【斎藤課長の新婚生活 7】
「ちーづるちゃん!」
後ろから声をかけられ、千鶴は振り返った。
「沖田さん」
「千鶴ちゃん、今夜の、聞いてる?」
後ろから声をかけてきたのは、別の部の沖田だ。斎藤と同じ課長で昔からの友達というのは社内でも有名だ。
千鶴は笑顔で頷いた。
「はい。私たちの結婚お祝いの会を開いてくださるって。ありがとうございます」
「いーえ、こっちこそ男ばっかりの飲み会に参加してくれてありがとね。結婚式も披露宴も二次会もなかったから、僕達で何かしたいねって話になってさ」
「お友達のお店を借り切ってやるって聞いてますけど、そんなに大きな集まりなんでしょうか?あの、前に会社の二次会をやった原田さんって方のお店なんですよね」
知らない人ばかり、知らない場所で、というのに千鶴は少し不安だ。総司は笑顔で軽く言う。
「大丈夫大丈夫。そんな大がかりじゃないよ。うちの社長の近藤さん、プライベートで道場やっててさ、そこの仲間。平助に僕に土方さん、近藤さん……他10人くらいかな?うちの会社の人もいるし他社の人もいるしね。左之さんも全然怖くないアニキみたいな人だから安心しておいで」
斎藤がずっと剣道をやっているというのも最近聞いた。
『絶対何かスポーツやってるよね!』
『姿勢いいもんねえ!一緒に海とか行きたい!』
『あんた、それ、裸を見たいだけでしょー!!このスケベ!』
『だって絶対いい体してると思わない?』
斎藤のファンの女子社員たちの会話は、あたっていた。でも斎藤が剣道をやっていることまで知っているのは妻である自分だけ。……それに裸の背中を見たのも、会社の中では自分だけ、だと思う。多分。
実態としては面倒を見てもらってる同居にすぎなくて情けないけど、こうやって少しづつ斎藤のことを知れるのは嬉しい。
「ところで、千鶴ちゃん。ちょっと聞きたいんだけど……」
総司はそう言うとキョロキョロとあたりを見渡して、内緒話のように小さな声で言った。
「斎藤君、最近ちょっと変じゃない?」
千鶴は目をぱちくりさせる。
「変?……そうですか?」
千鶴は最近の斎藤の様子を思い返してみる。昨夜も一緒にご飯を食べてテレビを見ておしゃべりをした。特に、心当たりはないけど……
「うん。結婚してからウキウキしてるのは変わらないんだけどさ、最近急に……ぼーっとしてるっていうか……時々物思いに沈んでるみたいな?なにか悩みでもあるのかなって思ったんだけど」
千鶴は首を傾げた。心当たりはやっぱり無い。
総司にはこれから注意してみますと告げる。
なんだろう……さすがにおんぶにだっこの私にいやになったとか……。それか、一人の時間が欲しいとか共同生活が不自由だとか……?
総司と別れ、千鶴は一人でオフィスへ不安とともに帰った。
「斎藤君、千鶴ちゃん!お・め・で・とーーー!」
カンパーイ!というにぎやかな声と共にグラスとグラスが触れ合う音と笑い声が溢れる。
左之の店での、結婚祝いパーティだ。
「ほらよ、リクエストのラザーニャ」
緑のカフェエプロンに黒のシャツ。背が高く赤茶色の髪の左之は、まさにレストランバーのオーナーシェフそのものの色っぽさと世慣れた感じだ。そのイケメンぶりと色気に最初はたじたじだった千鶴だが、中身は総司の言う通り気遣い抜群のいいアニキだった。平助推薦の『左之さんのラザーニャ』を食べてみたいと千鶴が言うと、パーティメニューを作っていてくれたにもかかわらず特別にラザーニャを作ってくれたのだ。
「おいしい!」
コクのあるミートソースと小麦粉の味がしっかりとしたパスタ。大人の味だ。
「そうか?ありがとよ」
にっこりほほ笑んだその笑顔も千鶴をリラックスさせてくれる。隣の斎藤は、次から次へと酒を注ぎに来てくれる皆にからかわれながらも談笑していた。
平助と左之、総司が集まり斎藤の隣に座っている千鶴に聞く。
「もう斎藤の実家には行ったのか?」と左之。
千鶴はうなずいた。
「おっきい家だったでしょ〜」
「沖田さんは行ったことがあるんですか?」
平助がうなずいた。「俺らは行って泊まらせてもらったことあんだよ。みんないい人たちだよな」
「はい。皆さん優しくて……」
千鶴はほほ笑みながら斎藤を見る。斎藤も優しくほほ笑んで千鶴を見てうなずいた。
「俺の両親も弟も妹も、雪村のことを気に入ったようだ」
斎藤の家はここから新幹線で半日かかる地方都市で、とにかく大きな旧家だった。ふるい家柄で親戚には国会議員もいるような、地元の名士一族のようだ。が、別にお高くとまってると言うようなことはなく、家族はみんな斎藤と千鶴を歓迎してくれた。お義母さんの心づくしの郷土料理に、
お義父さんからの地酒の振る舞い(千鶴は少ししか飲めなかったが)、義弟も義妹もまるで昔からの知り合いのように千鶴に接してくれ、とても楽しい里帰りだった。
「へー。一君は千鶴の兄さんに気に入られてるみたいだし、よかったじゃん!」
平助がそう言うと皆もうなずく。千鶴も、嬉しかった。
料理もおいしくお酒も千鶴が飲みやすいカクテルを左之が作ってくれて、皆からのなれそめについての追及も斎藤がうまく答えて、パーティはつつがなく終わりの時間に近づく。
「そろそろ終わりにするか。みんな残りを食べて飲んどけよー」
途中から厨房から出てみんなと一緒に飲んだり食べたりしていた左之が、声をかける。斎藤が左之に礼を言った。
「いろいろとすまんな。ありがとう」
「いーや、金はちゃんともらってる上に俺まで参加できたしな。気にするな」
斎藤は立ち上がると、皆にも言った。
「今夜は俺の……俺たちのためにこんな会を開いてもらって嬉しく思っている。ありがとう」
生真面目な顔の斎藤に、皆のヤジが飛ぶ。
「なんだよ、そんなにあらたまって」
「お幸せにー!」
「鼻の下がのびてるぞー!」
雰囲気的に隣の千鶴も立ち上がると、どこからか「じゃあお約束のキスで締めを!」「そうだな!」という声があがり、一斉に「キース!」「キース!」の大合唱になってしまった。酔っぱらいつつ何処かふわふわしていた千鶴は、その合唱で一気に酔いがさめる。
キ、キス!?
当然ながら斎藤とキスなどしたこともない。手もつないだこともないのだ。(記憶のないあの夜にした可能性は大ではあるが)
共同生活が始まってもう2ヶ月近いけれど、斎藤は慎重ともいえるほど千鶴と距離をとっている。廊下ですれ違う時も体に触れないように気を使い、狭いキッチンでも決して手にも肩にもふれないように気を付けてくれている。
千鶴としてもあの夜が初めて(多分)だったことからもわかるように、正直男性には免疫がない。薫とはそりゃあぶつかったりはするものの異性の兄弟だし親密なふれあいなど皆無だ。その上、薫はどちらかというと華奢で、斎藤とは全然違う。独身の時の千鶴のワンルームに薫と一緒に寝ても、たいして威圧感は感じなかった。
でも今は日々意識しまくりで、たまに隣にいる斎藤の背の高さや肩幅の広さ腕の太さに赤くなるくらいが千鶴にとってのせい一杯。こんな衆人環視での斎藤とのふれあい、しかもキスなんて……!!
パニックになった千鶴が見ると、斎藤も困ったような気まずそうな顔をしている。
しかしそれも外野からは、照れくさがってる新婚夫婦の戸惑いにしか見えないようで、情け容赦なく『キス!』『キース!』『早くしろー!』との声があがるのだ。
斎藤が千鶴をじっとみる。
斎藤から、今夜の会を開くきっかけは総司たちを含む斎藤の昔からの友人達が、斎藤の急な結婚を不思議に思っていることからだった、と聞いている。ここでキスをしなければ、きっと何か言われる。この結婚はやっぱりあやしいのではないか、なんてまたいろいろ探られると困るのだ。
千鶴は、ええいままよ!と斎藤を見上げてギュッと目をつぶった。
最初の夜、一緒のベッドに寝て体をはって斎藤と本当の夫婦になろうとしたのだ。それなら今、この場でキスできないはずだってないだろう。
ああ、酔っぱらっておでことかテカテカだし、お化粧もきっと落ちちゃって口紅ももう……化粧直しをしとけばよかった……
顔赤くなってるだろうし髪もぼさぼさだし、……斎藤さん、キスするのいやかも……
斎藤がキスをしてくれなかったらどうしよう、私からこんなふうに催促するのが嫌だったら……1秒にもみたない時間で千鶴の脳内に様々な(主に悪い方向の)考えが駆け巡る。千鶴が目を開けようとしたとき、ふわりと斎藤のシトラスの匂いがしてぐいと腰に腕がまわされた。
え?
唇に何か感触があるものと思っていた千鶴は、思わず目を開いてしまった。目の前には斎藤の胸。
回された腕は千鶴を引き寄せ、千鶴の体が斎藤に包まれるようになる。千鶴より背の高い斎藤が、観客に背を向けるようにして少し角度をつけて覆いかぶさる。
強い力、広い胸、覆いかぶさってくるような斎藤の体に驚きながらも、千鶴は、ああ、もしかして皆から見えないようにしてキスをしたフリをするのかな……と千鶴は思った。
唇と唇が合わさるところが見えなければ、抱き寄せて覆いかぶさるだけで皆は『キスをした』と思ってくれるだろう。
斎藤さん……
『安心してくれ』と最初に言ってくれた自分の言葉を守ろうとしてくれてるのか。それとも千鶴との仲がまだそれほど深くはないと言っていた通り、千鶴に気を使ってくれているのか。斎藤のやさしさと、職場や自宅での紳士ぶりを見れば、この行動も不思議ではない。
千鶴が、少しのさみしさを覚えつつ安心して瞼を伏せて顔をあげた時。
唇に柔らかいものが触れた。
……え?
と千鶴が思った瞬間、それは全体を押し付けてくる。
斎藤の唇だ。
斎藤の右腕は千鶴の肩に回され、左腕は腰。そして斎藤の唇が優しく合わさった。
一度ついばむようにした後、今度はしっかりと唇を合わせる。驚いて頭を後ろに引こうとした千鶴を押さえて、いつもの斎藤からは想像できないくらい強引に、そして慎重に千鶴の唇をさぐっていく。
千鶴の唇の上に、我慢できないと言うように暖かく湿ったものが当たった。それは入りたそうに千鶴の唇をなぞる。
……あっ……これ……
斎藤の舌だと気づいた瞬間に、自分でも驚いたけれど、脚から力が抜けた。
頭も真っ白になり、今どこにいて誰の前で何をしているのか、ふわふわした雲に包まれたように感じてわからなくなる。
千鶴の抵抗がないことが斎藤を勇気づかせたのか、彼の腕に力がこもる。
ドクンドクンという心臓の音。
近くにいすぎて、絡まりすぎていてそれが斎藤のものなのか自分のものなのか、千鶴にはもうわからなかった。ただ夢中で顔を上に向けて斎藤の唇にあわせて自分の唇で応える。頬が熱くなって足ががくがくと震えるのを感じた。
どうすればいいのかわからないなりに必死でキスに応えていると、ふいに唇の温もりがなくなった。
あ、と千鶴が思わず後を追いそうになった時に、耳元にささやく斎藤の低い声が聞こえる。
「……すまない」
その口調と言葉で、とろけていた千鶴は我にかえった。
頬が熱い。視線をどこにやればいいのかわからなくて、千鶴は両手で頬を押さえて隣の斎藤を見た。
皆からかけられる冷やかしと祝福の言葉に、笑顔で答えている斎藤。
しかしどこかその横顔はこわばっている。
『すまない……』
千鶴は何度も頭の中で斎藤の言葉を繰り返した。
どうして?
パーティが終わり皆と別れを告げる時も、タクシーで二人で帰るときも、その言葉は千鶴の頭を離れない。
そして耳の奥では、斎藤の『すまない……』という声がいつまでも聞こえている気がした。
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