【斎藤課長の新婚生活 14】



昼休み、千が雑誌を見ながら難しい顔をしているので千鶴は覗き込んだ。
「何を読んでるの?」
「ん?これよ」
千が見せてくれたのは特集記事で、タイトルに『彼の浮気チェック表!』と書かれている。
「斎藤課長は浮気とかしなさそうよねえ」と笑う千に、千鶴は思い当たることがあって笑い返せなかった。
雑誌を見せてもらい上からチェックリストを読んでみる。

(1)『聞かれてもいないのによくしゃべる』
「……」
いきなり思い当たって、千鶴は黙り込んでしまった。
これはこの前の夕飯の時に感じた。斎藤は普段あまりしゃべるほうではない。なのにあの時は、スポーツクラブについてどこで知ってどうして入りたくて入ったことによってどうするか、滔々と話していた。聞いていもいないのに。

ま、まあ……でもそれは、結婚したばっかりだから。気を使ってくれたんだよね。

(2)『これまでと趣味が変わる。例:着る服、読む本、行く場所など』
「……」
千鶴は先週末、斎藤が買い物に出かけていた時のことを思い出した。斎藤がいない間にざっと片付けて掃除機をかけておこうと思いリビングを掃除していたのだ。ソファの下を覗き込んだ時、それに気が付いた。
……雑誌?
リビングのソファと壁の間に挟まって落ちている。ソファのひじ掛けの所に置いていたものがたまに落ちているので、その雑誌もそれだろうと思い、千鶴は取り出した。雑誌は【徹底!雰囲気のいいお店50選】というタイトルだった。
千鶴のではないから斎藤のだろう。別にそれはそれでいい。飲み会や何かの集まりで、いろんな店を知っておいた方がいい場合も多い。でも千鶴がひっかかったのは、パラパラと中を見た時に折り目がついていた店だった。
おちついた洋風の建物で、ライトアップされた外観は高級感が漂っている。キャッチコピーに、【洗練された料理とアットホームなおもてなし。おしゃれで静かなフレンチレストラン。本命を連れていきたい】と書いてある。とても会社の同僚と行くような店ではない。
「……」
斎藤が家で読んでいる雑誌は、業界紙や経済紙でこういうのを読んでいるのは見たことがなかった。いや、千鶴が知らなかっただけで実はこういう情報誌的なものを愛読している人だったのかもしれないが……こういうところに頻繁にいくタイプでもないと思っていたのだ。
もともとそういう人だったのか最近になって『趣味が変わった』のか。
雑誌を眺めながら、千鶴の頭には例のスポーツクラブを紹介した女性が浮かんでいた。スポーツクラブに行く日は、斎藤は夕飯を家では食べない。
軽く食べて帰っていると言っていたが、一人でだろうか。もしかしたらあの女性と一緒に食べて帰っているんじゃ?それでもっていつも同じ店というわけにもいかないから、こういう雑誌で調べてるとか……
千鶴はそのまま雑誌を閉じると、片づけずにまたソファと壁の間に挟んでおいた。

(3)『妙に優しい』
「……そういえば……」
千鶴は先日の夜、斎藤がケーキを買って帰ってきてくれたことを思い出した。千鶴が同期と食事をして帰ってきた日のことだ。
前に一緒に出掛けた時に見かけた有名店のロールケーキがたまたま通りかかったらまだ残っていたので、と。外出しているときにも千鶴のことを考えてくれたのかと嬉しく、千鶴がお礼を言うと斎藤は照れくさそうに『いや、たいしたことでは…』ともごもごと目じりを赤くしていた。
幸せな気分になったのだが、『妙に優しい』といえば妙に優しかった。

何か……後ろ暗いことがあった、とか……

『彼の浮気チェック表』を読めば読むほど、千鶴は暗い表情になっていく。怪しいと思えば最近の斎藤はすべて怪しいのでは。
千鶴はチェックリストの次の項目を見ていく。

(4)『休日に一人で出かける』
これはまあ…。自分の買い物のときは斎藤は一人で出かけるし、千鶴だって自分のショッピングの時は一人で出かける。普通だと思っていたが、怪しいのだろうか。

(5)『外泊する』
これを読んで千鶴はほっと肩の力を抜いた。これはない。
近いうちに斎藤の実家に行こうとか、千鶴の実家のある地域にいって墓参りをしようとか話しているが、どちらも二人でだ。


千鶴がそのまま読み進めると、『外泊まで行くと問題は深刻です。認めたく無いかもしれないけど、一度きちんと聞いてみましょう。放っておくとずるずると関係が続いてしまい、情が湧いてきてあなたの方が邪魔者になっちゃうかも。その後別れるか別れないかについても考えて』と書かれており、記事は終わっていた。


千鶴は会社の廊下を歩いていた。
先ほどの雑誌の内容がまだもやもやと胸の奥でわだかまっている。男性と長く付き合った経験があれば、先ほどの記事のようなものを読んだり浮気を疑ったりの経験もあったかもしれないが、千鶴はこれが初めてだった。
考えれば考えるほど最近の斎藤の言動が怪しく思えてきてしまう。

「ちづ……雪村」

呼び止められて千鶴は振り向いた。斎藤だ。
「その、今夜のことだが」
「はい」
「何か予定はあるか?」
「いえ、別に……普通に帰ります。斎藤さんはスポーツクラブですよね?」
拗ねた言い方にならないように気を付けながら、千鶴は言った。夕飯はいらないとか帰りが遅くなるとか斎藤はいつも律儀に予定を教えてくれるのだ。夕ご飯を作って待っているのに連絡なく飲み会に言ってしまう夫の悪口などをたまに聞くことがあるが、それに比べれば斎藤はとてもいい夫なのだろう。
「いや、今日は行かないつもりだ。その……もしよければ、一緒に、一緒に、一緒に、食べに行くのはどうだろうか」
「はい、わかりました。そうしましょうか」
今日は金曜日で冷蔵庫もほぼ空っぽだし、二人とも残業の時はたまに外食して帰ることもあるので、千鶴は特に考えもせずにうなずいた。
斎藤はなぜかホッとしたように笑顔になると、「じゃあ、帰り際に声をかける」と言って立ち去ろうとして、立ち止まった。
「ああ、そういえば、今週末なのだが」
「はい?」
「泊りで出かけることになったのだ。土日どちらも俺はいないが、なにか用事があっただろうか?」
「……」
泊り……・
千鶴は先ほどの雑誌のチェックリストを思い浮かべる。

……まさかこう来るとは……聞いていいよね。夫婦なんだし……

「あのう……どこに……」
「ああ、俺の実家だ」
「斎藤さんの?でも次に行くときは二人で一緒に行こうって……」
千鶴がそう言うと、斎藤は後ろめたそうな顔をした。
「ああ……そうだったな。すまない」
次の言葉を待ったが、斎藤は言うつもりは無いようで会話はそこで終わった。視線を合わせてくれない。
立ち去る斎藤の背中を見ながら、千鶴の胸のモヤモヤがどんどん広がっていくのを感じた。
これは……そうなんだろうか。本当に実家に帰るのだろうか。実家じゃなかったらどこに……だ、誰と……

斎藤のことを信じよう信じようと思うものの、千鶴は胸に黒い雲がかかってくるのを止められない。
明日、斎藤が出かけた後に斎藤の実家に電話をしてみればいいのだ。でもそこで『帰ってきてない』と言われたら………そうしたら、確定してしまう。
どうすてばいいのか。そもそも初めから間違っていたのか。
もともと千鶴は斎藤のタイプではなかったのだ。どんなに頑張っても好きになってはもらえないのか。

斎藤と一緒に暮らすようになってから、こんな状態の連続だ。斎藤の笑顔を見て幸せな気分になり、会社で働いている斎藤を見て今はあの人が自分の夫なんだと幸せになり、ちょっとしたことでやっぱり自分では斎藤の思い人にはなれないのかと落ち込んだり。
幸せな時には大して負担にも思わないが、こうやって自信喪失しているときにはこの気分の揺れは辛い。

斎藤さんと結婚しなかったら、もっと毎日平和だったのになあ……

今から思うとそのころの方がいろいろ楽しんでいた気がする。本を読んだり千達と映画をみたり、旅行に行ったり。
千鶴は泣きたくなる気持ちをため息で紛らわせて、仕事に戻った。



当然家の近くで帰りがけに食事をするのだと思っていた千鶴は、斎藤が地下鉄の駅へと降りていくのに驚いた。
「え?乗るんですか?」
「ああ。二駅だけだが」
斎藤について駅から降りて知らない街を歩いて行く。
緩やかな坂はきれいに整備されていて、街路樹が多い。道に連なる店はおしゃれなカフェやセレクトショップが多く、感じがいい。
夕暮れがどんどん町の色を消して、その代りに暖かい灯りをともしていく。そのまま緩やかな坂を歩いて行くと、登り切った先に高台から夜景を見下ろす位置に建物があるのが見えた。夕暮れの中ライトアップされていて落ち着いた外観。
「あ……」
何処かで見たことある、と思った千鶴は思い当たって小さくつぶやいた。あの雑誌だ。折り目がついていた。
雑誌の写真はもっと暗い時間帯で反対側から撮られているようだったけど、建物は同じだ。
「知っているのか?有名な店なのだそうだ。俺はこういうのに疎いので知らなかったが」
千鶴は立ち止まった。
夕暮れの中で見える斎藤の顔を見上げる。
「どうして……どうして今夜はここに?」
すると、斎藤の顔は薄闇の中でもはっきりとわかるくらい赤くなった。
「その……俺は無粋者で。女性を……千鶴に、妻が……」
しどろもどろになり言葉に使えてしまった。ゴホンと気を取り直すためのカラ咳をしてから、斎藤は千鶴を見た。
「……その俺は……デ、デートというものに誘ったことがなかったなと思ったのでな。どういう店が千鶴の好みかはわからんが……まあ雑誌で紹介されている店なら大丈夫だろうと……気に入らなかったのだろうか」
斎藤の言葉と表情を見て、千鶴は自分が恥ずかしくなった。
浮気を疑っていたなんて。斎藤さんはこんなに二人のことを考えてくれていたのに。
どんなに疑り深い人が見ても、この斎藤の様子を見れば彼が本気で千鶴とのことを考えていてくれることはわかる。

雑誌の記事なんか信じないで、目の前にいる斎藤さんを信じてればよかった。

「……あの、気に入りました。すごく」
千鶴がそう言うと、斎藤は嬉しそうにほほ笑んでくれた。
「そうか、よかった。では行くか」
そう言って歩き出した斎藤に千鶴は思わず言った。
「連れてきてくれて、ありがとうございます」
斎藤は少し驚いたように、その深い蒼色の目を見開いて千鶴を見た。そして再びほほ笑むと手を差し出す。
「どういたしまして」

千鶴は、手を伸ばして斎藤の手を握った。 














     
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