【斎藤課長の新婚生活 13】
「あんまり飲みすぎない方がいいんじゃないですか?」
優し気なアルトで、バーのママがカウンターの向こう側から斎藤に言った。
斎藤はもう何杯目か忘れた焼酎のグラスを見る。
「ああ、いや…俺は……」
言いかけた時、同じくカウンターの隣に座っている平助が笑いながら斎藤の言葉をさえぎる。
「だーいじょうぶだって!一君はざるだから。ざ・る!」
同じく左之も笑う。
「そうだよなあ、斎藤が酔ったところって見たことねえなあ」
総司も頷いた。「そうそう。だからママさん、その人は放っておいて大丈夫だよ。それに今日は斎藤君を慰めるための飲み会だからね」
わっはっはっは!と何が面白いのか笑いあっている三人をママと斎藤は見て、そして顔を見合わせた。
「あちらの皆さんはもう出来上がってるみたいですね」
「そうだな」
左之も今日は自分の店を従業員に任せて大丈夫だと言うので、四人で斎藤を慰めると言うのを口実に飲みに出た。
この店で3件目で、多分ここで締めだろう。左之が知っていた落ち着いたバーで、客は斎藤達の他、一組しかいなかった。
斎藤は苦笑いをしてグラスを空ける。
「皆が言う通りあまり酔わないタチでな。今もたいして酔ってはいない。もう一杯もらえるか」
年齢不詳で貫禄があって更には色っぽいママは、にっこりとほほ笑むと焼酎の水割りを作って斎藤に渡した。
「なにかつまみますか?」
「いや、結構だ」
「でもお酒ばっかりだと胃を痛めますよ」
「あまり……食欲がなくてな」
「まあ……」
千鶴と、例の知らない男が夕飯を二人で食べているということ。ただそれだけでみっともなく動揺しているのかと思うと、斎藤は自分が嫌になった。気にしてはいないつもりだったが実際今、食欲は無い。その原因はと考えてみると、千鶴のことぐらいしか思い当たらなかった。
どれだけ小さな男なのだ己は。千鶴が、その……浮気をするなどとそんなことはあるはずがない。
……だが、本気はあるかもしれない。何と言っても結婚のきっかけがアレだったのだ。実は新入社員のころから同期のあの男が好きだったのだけれども斎藤とあんなことになって流されて結婚してしまって、今からでもやり直しができないかとか……
斎藤はがぶっと水割りを飲んだ。
「よくわからないですけど、たいへんそうですね。その悩みのもとからしばらく離れてみるのもいいかもしれませんよ?」
ママに優しくそう言われ、斎藤はしばらく考えた。
「……離れた方が楽なのだろうとは頭ではわかっている」
千鶴から離れることができれば、千鶴を抱きたくて眠れない夜を過ごすことも、無駄にスポーツクラブで運動することも、彼女が他の男と夕飯を食べると言うだけで落ち込むこともなくなるのだ。
「……だが、離れたくないのだ。だから困っている」
「でも、そんなにため息ばっかりじゃあ疲れちゃいません?」
「ため息もつくが、楽しいことも多いのだ。これまでの人生の中で一番のどん底と一番のてっぺんを同時にあじわっているというか」
斎藤がそう言うと、ママが綺麗に描かれた眉をあげ、そしていたずらっぽく笑った。
「わかった。私、ヤボな質問してました」
「ヤボ?」
斎藤が真顔でそう聞き返すと、ママはころころと笑う。
「お医者様でも草津の湯でも治らない、ってやつでしょ?」
斎藤が眉間にしわを寄せて首をかしげていると、ママが言った。
「恋、ですよね?」
「恋?」
斎藤が繰り返すと、すぐに隣の平助が聞きつけて否定した。
「ナイナイナイナイ!一君はねー、かわいーい女の子と結婚したばっかりの新婚さん!他の女に目がいかないって!」
ママは平助を見ると、「あら」と言った。
「ばっちり恋の症状だと思ったんですけど。好きな人がいてうまくいってないのかなって。でも新婚さんなら違いますね」
左之も笑いながら会話に入ってきた。
「好きな人はいるだろうけどよ、その子とうまくいってないって、結婚までしてるんだからそりゃねーよなあ」
バンバンと斎藤は肩を叩かれ、皆は声を合わせて笑った。
話しの流れは今度は、独身三人組の恋人はいないのかという話に変わって行く。しかし斎藤にはその会話は耳に入っていなかった。
恋……
好きな人……
こい……
KOI……
いつの間にか店を出て、夜風が涼しい帰り道。総司と平助は先に地下鉄に乗ってしまい、左之と斎藤だけになった。
あー、飲みすぎたなあと左之が伸びをしたとき、隣でずっと静かだった斎藤がぽつりと言った。
「恋というのは……その、中学生や高校生がよくするものだろう?」
いい気分で酔っていた左之は、斎藤の質問に面食らった。
「はあ?」
しかし斎藤は真面目な顔でじっと足元を見ている。左之は返事に困った。
「……いや、うーん……中学高校あたりもするがよ、それは初恋とか……いや、初恋ってのは幼稚園とかか?まあともかく、老いらくの恋ってのもあるくらいだし、いくつになっても恋はするだろ」
「お前もしたことがあるのか?」
「斎藤、おまえ何言って……」
「ないのか?」
何が何だかわからないがどうやら斎藤は真剣に『恋』について話したいらしい。
左之は頭を掻いた。こうなりゃ腹をくくってつきあうしかない。恋とか青臭い話を斎藤とするとは想定外だが、ちょうどいい感じに酔っぱらってることだし。
「あるぜ」
「どんな風だったのだろうか」
「どんな?」
「つまり……」
斎藤はそう言うと、考え込むように顎に手をやった。
「つまり、楽しかったのか楽しくなかったのか、ということだ」
「そりゃ楽しいだろ」
左之がそう言うと、斎藤はほっとした顔をした。
「そうだな、恋というのは楽しいものだと俺も思っていた。いや、先ほどのバーのママがな、恋というのは天国と地獄を同時に味わっているようなものだと言うので、それはどうなのかと……」
「いや、そのとおりじゃねえか?さすがママ、うまいこと言うなあー」
左之が腕を組んで感心すると、斎藤が食いついてきた。
「いや、だが、食欲がなくなったり眠れなくなったり、集中力がなくなったり、仕事に身が入らなくなったりするのだぞ?いらいらしてモノや人にあたってしまうこともあるし、何よりも気分の浮き沈みが激しくて自分でコントロールが効かなくなる。こんなことはおかしいだろう?」
斎藤が言い募るのを見ているうちに、左之はピンと来た。
ははあ……こいつ、もしかして……
どうしてもニヤニヤと笑ってしまう口元を隠そうと、左之は大きな掌で口の辺りを撫でた。
「いや、おかしくねえ。それこそまさに『恋』ってやつだ」
驚愕、という顔をして立ち止まってしまった斎藤に、左之はつづけた。
「好きな女が振り向いてくれねえときは、まさにそんな風になる。振り向いてくれた後も、好きなら好きな分だけちょっとしたことで舞い上がって調子のって自己嫌悪したり、勝手に落ち込んでやさぐれたり、よくあることだろ。そういうの全部ひっくるめて後でいい思い出ってのになんだよ」
斎藤の恋のお相手は、当然ながら千鶴だろう、と左之はにやにや笑いを隠しながら横目で斎藤を見た。この前の二次会でもラブラブでキスまでしていたのに何を今さら、と思わなくもない。そこは何か事情があるんだろうと、左之はあえて追及はしなかった。
何にせよあの斎藤がここまでになっているのだ。恋の病は相当重症だと見ていい。
だが、二次会の時の千鶴の様子は、左之が見る限り斎藤に惚れてる恋する乙女そのものだった。斎藤の恋の病が快癒するのもそう遠い先ではないだろう。
斎藤はまだ立ったままフリーズしていた。
左之は吹き出したくなるのを我慢して、背中をバン!と叩く。
「ま、恋ってのを自覚したら後は楽勝だろ?」
「楽勝……」
「そう。オトせばいいだけだ」
左之がウィンクしてそう言うと、斎藤は途方に暮れた顔をする。
「オトすなどと……」
「これまで女とつきあったことくらいあるだろ?」
「……」
黙り込んでしまった斎藤に、左之はため息をついた。どうやら脳内までフリーズしてしまったらしい。
「そうだな。お前なら……無難にいくのがいいんじゃねえか。夕飯に誘ったりとか映画に誘ったりとか、デートだよ、要は。その子としたことあるか?」
斎藤はぶんぶんと首を横に振る。
「じゃ、まずそれだ。あ、夕飯は家飯とかそのへんの居酒屋とかファミレスじゃねえぞ?ちゃんとした店に連れて行ってやれよ。映画は相手の希望を聞いてみるのを決めろ。んで、映画見てさっさと帰るんじゃなくて帰りにお茶したりするんだぞ」
「ちゃんとした……ちゃんとした店とはどのような店なのだ?」
おろおろと聞いてくる斎藤に、左之はまたため息をついた。
「んなん、ネットで調べたり本で調べりゃわんさと出てくるからよ、行き方ちゃんとしらべて混む店なら予約、な?」
斎藤はこくこくとうなずいている。このままだとメモでも取りそうな勢いで、左之は苦笑いをした。
「ま、後は相手に合わせてその場の流れだな。がんばれよ」
そう言ってもう一度バン!と背中を叩いて、左之は鼻歌を歌いながら立ち去ってしまった。
左之はここから地下鉄で、斎藤は歩きだ。
夜の灯りの中を去っていく左之の背中を見ながら、斎藤は途方に暮れていた。
恋……
恋なのか、これは……。
ものすごく辛いがものすごく幸せな、渦潮に巻き込まれて翻弄されているような毎日が、これが恋?
先ほど初めて知った自分の状態に、斎藤はまだついていけていなかった。
恋は……普通にしてきた。当然だ。恋人がいたことは何度かあるし、楽しく付き合った思い出もある。だがこんなに、生活そのもの、人格そのものをそこからさらわれてひっくり返されて三倍速で洗われてもう上も下もわからなくなって、自分が尊厳として持っていた価値観まで放り出してもいいと思ってしまうような経験はなかったのだ。
ということは、これまでの経験は恋ではなかったということか。
左之も、バーのママもそれが普通だとさらっと言っていたということは、世の人はみなこれを経験しているということか……
斎藤は自分の未熟ぶりにガックリと膝をつきたくなった。
世間の人々は何と凄い事か。普通の顔をして皆『恋』をすませていたのか。これだけしんどく体力と精神力を使う『恋』を、仕事の傍らで、学業の傍らで同時進行でやっていたのだ。
斎藤はすれ違うおじさんたちすべてを尊敬のまなざしで眺めた。あの人もあの人も、皆、恋を経験して乗り越えてきたのか。自分はまだまだ未熟者だった。しかもどうやって乗り越えればいいのかすらわからない。
……いやわかっている。先ほど左之が教えてくれた。
デートか。そう言えば千鶴とはあらかじめ約束して出かけるようなことは、日常の買い物以外したことがなかった。結婚する前も、結婚した後もそうだ。恋人たちがすることと言えば、一緒に食事に出かけたり映画を見たり。あとは……ドライブとかか?旅行もいいかもしれん。
千鶴は……千鶴はどういう店が好きなのだろうか。和風がいいのか洋風のレストランがいいのか。苦手な料理はあるのだろうか。映画は?ハリウッド的なものか?邦画か。旅行も、どんな場所が好きなのか。
知らないことばかりだな。
そして知りたい事ばかりだ。
千鶴のことがもっと知りたい。自分のことも……もし嫌でなければ知ってほしい。そして自分の傍にいてくれて、その上それが楽しいと思えてもらえたらこんな幸せなことは無い。
そのためにならなんでもできる。
俺は千鶴のことが好きなのだ。
「そうだったのか……」
斎藤は街角に立ち尽くしたまま呟いた。車のテールランプが赤く光って夜の繁華街を照らしている。
これが恋か……
オトすためのあれやこれやの前に、斎藤は初めて知った自分の感情に茫然と立ち尽くしていた。
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