【斎藤課長の新婚生活 10】



「今日は遅いのか?」
斎藤は鍵を取り上げ、隣で淡いブルーのパンプスを履いている千鶴に聞いた。
「いえ、定時で帰れると思います。斎藤さんは……」
言いかけて、斎藤の視線に気づいた千鶴は、「あ、えっと……」と少し頬を染めて言いなおす。
「は、はじめさん、は、遅いですか?」
どうしても緩んでしまう頬を、それでもできる限り引き締めて、斎藤は玄関のドアを開けた。初夏の朝の光が薄暗い玄関に差し込み周囲は一気に明るくなった。
「いや、俺も定時にあがるつもりだ」

いい朝だ。
斎藤は千鶴が外に出るのを待って鍵をかけながら、しみじみそう思った。
千鶴と仲直り……というか話し合いをしてから、斎藤の毎日は楽しくなった。それまでの日々は自己嫌悪と後悔で押しつぶされ真っ暗だったのだが。さらにその前のキスの時は、正直なところ脳内があらゆる感情で爆発していた。そしてその前。共同生活が軌道に乗り出したころは、毎日がウキウキして千鶴の笑顔や持ち物が自分の生活圏にあることにドキドキする毎日だった。

そう考えると、あの日からアップダウンが激しいな。

多少の上下はあったものの基本的には理性のコントロール下にあった斎藤の28年間の人生。それが去年のクリスマスごろから、ピンクになったりブルーになったり黒一色に塗りつぶされたり激しくなってきた。
例の年度末のあの朝の衝撃からあの後結婚までの感情の振れ幅は、斎藤にとっては初めて経験するものだった。ある程度方向性が決まればそれも落ち着くだろうと思っていたのだが、一緒に暮らし始めてからはもう手に負えないほど天国と地獄を行ったり来たりしている。
疲れるか疲れないかと言われれば当然つかれてしかるべきなのだが、脳内麻薬がでまくっているのか疲れは感じない。千鶴に優しくしてもらったり笑顔を見るだけで気分は上向きになるので、それで帳消しになってしまうのだ。

「あの、斎…一さん?」
「ん?」
鍵をしまい振り向くと、千鶴が頬を染めて恥ずかしそうに見上げている。その大きな目を見て斎藤の胸はまだドキンと大きく鳴った。
「な、なんだ」
「そのう……名前の次に、……名前の次に、ですね。その……手、手を、つなぐのはどうでしょうか?」
斎藤の頭にカッと血が上った。耳が赤くなっているのを自分でも感じる。
「あ、ああ……ああ、それは……うむ。そうだな」
さすがに会社までは他の社員と会う可能性が高くて無理だが、エレベータまでくらいなら何の問題もない。
きゅっとためらいながらも斎藤の手のひらに収まった千鶴の手。

柔らかい……それに小さい。

「……」
二人で無言のままエレベーターへ向かう。
……いったい何なのだ、この転げまわりたくなるような気持ちは。そして緩んでしまう頬は。
隣を歩く千鶴の、ピンクに染まった頬を見るとその気持ちは強くなる。手に汗をかいてしまいそうで、それが千鶴に悟られるのが気まずくて、俺はいったい何歳なのかと斎藤は自分にあきれる。初めて彼女ができた高校生の時でもこんなことはなかったというのに。
一般的には結婚すれば男は落ち着いて仕事に打ち込めると言われているが、斎藤の場合は真逆だ。仕事の時はもちろん仕事に集中しているが、ほんの少しの隙間の時間に脳内で小さな千鶴があふれ出して斎藤を違う世界へ連れて行ってしまうのだ。

ポンと音が鳴ってエレベータが開いた。中には中年のスーツ姿の男性1人と高校生が一人。斎藤は千鶴の手を放さなかった。
「あ、あの……」
エレベータが下にむかって動き出すと、千鶴は手をもぞもぞさせて斎藤を見上げる。手を放さなくていいんですか、という合図だろう。
「……会社の者ではないし、問題はないだろう」
斎藤は千鶴の耳元で囁いた。ふわりと甘くて清潔な匂いがして、もっとそこにとどまりたいと思う。
「はい」
千鶴はうつむいて静かになった。その表情が幸せそうに見えて、斎藤も幸せになる。
まったく、結婚というのはなんという天国なのか。
少し前までは、気まずい相手と同じ家に暮らさなくてはいけない結婚は地獄ではないかと思っていたのに。斎藤は自分に呆れるが、結婚を解消しようなどという気には全くならなかった。



「はい、これ。お祝いパーティの時の写真」
昼休みに机にいると総司がやってきて、黄色い表紙のアルバムらしきものとUSBを渡された。
「二次会の時の写真だよ。現像してアルバムにしたのとデータ。あ、千鶴ちゃんこっちおいで」
昼食から戻ってきた千鶴を総司が呼ぶと、千鶴もやってきた。
三人でアルバムを見る。
「なんだか写真で見ると……」千鶴はそう言いかけて口をつぐんだ。
「何?」「何だ?」と斎藤と総司に聞かれ、千鶴は頬を染めながら言う。
「えっと……写真で見ると、本当に夫婦になったんだなあって。これまでこういう風に写真にしたことってなかったですよね?」
千鶴に聞かれて斎藤もふと気づいた。「そういえばそうだな。二人のも、親族と一緒の写真もないな」
「式も挙げてないしね」と、総司。
「今度、連休の時にでも実家に行くか。雪村のご両親の墓参りも省略してしまっていたな」
「いろいろ大変なんじゃないの?斎藤くんち。親戚筋への挨拶とか、政治家の人もいるって前に言ってたよね。それに斎藤君の家だって何が事業をしてるんでしょ?斎藤君は手伝わなくていいの?」
「ああ、家は弟が継ぐことになっている」
「千鶴ちゃん、よかったね。あんな旧くて大きな家の嫁とかになったらたいへんだよ」
総司の言葉に、千鶴は「え」とひるむ。
「いや、家は弟が継ぐことになっているし、確かに叔父は政治家だがこちらにも息子がいる。俺はもう家を出ているからその必要ないだろう」
「あ、そっか。そういえば斎藤君は剣道でかなりいいとこまで行ってたから、地元からこっちにでてきたんだっけ」
「そうだ、高校も地元でなはいし大学も、そして就職もそうだ。この会社に就職した時に家族会議で、実家は弟にまかせることになったのだ」
「そんな……すごいおうちだったんですね、私知らなかったです」
びっくりしている千鶴に、斎藤はほほ笑んだ。
「いや、話したことはなかったが特に気にすることは無い」
「でも、家族になるんで……知っておけてよかったです。何かあったらまた教えてくださいね」


夜、食事の後に斎藤は自室のクローゼットの奥の段ボールの中から、昔の写真を取り出してきた。
高校から地元を離れていたため子どもの頃の写真は実家だが、高校からの写真はある。その中には当然、帰省した際の写真もあった。
「これが、叔父家族だな。法事の時だ。それからこっちが、母方の親戚だ」
写真に写っているのは、着物をきっちり着こなした女性達。
「すごい。なんだか旧家って感じです」
「まあ旧いは旧いな」
うちとは全然違います……とつぶやいている千鶴に、斎藤はほほ笑んだ。
「お互いに何も知らなかったが、これからおいおい、お互いのことを知っていくとしよう。知らないことはたくさんあるからな」
「知らないこと……」
ふいに沈黙が落ちた。千鶴が心なしか頬をそめているような……

そ、そうか。そういえばあのステーキを食べた時に、これからそういう……そういうことをしていこうと話したな。お互いのことを……その、最終的には体の相性まで含めて知っていこうと。まずは名前で呼んで手をつないで……その先も。
そのことを言っているように思われたのか?

「い、いや、その……恋人同志がやることもそうだが、その……こういう、育ってきた環境を知ることも、家族になるには必要だと、そういう意味だ」
「そ、そうですよね、そうです、けど……」
千鶴はうつむいてそういいよどむと、潤んだ瞳で上目遣いで斎藤を見た。

うっ…!

と斎藤は心の中でうめく。
こ、これは……これは、いいのだろうか。いいのだろう、多分。
震えそうになる手を押さえて、そっと千鶴の肩に手を置く。千鶴は息をのんだが、すぐに目を伏せ、そして瞼を閉じた。
ドッドッドッドッと激しく波打つ斎藤の心臓。
カラカラになる喉。それを潤すために、斎藤は自然にゴクリと唾をのむ。
そっと顔を傾けて、千鶴の唇に触れた。

……柔らかい……

一度離すと、ほ……というため息のような吐息が千鶴の唇から洩れた。それがまた甘く斎藤の頭の芯をしびれさせる。
斎藤はもう一度、今度はもう少ししっかりと唇を合わせる。舌で千鶴の唇に触れると千鶴の唇が呼応するように開いた。よし、今度は一気に……!と思った途端、斎藤のスマホが激しく振動しつつ鳴った。

「っ!」
千鶴は驚いたのか、思わず体を離してしまった。
「……」
斎藤は、キスで赤くはれた千鶴唇を見、テーブルの上でブブブブッと激しく振動し、ずれ動きながらさらにピロリロリッピロリロリッと騒いでいるスマホを憎々しげに見た。
二人を包んでいた甘い空気がはじけたのは、いくら斎藤でもわかる。千鶴は、顔を赤くして気まずそうだ。
斎藤がため息をついて、スマホを見ると。
「……弟からだ」
今日話題に出た実家の弟。ないがしろにするわけには行かないし、めったにかかってこない電話がかかってきたということは、何か話しがあるのだろう。斎藤が千鶴を見ると、千鶴は小さく頷いた。
「あの、私……もう、寝ます。おやすみなさい」
「……ああ。すまない」
なぜ謝ったのかわからないが。
まあでも、一人でモンモンとしていたころよりは各段の進歩だ。
名前で呼び合い、手をつなぎ、実家の話をして、キスまでした。
成果としては十分だし、未来の明るさに鼻歌を歌いたくなるくらいだ。斎藤は通話ボタンを押す。

「なんだ」

それでも声が不機嫌になってしまうのは、まあしょうがない話だろう。














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