【斎藤課長の新婚生活 11】





会社の階段を上っていた千鶴は、女性の話声が聞こえてくることに気が付いた。
上の階だ。
覗いてみたが人影は見えない。と、いうことは、階段を上がって左に曲がったところにいるのだろう。その先は使われていない会議室しかなくて人がほとんど通らないので、よく内緒話をしてる人や携帯電話で話をする人がいたりする。
邪魔にならないようにさっさと行こうと、千鶴が残り4段の階段をのぼろうとしたとき、ふと「だから斎藤課長が……」という声が聞こえて足を止めた。
なにやら興奮したような女性の口調。仕事の話しではない。

「……も、いまさらもう無駄じゃない?」
「……」
「気持ちはわかるけどさあ……。結構昔から、好きだったもんねえ。でも結婚しちゃったらもうどうしようもないって」
「……」

まさかとは思うが、話の流れとさっきちょっと聞こえたことから考えて、斎藤の事だろうか……夫の、と千鶴はドキンとした。そういえば先ほど聞こえてきた女性の声は、前から斎藤のことを好きで一生懸命アピールしてきていた隣の課の女性の声のようにも思える。

「ね?だから今夜の飲み会行こうよ。ぜひあんたもつれて来てってあっちの会社の男子からのリクエストなんだよ?」
「……でも、斎藤課長じゃない人と飲んで楽しいって思えない」
「……あのさあ……」
「もう、不倫でもいいって。だってすごい好きなんだからしょうがないじゃない?」
「いや、あんたそれって……」

その先はもう聞きたくなくて、千鶴は階段を急いで降りた。
心臓がバクバクと音を立てて、自分が動揺しているのがわかる。このままオフィスに戻れる気がしなくて、千鶴はうろうろと廊下を歩いた。
ショックだ。
斎藤がもてるのは知っていた。だって自分だって好きだったし、斎藤を見に来る女子社員はたくさんいたし、誘われてるのも見たことがある。結婚までのあわただしさで忘れていたけれど……

あの人……また、斎藤さん……一さんを誘うのかな……

多分、以前コピー機の前で斎藤に、自分の父親へのプレゼントを一緒に選んでくれないかと頼んでいた女子社員だろう。
綺麗で明るくて、素敵な女性だと、千鶴は思う。(千鶴より)背が高くて(千鶴より)胸が大きくて(千鶴より)手足が長くて……

一さんはどう思うのかな。そりゃあ、あんなきれいな人に真剣に思われてたら、嬉しくないはずないよね。

浮気や不倫なんてする人ではないと思うけれど。でも、千鶴との結婚は恋愛結婚ではないし。斎藤に他に好きな人ができたら、千鶴は当然身を引くべきだろう。赤ちゃんだっていなかったのだし。
今の千鶴にできることは、斎藤があの女子社員をすきになりませんように、と祈ることぐらいだ。

……我ながら、頑張って見てるんだけどな……

名前を呼びあいたいって言って、手をつないで欲しいって自分から言って、キスも……千鶴の方から必死になって頑張ってちょっとづつ進んできた関係が、子供だましのように思えてしまう。それくらい、先ほどの女子社員の声は真剣だった。でも、千鶴には他にどうすればいいのかなんてわからない。
『好き』の気持ちの強さだけで勝負が決まるほど甘くはないってことだけは、千鶴にもわかる。
でも多分、斎藤はあの女性社員の誘いには乗らないだろう。
よっぽどうまい誘いでなければ。斎藤はそう言う人だ。
千鶴は自分に言い聞かせるように小さくうなずいた。


「スポーツクラブに入ることにしたのだ」
その夜ふいに斎藤はそう言った。
とんこつスープの豚キャベツ鍋を食べながらの夕飯時だ。
「スポーツクラブですか?」
「ああ」
と斎藤はうなずくが、なぜか視線を微妙にそらせているような……?
「そうですか。じゃあ会社帰りに……?」
「そうだ。最近運動不足で何か運動をしたいと思っていてな。だが近藤さんの剣道の道場はここからは遠い。ああ、千鶴は場所はしらなかったな。また機会があれば一緒に行きたいとは思っているが、まあそういうことで会社とこのマンションの近くで運動ができる場所はないかと思っていたところ、ちょうど真ん中あたりにあるビルの上の方の階がスポーツクラブになっているという話を聞いてな。うちの社の社員も会員になっていると総司から聞いたので、その人にいろいろ話を聞いたところなかなかいいと思い、今日の帰りに契約してきてしまった。夫婦となれば先に相談した方が良いのかとは思ったのだが、どうだろうか?」

「……」
斎藤らしからぬ饒舌を、千鶴はなんとなく違和感を感じながら聞いていた。
……怪しい。
なにがどう怪しいのかわからないが、怪しいのはわかる。これがいわゆる『女のカン』というやつだろうか。
「……運動は、体にいいと思います。反対する理由なんてないです」
でも、総司から聞いた、というところに少しひっかかる。昼に盗み聞きしたあの話と相まって気になってしまう。
「あの……その、うちの会社で会員になってるって人は誰なんでしょうか?」
「あ、ああ。総司の担当にいる女子社員だ」

やっぱり…

千鶴は食べていたキャベツを意識してゴクンと飲み込んだ。胸が一気に重くなったような気がする。
沖田課長の担当には女性社員って一人しかいないよね。あの人が誘ったの?それとも本当にたまたま斎藤さんもスポーツクラブに入りたくて、仲がいい沖田課長に話したらその女性を教えてもらって……?そんな偶然がある?
それに、斎藤さん……一さんのこの態度。

何かあったのだろうか。このスポーツクラブの話をするときは当然、斎藤とその女性社員は何か話したに違いない。その時に……こんな風に斎藤の態度がなるような何かを話したのか?

お互いに人生を共にするのはこの人だと恋愛をして、そのうえで結婚したのなら追及もできただろう。
でも千鶴と斎藤の始まりは、便宜上のものだった。便宜上結婚してなりゆきで続けているだけだ。追及する資格なんて千鶴にはない。

「それゆえ、多分これからはほとんど夕飯は一緒に食べられなくなると思う。仕事が長引いたあとにスポーツクラブに行くとなると、帰りが遅くなる日も多くなるだろう。夕飯は先に食べて、寝ていてくれて構わない。自分の分は自分でなんとかするから大丈夫だ」
「……わかりました。えっと……夕飯、一緒に食べられる時は言ってくださいね」

自然に笑えているだろうかと思いながら、千鶴は笑顔を作って斎藤を見た。



一緒に夕飯を食べた後はたいてい、お酒を飲みながらその日あったことや他愛もない話をする。テレビを付けながら話すこともあれば、一緒にドラマや映画を見ることもある。
同じ経験を共有することで話題が増え、仲がどんどん近くなっているような気がして、千鶴はその時間が好きだった。
だが、今日は、断られてしまう。
「すまない。実家の弟がまた電話が欲しいと言っていてな」
そう言われてしまったら我がままなんて言えない。最近実家の義理のお父さんや弟さん、妹さんからよく電話がかかってきている。それについても何も話してもらえないことが、千鶴は寂しい。
ゆっくりゆっくりお互いを知っていこうと話し合っているけど。
プライベートの大事な部分には自分は入れてもらえないのかと思うと、さみしいのだ。家族ではなくて部外者だと言われているようで。

……昼間の盗み聞きのせいで、妙に敏感になっちゃってるのかな。たいしたことでもないのに大事に取りすぎてるのかも?

こちらの勝手な感情の揺れで斎藤に迷惑をかけるのは嫌だ。
これだから女と一緒に暮らすのは面倒だなんて思われたくない。

こんな日は早く寝ちゃうに限るよね。

もやもやをかかえたまま、千鶴は電話をしている斎藤をリビングに残して風呂へ向かった。







    
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