるし」
「……」
千鶴は言葉に詰まってきょときょとと周りを見渡した。どこかにこの窮地を抜けるヒントはないか。
もちろんそんなものはない。「……なんでそんなに家庭教師したいんですか」
じとっと言った千鶴に総司はにっこりと笑った。
「『千鶴ちゃんの』家庭教師がしたいんだよ。理由はさっき言ったでしょ。いいヒマつぶしになりそうだなー」
猫が圧倒的に弱い鼠を捕まえていたぶるソレだ。千鶴はがっくりと肩を落とした。
過去と決別して歩き出そうとした瞬間に、また過去に引き戻されてしまうとは。しかも歩き出す手助けを総司からしてもらうなんて。どうしよう。どうしたらいいんだろう。
しかし考えても千鶴にはどうすることもできない。流れに身を任せていくしかないのだ。

せめて、できるだけ前世と混同しないようにして、今会った知らない家庭教師の人として見るようにしよう。

あんなに会いたくてたまらなかった総司を、しかも肉体関係まで持ってしまった相手を、そんな風に見れるかはわからないけれど。
千鶴は、黙って自分のアイスココアをストローでかき混ぜた。


再びつながったLINEで、次の日から怒涛の指示が総司から送られてきた。
『これが定期考査用勉強で、こっちが受験用ね。毎日きちんとやって。やり方は……』
内容はそれほど難しくはないものの量は多い。千鶴は学校から帰ると毎日机に向かうことになった。しまいにはそれでも間に合わず学校の休み時間や自習の時間に総司の課題をやる日々が続く。週2回の対面勉強は、学校帰りにコメダで1時間。
前回出された宿題のチェックと理解度テスト、わからないところの質問と理解のポイントを教えてくれて、次の単元の新しい宿題をもらう。
そこではプライベートな話はほとんどせずに、千鶴の分からなかったところを丁寧におしえてくれたり、千鶴の課題の消化具合をみてもう少し簡単な方を出し直してくれたり逆に応用にすすんでみたり。かなり手厚い家庭教師をやってくれていて、千鶴は安心した。
学校に行くのも久しぶりだった千鶴は、移動教室や食堂の使い方がわからなかったりクラスメイトや先生になじむのにもかなりの神経を使った。なのでまた体調不良になることをおそれていたが幸いにも寝込むようなことはなく無事テスト1週間前を迎えた。

「ん、できてるね。じゃあ次はこれね、ちょっと理解度が知りたいからこの1枚目だけやってみてくれる?15分くらいでできると思うから」
千鶴が提出した宿題のチェックをして総司は新しいプリントを一枚渡した。
場所はコメダで総司は相変わらずケーキを食べている。学校帰りの秋深い今は、コメダの窓の外はもう真っ暗で、行き交う車のライトや他の店の灯りが光っている。
千鶴が解きだしてしばらくすると、後ろから涼やかな声がした。「沖田君?」
千鶴と総司が顔をあげると、ベージュのダウンを着たきれいな女性が驚いた顔で立っていた。「何してるの?」と千鶴の方を見て「ああ、家庭教師?」
大学の友人だろうか。華奢な垢ぬけた人だ。
総司は軽く手をふる。「あーそう。今バイト中だから」
「そっかごめんね邪魔しちゃって」そういって女性は去ろうとしたが「あ」と言い立ち止まる「沖田君、卒業式の後のゼミの件、どうするの?」
「あー…」総司はそういうと髪をかきあげる。「そっか、すっかり忘れてた」
そうしてしばらく考えて千鶴を見る。「ちょっとごめん。10分だけはずすね。すぐ帰ってくるから」
「あ、はい」
「ちゃんと問題やっといて。僕が返ってくるまでに終わらせとくんだよ」
そういってダウンの女性と去っていく総司の後ろ姿を、千鶴は複雑な思いで眺めた。

家庭教師になってからの総司は、一切恋愛や男女の関係が会ったことに関することは言わないしもちろん手をつないだりキスやその先もなかった。家庭教師の最初のころは千鶴の方も、もし総司からそういうことをされたらどうやって断ろうかと考えていたが、匂わせもせず家庭教師に徹している総司にだんだんと慣れていった。
かといって冷たいわけでもなく学校には慣れたかとか友達ができたと伝えたら『よかったね』とにっこりと笑ってくれたり。近所の優しいお兄さんといった感じだ。だから安心していたし、千鶴もそれがうれしかったはずなのだが……

あの人、私を見てすぐに『家庭教師』って……

彼氏彼女と見られなかったことがちょっと不満な自分に、千鶴はびっくりした。
前世でも年齢の差があって、総司が今の年齢のころ千鶴はまだ10代の中ごろ。まったくの子どもだった。それでもほんのり芽生えた恋心で、町娘と話したり島原へ行く総司を悲しく見送っていた記憶がある。

せっかくなら年上に生まれたかったな。

毎回年上との差を思い知らされる役回りはうんざりだ。いつも総司の方が余裕があって色々知ってて、千鶴はとまどったりあわてたりするばかり。
自分が年上だったら……
総司に勉強を教えてあげたり、大学生活のあれこれ…ゼミとかサークルとかそういうのに参加している千鶴をを高校生の総司に見せたら総司はなんて思うだろうか。制服なんかじゃなくてヒール履いたり大人っぽい服を着てたら、こんなに何もせずコメダの机で落ち着いて座っていられないはずだ。
千鶴は数学のプリントからすっかり思考がさまよい出て、プリントの余白に落書きをしながら妄想にふけった。
「お待たせ。終わった?」
肩の向こうからひょいと手が伸びで、総司が千鶴のプリントを手に取った。当然ながらそのプリントは1問目から下は白紙の上、右の隅に落書きがされている。
「全然おわってないよね。おまけに落書き……ってこれってさっきの子?」
無意識に千鶴は先ほどの女性の似顔絵を落書きしてしまっていたのだ。「あっそ、それは、その…すいません。きれいな人だったんで、つい…あの、返してください」
手を伸ばす千鶴をひょいとよけて総司はまじまじとその落書きを見た。
「すごくうまくない?千鶴ちゃん、絵かけるんだ?」
「いえ、そんな描けるなんてレベルじゃ……!」えいっと総司の手からプリントを奪い返して、千鶴はあわてて落書きを消しゴムで消した。
「いや、本当うまいよ。意外だな。美術部とか?」
つたない落書きを見られたうえ質問を受けて千鶴は真っ赤になっていた。「いえ、そんな…っ!そんな…恥ずかしいです。あの、学校休んでた時に行ってたお医者さんで絵画セラピー的なのをずっとやってて、それで」
山南の病院ではさまざまなセラピー療法をやっていてその中の絵画教室に千鶴は通っていたのだった。本格的な先生が来てくれていてデッサンから影のつけ方など基礎から教えてくれた。千鶴もそこでならなぜか長い間座っていられたので一時はほぼ毎日通っていたくらいだ。
プリントの紙が破けるほどごしごしと消しゴムで消して「あの、すいません。すぐ続きを解くので」
耳まで真っ赤になっている千鶴を、総司は不思議そうに見てコーヒーを一口飲んだ。




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