【斎藤課長の新婚生活 22】
とてもさっぱりとした気分だった。
こんな展開になるとは思ってもいなかったけれど、斎藤とキスをして抱きしめ合って最後までいったおかげで、これまで意識しすぎて高く高くなっていた壁が崩れたというか。
言葉はほとんどなかったけれど、彼がとても自分を欲していてくれたことがとてもよく分かったし、よくわからないまま先走ってしまう千鶴を傷つけないように、一生懸命自分を抑えて優しく導いてくれたのも、彼が入ってきたときにわかった。触れる彼の指がひどく震えていて、体が熱くて、斎藤も強い熱に引きずられているのを感じた。そして千鶴のためにそれを必死に我慢しようとしていてくれたのも。
触れあいたいのに触れ合えなくて、ちょっとしたことでイライラしたり不満になったり。
だからもういい。
全部終わった爽快感で、千鶴はポロリと本音が言えた。
「私……ずっと斎藤課長がすきだったんです」
斎藤は目を見開いたまま固まっている。そのびっくりした顔がおかしくて千鶴は小さく笑った。『斎藤課長』の顔しかしらなかったころは、斎藤でもこんな表情をするなんて思っていなかった。いつもなんでもわかっていてあらかじめ準備して対応して、落ち着いた完璧な人だと思っていた。
「だから、妊娠させたかもしれないっていう義務感とか責任感からだけ結婚なんてしたくなくて。でも、結婚して一緒に暮らすうちに私のことを好きになってもらえないかなあって思って、プロポーズをお受けしたんです」
「……」
「自分なりに頑張ったつもりなんですけど、あんまり恋愛経験もないし……結局こんな結末になっちゃって。一さん……ううん、斎藤課長にはご迷惑をおかけしちゃったって申し訳なく思ってるんです。でも、自分としては挑戦してみて、結局ダメだったけどでもやるだけやれたんで満足してます。本当にありがとうございました」
千鶴はぺこりと頭をさげた。
言えた……と胸の奥にずっとつかえていたものがとれてほうっとため息をついた。こんな簡単な言葉だったのか。胸につかえているときは重くて苦しくて苦くて、千鶴自身を飲み込んでしまいそうなほど大きなもののように思えたんだけど。
ふとベッドサイドのデジタル時計を見て、千鶴は「あっ」と声を上げた。
「は、一さん…!時間、電車の時間過ぎちゃってます!早く準備しないと、次のが多分最終……」
「千鶴」
慌てて立ち上がろうとした手をつかまれて、千鶴は再び座った。斎藤は眉間にしわを寄せて指で額を撫でている。
「……よく、わからんのだが……お前は俺を、その、好きでいてくれたのか?」
千鶴は頷く。「はい」
「それで、今はもう好きではないから別れようと。そういうことか?もしよければ、俺の何が悪くて好きでなくなってしまったのか教えてはもらえないか」
千鶴は首を横に振った。「いえ、今でも好きです。前よりもっと好きかもしれないです」
完璧な斎藤課長も素敵だったが、こうやって戸惑ったり驚いたりしている斎藤もかわいい。
斎藤はまた頭を抱えた。
「……俺のことを嫌いになったのではないのか?ならなぜ『別れよう』などと……」
斎藤の目の中や顔中にクエスチョンマークが見えて、千鶴は思わず吹き出してしまった。そうか、一さんはそういうことにはうといって自分で言ってたし。千鶴はどう説明すれば斎藤にわかってもらえるかをしばらく考えて、最初から順番に説明していくことにした。
「私たちの始まりが妊娠したかもっていうことからで。だから一さんは私と結婚したんでしょう?でも私は、妊娠とかそういうのじゃなくて一さんが好きだったんです。好きだったからこそ、斎藤さんに義務感だけで一緒に結婚生活を続けられるのがつらいんです。私も、単なる子どものための契約とか条件とかだけで一緒にいるんならよかったのかもしれないですけど……」
丁寧に説明してわかってくれたかと千鶴は斎藤を見たが、彼は変な顔をして千鶴を見ている。
「なぜおれが、義務感だけでお前との結婚生活を続けていると思うのだ?」
「だって……」
千鶴は、プロポーズを受ける前のことや、その後のことを思い出した。「一さんがそう言ったじゃないですか」
「俺が?」
全く心当たりがないようなので、千鶴は一つづつ説明した。プロポーズをされた時に、自分のことをこれまで女性として見たことはないと言ったこと。結婚生活の時も、一緒に寝ることを拒否されたこと。二次会のキスの後の謝罪。スポーツクラブみたいな小さなことから斎藤の人生にかかわるような大きなことについて千鶴をかかわらせてはくれないこと……
「仲良く一緒に暮らしていきたいと思ってくださるんだなってのは伝わってきて、それはとっても嬉しかったです。それ以上が欲しいっていうのは私の我がままなんですけど、でも一緒に暮らしているとちょっとしたことでそれがつらくなっちゃって」
斎藤は同じ表情のまま固まっている。
「一さん、続きは駅に行きながら話しましょう?最終も二時間後だったら、そろそろ行かないと……」
「千鶴」
またもや斎藤にさえぎられて、千鶴は座りなおした。
斎藤は口を開けて何か言おうとして、また口を閉じる。千鶴を見て、床のちらかった服を見て、天井を見て、また千鶴を見る。
「千鶴……。どうすればいいのか……」
「一さん?」
斎藤は真剣な顔で千鶴を見た。その表情からただならぬものを感じて、千鶴は思わず背筋を伸ばす。
「千鶴、おしえてほしいことがある。本来はこのようなことはお前に聞くことではないのだろうが、おれにはもうわからんのだ。わからんまま進んで終わりにしたない」
斎藤の勢いに千鶴も飲まれて、思わず真剣にうなずいた。
「は、はい。私なんかでわかることでしたらなんでも。なんでしょうか?」
「左之曰く、食事や映画に行けばいいと言っていたが、映画には結局あんなことがあっていけずじまいで、それがまずかったのかとも思う。食事も一度だけしか行っていないし……でもそういう問題でもないようにも思うのだ。だが、これ以上どうすればいいのかがわからん。教えてほしい」
「これ以上……ですか。えーっと、すいません、話が見えなくて。どうすればっていうのは……?」
「つまり、俺としては……俺としては、このまま結婚生活を続けていきたいのだ。そうだ、それを、本当はそれを言いたくて今日、ここまで来た。でもお前は、俺のことは好いているが結婚生活は続けられないなどという。正直、俺はこれ以上どうすればいいのかがわからん」
ようやく斎藤の言いたいことが分かって、千鶴は小さくうなずいた。
そうか、一さんは自分で自分の気持ちがわかってないんだ。責任感の強い人だし優しい人だから……
「一さん、一さんは優しいんです。優しすぎるから、そんな風に思うんです。だけど、私が妊娠しなければ――結局してなかったですけど――私とこんな関係にはならなかったですよね?っていうことは一さんにはもっとお似合いで、妊娠なんてなくても斎藤さんから結婚したいって思う女の人がきっといるんですよ。だから――」
千鶴の言葉に斎藤は首を横に振った。
「いや、俺は……俺も左之に言われて気が付いたが、俺はお前に恋をしている。どうすればそれをわかってもらえるのだろうか」
今度は千鶴が固まる番だった。
斎藤が言っている意味が思いがけなさ過ぎて、理解できない。こうなればいいなあと思っていた妄想のせいで聞こえた幻聴?
「いえ、一さん……だって……」
千鶴が茫然としていると、斎藤はその表情を見て「そうか……!」と何かを悟ったようだった。
「言葉では伝えていなかったな」
自分で自分に小さくうなづいている。そして笑い出した。
「こんな簡単なことだったのか。俺は全く……」そして、千鶴を真っ直ぐに見る。
「先ほども言ったが、俺はお前に恋をしているのだ」
「こい……」
千鶴がつぶやくと、斎藤はうなづいた。
「そうだ。実は恥ずかしながらそれに気づいたのはつい最近でな。だが自覚してから振り返ってみると、強引なプロポーズも一緒に住むよう提案したのも、いや、そのまえのそもそものあの一夜の過ちも、だな、要は前からお前のことを憎からず思っていたというかいやどちらかというともっと積極的に、親密になりたいと思っていた、のだと思う。昼飯もお前がいれば必ず行ったし、残業も、今思えば、お前がいるとつい残ろうかと……いや、不埒なことを考えていたわけではないが、お前が残っていなければ俺はいつもあっさり帰っていたので、多分そうだと思う。俺自身そこまではっきり自覚していたわけではないが、そんな状態だったので酒に酔って理性を失くした時に、あのような過ちになったのだろう。そのような状況になった女性すべてにああいうことをするような人間ではないはずなのだ、俺は。それから逆算して考えれば当然すぐにわかったはずなのだが、どうも初めての体験や感情で上ずっていたというかいろいろいっぱいでな、すまなかった」
「……」
千鶴が茫然としていると、斎藤が緊張したような真剣な目で千鶴の目を覗き込んできた。そしてそっと手を取る。
「だから、だから……、お前さえ良ければ、このまま結婚生活を続けたい。今度は本当の夫婦として」
真剣な蒼い瞳が斎藤の心を映して揺れる。斎藤の手も微かに汗ばみ震えている。
いつも冷静で落ち着いていて、千鶴ばっかり必死になっていた『斎藤課長』。その憧れの人自身も、千鶴と同じで不安で幸せで、必死だったのだというのが、千鶴にもわかった。
「一さん……」
胸がいっぱいになって、千鶴はそれしか言えなかった。言葉と一緒に涙が滲んでしまう。
「いい、のだろうか。それともやはり駄目なのだろうか」
不安そうな斎藤の声。千鶴は首を横に振った。「いい、です。いいです。すごくうれしいです。……信じられなくて」
千鶴がそう言うと、斎藤は留めていた息を長く吐いた。そして千鶴の手を握る手に力をこめる。
「もう一度……もう一度やりなおしてもいいだろうか」
「え?やり直し?」
斎藤はうなづくと、千鶴を真っ直ぐに見た。真剣な表情。冷たい蒼い瞳なのに今は熱い光が宿り、深く静かに輝いている。
そして斎藤は千鶴の手を持ち上げると、祈るように千鶴の指の先に唇を押しあてた。
「結婚して欲しい」
何の飾りもない、誠実なプロポーズ。
千鶴は我慢していた涙があふれるのを頬に感じた。声にならなくて何度も何度もうなずく。
優しく抱きしめられて、千鶴はまた泣いた。
これからの長い人生、千鶴はきっとまた泣くときがあるだろう。でもその時はきっと、この腕の中で泣くに違いない。哀しみも喜びも、この腕で分かち合うのだ。
この人と一緒に。
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