【斎藤課長の新婚生活 6】



タクシーの中は沈黙だった。
ずっとうつむいている浮気をされた妻。
時間はもう夜の8時を過ぎている。彼女が会社に乗り込んできたのが夕方近かったせいで、肉弾戦を止め事情を聞き当事者を呼び、話し合いという名の拷問が終わるのにここまでかかったのだ。
途中で様子を見に来た土方が、『とりあえずうちの社員については話があるから、先に奥さんの方を送って行ってやれ』と言うので、斎藤が今、送っている。

「そこを右に曲がってもらえますか、あとはまっすぐ」

社員名簿でしらべた男性社員の家へと、斎藤はタクシー運転手を導く。そして何か言わなくてはまずいかと、妻の方を見た。
「……」
言葉が浮かばない。何を言えばいいのか。
こういう……女を慰めるようなことは総司の方が得意だろうに。あいつなら上っ面な優しい言葉はつらつらといえるだろう。
なぜ俺が。前世で一体何人殺したというのか。
「……その、あまり、……気を落とすな」
我ながらまったくうまくない。何の慰めにもなっていない。だが、こうやって肩を落とし憔悴しているその妻がかわいそうだと思ったのだ。生涯の伴侶と誓った相手に浮気をされるのは、それは辛いだろう。
「……」
返事がないので斎藤が再び前を剥こうとしたとき、隣で何かつぶやくのが聞こえた。
「なんだ?」
「……結婚なんかするんじゃなかった……」
「……」
「大して好きじゃなかったけど、お見合いで、そろそろ結婚した方が良いってみんなに言われて……真面目でちゃんとした会社に勤めてるからって薦められて」
「……そうか」
それしか言うことがない。誰か助けてくれと思いながら、斎藤は真面目な顔でうなずいた。
「……ほかに好きな人がいたんです」
「そうか」
「その人も私のこと好きでいてくれたけど、その人には仕事が……決まった仕事がなくて」
「……そうか」
「子どもができたらどうしよう、私の両親の介護はとかいろいろ考えて、別れたんです。でもこんなことになるのなら、好きな人と一緒にいればよかった」
「……そうか」
お、重すぎる……たとえ斎藤でも耐えらない。何か適格なアドバイスをした方が良いのだろうか。それとも「そうか」を繰り返すマシーンになっていた方がいいのか?何か間違ったことを言って、会社に乗り込んできたような般若の顔で取り乱されてもまずい。
結局何も言えないままタクシーは彼女の自宅についた。小さな一軒家。玄関の前には子ども用の自転車とママチャリが置いてある。子どもは実家に預けてあると言っていたから、家は真っ暗だ。
「……では、その……よく眠るといい」
何も思い浮かばず斎藤がそう言うと、彼女は小さくうなずくと会釈をして家に入っていった。斎藤はホッとして、タクシーにまた会社に戻ってくれるよう頼む。そしてため息をつきながらシートにもたれかかり、紺色のネクタイを緩めた。

「……お疲れさま」
珍しく疲れた総司と、会議室の前で顔を合わせる。
「今、近藤さんと土方さんと例の二人が話してる。依願退職かな、ここまで公になっちゃうとね」
「そうか……」
「僕達もう帰っていいってさ。……一杯飲んでく?」
総司がそう言ったが斎藤は首を横に振った。
「いや、今夜はやめておこう」
総司もため息をついて肩をすくめる。
「そうだね、僕も疲れた。精神的に。修羅場ってほんとに修羅場なんだね」
斎藤も同感だった。 痴情のもつれというものがここまで他者にダメージを与えるとは。当事者のダメージはいかばかりか。


玄関の扉を開けるとカレーのいい匂いがして、斎藤はしまったと目をつぶった。
今夜は千鶴と一緒にカレーを食べる約束をしていたというのに何の連絡もせず、今は9時半だ。
斎藤が慌ててリビングに行くと、キッチンにいた千鶴が驚いたような顔をした。
「おかえりなさい……たいへんでしたね」
その心配そうな目は、斎藤が今日のいままで対応していたトラブルの内容を知っている目だ。
「……知っていたのか」
「そりゃあ……私もびっくりしましたもん。突然知らない女の人がオフィスに入ってきて斎藤さんの課の女の子につかみかかって……。会議室からも叫び声が聞こえてきてたし、沖田さんも慌ててあっちこっちに連絡してたし、みんなの噂で」
斎藤は安心して大きくため息をついた。
「そうか……」
「あの、夕ご飯、私先に食べちゃったんです。斎藤さんもどうですか?お疲れですよね。ビールも飲みます?それとも最初にお風呂に入りますか?お湯、いれてあります」
そう言って斎藤が腕に抱えているコートを受け取り、ハンガーにかけてくれる。
疲れた斎藤をいやしてくれようとする彼女の気遣いに、斎藤の重かった頭が少し軽くなる気がした。
「……ありがとう、では先に風呂に入ってこよう」
風呂に行きながら斎藤は、しみじみと結婚はいいものだと思った。
辛い事悲しい事があった時に、何を置いてもそれを理解してくれる相手がいるというのはいいものだ。その相手に対して好意や敬意を持っていればなおさら。
だからこそ、逆にその相手に裏切られると辛いのだろう。

ちょうどいい温度の湯船につかりながら、斎藤はタクシーの中での妻の言葉を思い出す。
『……ほかに好きな人がいたんです』
人にはそれぞれ事情がある。だが好きな男がいながら他の男と結婚するというのは、正直斎藤には理解できなかった。好きな男と結婚できるよう、いろいろ模索はできなかったのだろうか。

……確か、好きだった男の方は定職がなかったとか言っていたな。

今の日本の社会では、女性1人の給料で家族を養い続けていくことは難しい。出産育児で仕事をできない時期があればなおさらだ。将来を考えれば彼女の選択も無理はないものなのかもしれないが、それでも、条件がいいから結婚したと言う妻も、言われる夫も幸せではないだろうと斎藤は思う。
「条件、か……」
千鶴から言われたことを思い出した。

『だって斎藤さん、こんなちゃんとした会社で働いてて仕事もできるし、今回だって重要な仕事を任されてて、それに会社の場所も都会だし、そんな場所の近くにこんなおしゃれで素敵なマンションを持ってらっしゃるし、、私の仕事を続けられるかも気にしてくれて、その本当に理想の旦那様っていうか』

「……」
斎藤はバシャッとお湯を顔にかけると、風呂を出た。



夕飯はおいしかった。
冷たいビールも用意されていて、千鶴も向かいでつきあってくれる。
二人で休日一日かけて仕込んだカレーの話しは、疲れた斎藤の心をほぐしてくれた。
斎藤が、先ほどの修羅場の話をしたくないと思っているのをわかってくれたのだろう。さりげなくその話は外し、日常の他愛のない話をして笑いあう。
結婚生活は幸せだと思う。
総司と平助に言った通りだ。
だが、なぜか今は、幸せだと実感すればするほどどこか……どこかに、なにか違和感を感じるのだ。
胸と腹の間、その奥のあたり。つらいような苦しいような、息苦しいような。

「雪村……」

食べ終わった食器を食洗器に入れてくれている千鶴の横で、斎藤は冷蔵庫をあけてもう一缶、ビールを取り出した。
プロポーズの前に千鶴の兄の薫を同居している恋人だと誤解し、その誤解がとけた後は確認すらしていなかった。
いまさらだが……

誰か思っている男はいたのだろうか。
いや。
思っている男はいるのか?

何ですか?という顔で斎藤の次の言葉を待っている千鶴に、斎藤は何も言えなかった。
何故言えないのかはわかっている。答えを聞くのが怖いからだ。
「……いや、お前も、飲むか?」

いえ、私もお風呂入ってきてその後にいただきます。とにっこりほほ笑んだ千鶴に、斎藤も微笑み返す。
廊下を歩いて行く千鶴の背中を見ながら、斎藤は冷蔵庫にもたれたまま缶ビールのプルトップを開けた。









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