【斎藤課長の新婚生活 9】
行ったお店は、会社のビルの裏にある『極上霜降ステーキの店』だった。
ここならゆっくりできるし、ランチ時に会社の人間が来るような場所ではない
だが千鶴は、高級そうな制服を着たウェイターさんから渡されたメニューを見てめまいがした。
「……斎藤さん、これ……」
こんな高級店、これまで来たことなかったのだが一番安いランチで4,500円からだ。一週間分の食費ではないか。
「ランチには高いが、まあこんなものだろう。どれにするのだ?」
平然としている斎藤を、千鶴は唖然として見た。二人で九千円…消費税いれたら一万円……ランチで……一回で……。
茫然としている千鶴をよそに斎藤はサクサクと注文してしまった。ランチは3種類しかなく1時間で食べ終えることができるのはAランチしかないのだ。「夜の接待や、近藤社長と食事をするときなどにたまに使うからな。来たことはなかったのか?」
「外でランチは週に2回で800円食べ放題のバイキングなんです」
お金がないわけではない。会社はいいお給料を出してくれているし斎藤は一応同年代の中では高給取りの方だろう。だが、ランチで二人で1万円を遣うというのは、千鶴のこれまでに培ってきた価値観では考えられないことなのだ。
「……お弁当、つくればよかったです」
夕飯の残りをつめるだけでお昼代が浮くのに。斎藤と気まずくてお弁当も夕飯も作れていない上にランチでこの散財とは泣きっ面にハチとはこのことだ。
「最近は……弁当も、夕飯も作ってはいなかったな」
斎藤がつぶやいた。
「すまなかった」
久し振りの蒼く深い瞳が千鶴を真っ直ぐに見る。あまりにも真っ直ぐに謝られて千鶴はパチパチと瞬きをした。
「え……と……」
「夕飯も弁当も……我ながら子どものようだったが、その……顔を合わせづらく、断ってしまっていたのだ」
やっぱりそうだったのか。仕事を理由にしてたけど、違うんじゃないかと思っていた。
何かしてしまったのか、それとも変なことを言ってしまったのかと千鶴は何度も何度も考えた。
どうして急に目を背けて足早に立ち去るようになってしまったんだろう?夕飯もお弁当も『今日はいらない』と、言われるたびに千鶴の中から何かが零れ落ちていく気がして悲しかった。もともと役には立ててなかったけど、一緒にいるのは楽しんでくれてたと思ってたのに。
斎藤の態度が変わったのは、あの左之の店でのお祝いをしてもらった夜から。思い当たることと言えば、キスぐらいしかない。
「……あの、キスのことですか?」
直球過ぎたようで、斎藤が分かりやすくぎこちなくなる。
「そ、そうだ。うむ。……やはりわかっていたのか」
その時4,500円のサーロインステーキとサラダが運ばれてきた。
ウェイターは、二人の緊張した雰囲気に気づいているのか気づかないふりをしているのか、優雅に皿を置いて行く。
「あの集まりを計画してくれたのは、高校時代からの友人でな……悪友の類の奴らもいる。ああいう場所に来てもらったらあのような状況になる可能性を考えておくべきだった。上手くかわして切り抜けられず、その……キ、キ、キスなどという、キスなどということを公衆の面前でしてしまい、すまなかったと後悔しているのだ。そのせいでどこか後ろめたく……つい顔を合わせづらく思ってしまった。こんなことになるのならもっと早く謝ればよかったな」
とつとつと、言葉を詰まらせながら真っ赤になって斎藤は謝ってくれた。
「そんな……謝らないでください。あの、よかったです。避けられている理由、私何かとんでもないことをしてしまったのかと思っていたので」
「いや、お前は何もしていない。そのような誤解をさせてしまって悪かった」
「いいえ、大丈夫です。……でも、理由をちゃんと言ってもらえてうれしかったです。その、キスも気にしていないんで……気にしないでくださいね」
斎藤は千鶴を見てほほ笑んだ。
「ありがとう」
キスの話しも、その後のぎくしゃくした一週間も、これですっきりしたというように、斎藤はナイフとフォークを持った。
「いい肉だ。冷める前に食べるとするか」
千鶴もうなずいてフォークを持つ。
でも、でも、千鶴は、あのキスは嫌ではなかったのだ。思い出すと恥ずかしいけれど、抱き寄せられた時に斎藤の体の硬さ、大きさ、暖かさを感じて胸がドキドキしたのを今でも覚えている。斎藤の唇は、見た目とは違って熱くて……
今の話の流れでは、あのキスをした斎藤が悪く千鶴がそれを許したという形になってしまっている気がする。本当はその逆で……できれば千鶴は、もっともっと仲良くなりたいのだ。そっち方面も。
気持ちを伝えなきゃ……!
ちゃんと、私の気持ちを。
「あの……斎藤さん?」
「ん?」
ジューシーなサーロインを食べながら斎藤がこちらを見る。
「その……」
千鶴はどういえばいいのかしばらく考えた。あのキスが嫌ではなかったと告げたいのだが、それだけ言ってもこの関係の今後は変わらない。
斎藤は多分『そ、そうか』と顔を赤らめ、それで会話は終わりだろう。
ではどういえばいいのか?
『もっとキスをしたいです』と言えれば完璧なのだろうが、さすがにそれは……何かうまくこの気持ちを伝える方法はないだろうか。
「……えっと、私が引っ越した夜、斎藤さん言いましたよね。『しばらく一緒に暮らして様子を見て、みんなが慣れたころにもう一度、この結婚をどうするか考えてみたら』って」
「……ああ」
何の話かという表情で、斎藤はもう一切れ肉を切った。
「それで……それからもうすぐ三か月くらい経ちますけど、斎藤さんはどうでしょう?何か不満とかありませんか?」
斎藤の蒼い瞳が一瞬泳いで、すぐに落ち着く。
「いや、特には……。雪村はあるのか?」
「……」
千鶴は肉を一切れ切って食べる。言おうかどうしようか。
こんなこと言ったらなんて思われるかな?でも、言わなきゃ始まらないよね。
「不満はないんですけど、その…一緒に暮らすこと以外にも、やっぱり人生を共にするんですから、いろいろ……その、この結婚生活を続けるかどうか決める前までに確かめておいた方がいいこととかあるんじゃないかって、思うんです」
「なるほど……」
斎藤はサラダを食べながらうなずいた。
「確かにお互いの価値観や金銭感覚、食事の量や好みなど、長く結婚生活を続けるために知っておいた方がいいことはあるだろうな」
そうそう、そういうこともそうだし、それ以外にも。
「はい、あと、体の相性とか」
斎藤はレタスを食べながら一瞬固まった。聞き間違えかというような表情だ。
ここまで言ったのなら最後まで言おうと、千鶴はぐっとフォークとナイフをつかむ手に力を入れる。
「か、からだの、あいしょう、です」
「……」
斎藤の口がポカンと空き、そしてしばらくして……
「ブホッエホッ!!ゴホッゴホッ!!!」
斎藤は盛大に急き込んだ。レタスがのどに詰まったらしい。
「な、ゴホッ、何を、……ゆ、ゆきむ―エホッゴホゴホッ!」
「だ、大事だと思うんです。私、経験とかないですけど……あ、あったかもしれないですけど、覚えてないんで……でも、その……どうしてもそういうことをするのは生理的に無理って人もいるし『この結婚を続けよう』って決めた後に相手が無理だってわかったりしたら困ると思うし、その……」
「ゴホン!そ、それは……それはそうだが……」
真っ赤になりながら斎藤はそういって、途中でハッと何かに気づく。
「も、もしや、あの時のキスが生理的に嫌だったとかそういう……」
「いえっ!ち、違います。あのキスは、全然嫌じゃなかったです。嫌って言うよりむしろ気持ちよくてもっとしてほしいって……あの……あ……」
言いながら千鶴は言うつもりのなかったことまで言ってしまったことに気が付いた。しかも本人の前で!
「……すいません……」
真っ赤になってうつむく。斎藤の顔が見れない。
「い、いや別に……いや、俺は別に、その、嫌じゃなかったというのはよかったというか嬉しいと言うか……」
ああ、気まずい!ランチでステーキを食べながらこんな話を真昼間から!でも、せっかく頑張ってここまで行ったんだから、最後までちゃんと言おう!
吹き出す汗に真っ赤な頬を無視して、千鶴は斎藤を頑張って見た。
「だ、だからですね!私としては、これまでの三か月に特に不満はないんですが、これからは、そのう……そういうこともしてみるのはどうでしょうか?って思うんです」
「そういうこと……」
「はい、普通は結婚前に彼氏彼女の時に経験するような……」
「経験……経験とは……つまり、つまり……」
斎藤は真っ赤な顔で、いつものクールな蒼い瞳を見開いて千鶴を見ている。千鶴は大きくうなずいだ。
「はい、まずは、まずは……」
言いながら千鶴は考えた。
引っ越した最初の夜、同じベッドに眠りたいと言ったら『まだそう言う関係ではない』と断られてしまった。確かにキスはしたけれど、世間一般の恋人のようなことはしたことがない。
「まずは、な、名前を、お互いを名前で呼ぶのから始めるのはどうでしょう?」
千鶴がそう言うと、斎藤はきょとんとした。
「……名前?」
千鶴は大きくうなずく。
「そうです。その……普通つきあうとそういう風に順番に仲良くなるんだと思うんです。しかも私たちはもう結婚もしてて……周りの人達に怪しまれないためにも、その、そういう風にステップを意識的に踏んで行くのがいいんじゃないかって思うんです」
「……」
無言の斎藤に、千鶴は恐る恐る聞いた。
「ど、どうでしょうか……?あんまり……なれなれしくて嫌ですか?」
斎藤は千鶴と目を合わせると、小さくため息をつく。そしてほほ笑んだ。斎藤が心なしか肩を落としているように見えるのは、多分千鶴の気のせいだろう。
「いや、嫌ではない。実をいうと……」
斎藤はそう言うと、またサラダを食べだした。
「実をいうと、俺の方もそういう……ステップとういうのだろうか、もう一歩踏み込んだ付き合いをそろそろしたいと、いや、していった方が良いのではないかと思っていたのだ。だが、言いづらく日が過ぎていくうちにお前の気持ちも確かめずにキスをするような事態になってしまった」
「そ、そうだったんですか!」
「ああ」
斎藤はそう言うと、少し照れくさそうに千鶴を見てほほ笑んだ。
「いつも、お前には助けられているな。俺はこういうことに疎いうえに女性の気持ちもわからず……すまない。ありがとう」
その微笑みは暖かくて優しくて、千鶴はなぜか頬が赤くなる。「そ、そうですか?私の方こそいっつも斎藤さんに助けてもらってる気がするんですけど……」
「そんなことはない。それに、ほら、もうすでに間違っているぞ」
斎藤が今度はいたずらっぽく笑う。その笑顔もかわいい。
「え?」
「『斎藤さん』ではないだろう?……千鶴」
斎藤の低く静かな声で呼ばれた名前は、思いのほか千鶴の心臓を強く打った。ドキドキドキドキと勝手に早くなる。
え、何?ええ?どうしてこんなに……こんなに、恥ずかしいっていうか、ええー!?
「は、はい……えーっと………」
斎藤の名前を一度頭の中で言ってから、千鶴は言葉にした。恥ずかしくて顔が見られなかったので、まだサーロインの塊を見ながら。
「は、はじめ……さん……」
厨房から女性のコックがウェイターに声をかけた。
「コーヒーできてるから。早く持って行ってよ。何してるの?」
ウェイターは肩をすくめる。
「いやあ、なんかこう……お邪魔かなって。俺空気読むのうまいんっすよ」
コックも伸びあがって、ウェイターが見ている方の客を見ると、薄いピンク色のオーラがあたり一面に漂っている。その中心には真っ赤な顔をしながらほほ笑み合っているカップル。
「……なるほどね」
もう一回淹れなおそうかと、コックは厨房にひっこんだ。
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