【斎藤課長の新婚生活 12】




千鶴にスポーツクラブに入会したと告げた前の夜、実は斎藤は自分の部屋のベッドの上で頭を抱えていた。

ほんっとーーーーーに、他意はなかったのだ。
風呂に入ろうと洗面所の扉を開けたら、見えてしまったのだ。裸ではなかったが、バスタオル一枚をまとっただけで鏡に向かって何やら液体を顔につけていた千鶴を。
扉の位置がやや後方だったので千鶴は気づいていなかったし、斎藤も慌てて扉を閉めた。しかしその時の千鶴が目の奥にちらつく。その後千鶴が寝たのを見計らってこっそり風呂に入ったのだが、千鶴の使ったシャンプーの香りがあまりにも扇情的に感じられて、とても湯船にゆっくり使っていられない。
そうそうに風呂からでて寝たのだが、夢を見た。(またもや)

『千鶴……』
我ながら上ずった声が、風呂の内部に反響する。斎藤は後ろから千鶴を抱えるようにして抱いていた。
千鶴はのぞき見してしまったときのようにバスタオルを一枚巻いていたが、斎藤の両手はそのバスタオルの下に潜り込んでいる。うつむいて頬を染めている千鶴。髪は後ろで一つにまとめられているが、幾筋かうなじに垂れていてそれが色っぽい(それも、洗面所で覗いてしまったときの千鶴と同じだ)。
『あっ…』
胸の先端をこすりあげると、千鶴がビクリと全身を震わせた。斎藤は自分がどんどんと高まっていくのを感じた。強く、弱く動いていた動きが高まっていく。
それに伴い千鶴の喘ぎ声も切迫感を増して行った。
『は、はじめさん……だ、だめ、だめ……っ』
『ちづる……っ』

「千鶴!」
自分の声で目が覚めて、何度目かと斎藤はうんざりした。静かな暗い部屋と必死な自分の声の落差に、自己嫌悪でしばらく目をつぶる。
「……はあ……」
しかしこのまま眠れない。目をつぶるとまたあの夢の続きを見てしまいそうで……いや、見たいのだが。
ものすごく見たい。
このまままた寝てしまおうか…とも思うが、残念ながら斎藤はそこまで器用ではない。あんな夢の続きを自分の意志でしっかり見て楽しんでおいて、現実では少しづつ進んで行っている千鶴との接触を平気な顔でできる自分が想像できない。
絶対、挙動不審になるか最悪夢の話を口走ってしまい千鶴に気持ち悪がられる不幸な未来しか見えない。
斎藤はもう一度深く深くため息とつくと、立ち上がった。冷たい水でも飲むかとキッチンに向かう。 
そして廊下の途中にある千鶴の部屋で、足が勝手に止まった。
勝手に止まった脚に驚いていると、自分の視界の中を、自分の手が意志に反して千鶴の寝ている部屋のノブに伸びていくのも見えた。

千鶴とは夫婦なのだ。手をつなぐのもキスも、千鶴は嫌がっていなかったしむしろ彼女から誘ってくれていたようなものだ。きっとここで扉をあけて、あの夢の中の出来事を現実にしても、拒否されることはあるまい。

そう思いノブに触れる寸前、別の声も聞こえる。

いや、違う。これでは寝込みを襲ったようなものではないか。つまり酔っぱらって訳も分からず千鶴を抱いてしまったあの夜と同じだ。千鶴の方から頑張ってくれて、名前で呼び合うようになり手もつなげるようになって順調に、お互いの意志を確かめ合って信頼関係を深めている今、自分がこんなことをしてしまったら一番の根本にあるべき信頼が壊れてしまう。

いや、千鶴も実は望んでいるのかもしれん。いや、望んでいるのだろう。キスだとて積極的だったではないか。

だからと言って自分の欲望に流されるまま、寝ている女性の部屋に乗り込むなど……

夫婦ならお互い一緒に寝るのは当然で、今、別々に寝てモンモンとしている方がおかしいのではないか?

それはそうかもしれんが………

斎藤はギュッと目をつむると、その勢いで目をつぶったまま自分の部屋へと速足で戻った。
そして冒頭の一行目へ戻る。

ベッドの上で斎藤は頭を抱えていた。
男にとって欲求不満がこれほど自己をおいつめるものだとは。千鶴が欲しくてほしくて、犯罪をおかそうともたとえ嫌われようとも、このままではこの欲望を通してしまいそうだ。だが、それは嫌なのだ。
彼女のことは大事にしたい。きっかけがあんな夜で朝に何も覚えていないなどという人生最大の汚点を拭い去りたい。彼女に、信頼をしてほしいのだ。なのにやろうとしていることはなんなのだ。
これではだめだ。
どうすればいいかというと、考える時間を失くして体をへとへとにすればいいのだ。保健体育でならった。確か昇華というのではなかったか。中学高校時代は勉学と剣道に打ち込み、自然に昇華できていたのだ。まさかこの年になって子の必要性が出てくるとは思っていなかったが、基本的な解決方法は同じだろう。
勉学は会社の仕事で代替すればいいだろう。剣道は……近藤さんの道場は遠いし毎日通うわけにもいかん。ジョギングでも始めるか……しかし千鶴に怪しまれはしないか。いや、怪しむといって何を怪しむのだ。彼女は俺のこんな状態を全く知らんというのに。
いや、知っておいてもらって協力を頼むというのはありかもしれん……いやいやいや俺は何を考えているんだ、協力とはいったいなんだ。

そうやって一晩悶々と自問自答を繰り返した斎藤は、次の日の昼休み、総司が持っていたチラシにふと気づいた。憔悴しきった脳みそに、チラシにうつっているはつらつとした男女がまぶしい。
「なんだそれは」
「これ?昼にちょっと用事があって外に出たんだけどその時もらった。スポーツクラブだよね。うちの課の子がここに入ったって言ってたからさ。なんか安くなるクーポンがついてるからあげようかと……」
「見せてくれ!」
あとはトントンと話は進んだ。
席に戻ってきたその女子社員に話を聞くと、ちょうどいま新規会員を募集していて紹介者にも何やら特典があるから今日の帰りに一緒にスポーツクラブに行って会員になったらどうかと勧められ、斎藤は大きくうなずいた。
千鶴に話すのもうまくいった。
我ながら論理的に説明できたと思う。何度も何度も説明の仕方を脳内でシミュレーションしたかいあって、千鶴も快く承諾してくれた。
しばらく千鶴と二人きりで過ごす機会を減らすことと、何よりも風呂だ。あの風呂がいかん。
どうしてもそういう妄想が湧いてきてしまう。スポーツクラブで運動をしてそこでシャワーを浴びて帰れば、清潔さも保ちつつ家の、千鶴の使った風呂に入る必要もないのだ。

自分の席でメールに対応しながら、斎藤は満足だった。
昨夜さっそくスポーツクラブで筋トレとジョギングをして帰って、夢を見なかったのだ!朝、朝食の時に千鶴と顔を合わせたが、後ろめたいこともなく真っ直ぐに顔を見れた。千鶴は今日も可愛いかった。
「斎藤君、今日はご機嫌だね」
昼食を一緒に食べた総司が隣を歩きながら横目でからかうように見てくる。
「ちょっと前はイライラして疲れてたのに」
千鶴の裸がちらついて眠れなかった頃だ。
「その前はうきうきして足が浮いてたし」
「……」
「さらにその前は暗かったしね」
これは明らかにからかわれている。
「千鶴ちゃんに振り回されてるんだね。あの斎藤君がねえ」
にやにやと顔を覗き込んでくる総司を、斎藤は手で遠ざけた。
「別に千鶴は……千鶴は何もしていない。ずっと一人で暮らしてきたのが他人と一緒に住むのだ。いろいろあって当然だろう」
「そうだね」
とは言ったものの、あいかわらずからかうようなニヤニヤ笑いだ。
「今日は機嫌がいいみたいだけど、ああいうのを見ると今度はどうなるのかな?」
そう言って総司が指をさした先を見て、斎藤は立ち止まった。
そこは社内の休憩スペースで、中に千鶴がいた。
知らない男と。
立ち話とかではなく、椅子に……ソファに隣同士で座って話し込んでいる。
「……」
知らない男だ。(二度目)
ということはこの本社勤務ではないのだろう。俺よりも若い。それに妙になれなれしい。千鶴との距離が近く仲がよさそうだ。
「あ、斎藤君、眉間にしわ」
嬉しそうな総司の声に、斎藤は我にかえって再び歩き出す。手を伸ばして眉間を触りたいが、また総司にからかうネタを渡すわけには行かない。
「いいの?なんかすごく仲よさそうだったけど。おたくの奥さん」
「千鶴とて俺の知らない人間関係があって当然だ。おまえや平助とも千鶴はよく話しているだろう」
「まあね、でもあの男、見ない顔だよね」
総司が振り返って休憩室の方を見た時、「あ、千鶴ちゃん」とつぶやいた。
「斎藤さん!」
休憩室から急ぎ足で千鶴が出てくる。
「ああ、ちづ…雪村」
会社ではお互い、『斎藤さん』『雪村』で通している。斎藤姓が二人いると混乱するし、これまでの人間関係もある。二人の時だけ、一さんと呼んでもらえることが二人の親密さをあらわしているようで、これはこれで結構いい。
先ほどの男は休憩室に置いてきたようで、千鶴は一人だった。
「斎藤さん、今夜もスポーツクラブに行きますか?」
「ああ、そのつもりだが」
「あの、支店に勤務してる同期が久しぶりに本社に出張できてて。一緒に夕飯をどうかって言われてるんですが、行ってもいいでしょうか」

「……」

総司の目がキランと光って楽しそうに斎藤と千鶴を見ている。即答できなかった自分を悔やみながら、斎藤は言った。
「もちろんだ。俺の許可などとる必要はない。予定を教えてくれるだけでいい」
「ありがとうございます。じゃあ…」
千鶴はそう言うと、総司にも小さく会釈しまた休憩室に戻ってしまった。
ワクワクしながら斎藤を観察している総司を敢えてスルーして斎藤は再び歩き出した。
「行くぞ」
「いいの?昼も一緒に食べたんじゃない?あの様子だと」
「だからなんだ。俺だってお前と食べた」
「男と女じゃ違うでしょ」
「……」
「しかも夜だしねえ……」
斎藤は立ち止まってしまった。
仲がよさそうだった。新入社員のころにあの二人の間で何かあったのかなかったのか、斎藤は知らない。

「……そうなのだろうか。行くなと言った方がよかったのか……?」

だが、夫だからといって妻の友人関係に口を出す権利があるとは思えない。しかも、妻とはいってもどさくさに紛れて妻になってもらったのだ。普通に恋愛をし、この人と生涯を共にしたいと思い選んでもらったわけではない。
途方に暮れた斎藤の顔を見て、総司は苦笑いをした。
「……今さらやっぱりダメとは言いにくいしね。今日はさ、スポーツクラブは止めて左之さんのところに飲みに行かない?不安にさせちゃったお詫びにおごるからさ」
結婚生活がここまで大変で難しいとは思わなかった。
斎藤は小さくため息をつくと、総司の言葉に頷いた。










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