【斎藤課長の新婚生活 21】




どこもかしこも柔らかく細くなめらかでいい匂いがした。
かわいらしくて愛らしくて気持ちがよくて息が苦しい。
気遣いをしなくてはという自分の声が時折頭の奥で聞こえた気がしたが、結局マグマのような熱くてどろどろしたうねりに巻き込まれて体が動いた。

そして、狂乱の時間が過ぎて―――
もう何度目か数えるのも嫌になってきた例の自己嫌悪に、斎藤は例のごとく襲われていた。
脱ぎ散らかされて床に放り出された服。くしゃくしゃのシーツ。乱れた髪に白い肌。

よかったのだろうか……

全てが終わった後、ホテルのベッドの上で斎藤は茫然とクリーム色の天井を見つめていた。部屋はもう暗くて、室内灯の灯りだけだ。時間はまだ早く、多分夜の10時にもなっていないだろう。時折廊下を人が……多分同じ会社の社員だろう……が話しながら歩いてる声がかすかに聞こえる。

抵抗は……されていないような覚えがあるが、だが、そもそもそういうムードでは一切なかったような気が……というか、一体なぜこんなことに。いや、俺が、キスをして抱き寄せて…いや、その前に窓だ。あの鍵のせいだ。いや、何のせいかと言えば俺のせいなのだが、だが、あの鍵がすぐに開けばこんなことにはならなかった。いや、こんなことになって、とてもうれしいというか幸せなのだが、だが千鶴は……

千々に乱れる思考をまとめることができないでいると、隣から何やら声が聞こえてくる。か細く、とぎれとぎれの千鶴の声。
これはもしや……
斎藤はガバッと起き上がった。瞳孔が開いて顔が青ざめているのが自分でもわかる。
これは千鶴の泣き声ではあるまいか。

「す、す、す、す、すまない。すまない、千鶴。申し訳ないことをした。な、泣かないでれ。ああ、どうしたらいいのだ、すまない、本当に、この通りだ、ち、千鶴……」

『おろおろ』というのを声にしたような自分の上ずった声。誰か俺を靴の裏で踏みつぶしてくれ。
「ち、千鶴?」
ベッドサイドにある薄暗い室内灯の中、隣で横たわっている千鶴を覗き込んだ。
「千鶴、すまなかった。どこか……どこか、その、痛い、のだろうか?それとも……」
斎藤がおろおろと見ている前で、千鶴がむくりと起き上がった。シーツを体に巻いているがそのむき出しの肩とそれにかかる黒髪に、斎藤はまたもやゾクリとしてしまう。そんな場合ではないと言うのに。
「ち、千鶴」
「ごめんなさ、い。違うんです、なんだか……こう、感情がコントロールできないっていうか……泣くつもりはなかったんですけど、すごく胸がいっぱいで」
それは斎藤も同じだ。斎藤は大きくうなずいた。
「お、俺もだ。その……言い訳できることではないと分かっているが、俺も気持ちがコントロールできず……いや、気持ちというか体というか行動というか、その、……すまなかった」
ガックリと肩を落として頭を下げる。二人とも裸で、くしゃくしゃのベッドの上でというのが締まりはないが。
「あやまらないでください」
千鶴が涙を拭きながらそう言った。笑顔がちらりと見えて、斎藤は心の底からほっと肩の力の抜く。
「私も、夢中になっちゃって……意志に逆らってとかそういうのじゃないです。その、合意の上、です」
「ご、合意の上か」
斎藤はドキリとした。自分の胸の奥で何かが嬉しそうに弾んで、目の前の光景に体の奥がまた刺激されそうになってしまう。そこで斎藤は思い出した。そして再び青ざめる。

「ち、千鶴」
「はい?」
「……言いにくいのだが、その……俺は、いや俺たちはまた……その、ひ、ひ、避妊を、だな……」

斎藤の言葉に、千鶴の黒目がちの大きな目が見開いた。自らの愚かさに斎藤が何十回目かの自己嫌悪という名の深い深い穴に落ちそうになった瞬間、千鶴の軽やかな笑い声がホテルの部屋に響いた。
一瞬狂ったのかと斎藤はおののいたがそういうわけでもなく、本当に楽しそうなころころという笑い声。表情も生き生きとしている。
「ち、千鶴、笑いごとではないのだぞ」
思わず斎藤がたしなめると、千鶴は涙を拭きながらうなずいた。
「す、すいません。なんだかおかしくって」
「おかしいことなどなにもないだろう。たいへんなことだぞ、しかも二度目だ」
斎藤が苦々しく言うと、千鶴はまだ微笑みを残した表情で斎藤を見た。

「……一さん、わたし、初めてだったんです」

斎藤はぎょっとして固まった。「あ、ああ……」そんな斎藤には構わず、千鶴は指を一本、二本と繰りながら言う。
「意識があったので言うと今日が初めてで、その前の記憶がないのが本当の初めてで」
に、二回も千鶴の初めてをもらってしまった。正直に言うととてもうれしいが、あまりうれしそうにするのもなんだろうと思い、斎藤は神妙な顔でうなずく。なんならベッドの上で正座をしたいくらいな表情で。
「で、他の人とはそんなことになったことなくて、そのどっちも後先を考えないで衝動的っていうのがなんだかおかしくって」

……イヤミ、なのだろうか。そうは見えないが……しかし当然責められているのだろう、とは思うが。だが、千鶴の様子は俺を責めている風ではないような気がするし……

「その、もしよければ、なぜおかしいのかをおしえてはくれないか。あいにく俺には女性の……いや千鶴の気持ちがわかったかどうかがわからん」
斎藤がこわごわと聞くと千鶴は笑顔で答えてくれた。
「一さんも初めてでしょう?」
「何?」
「他の女の人と、こういう風に衝動的にそういう事態になっちゃうこととか過去によくあったんでしょうか?しかも、避妊とかを気にしないで」
唐突に爆弾を落とされ、斎藤は身を乗り出した。
「なっ…まっまさか!そのようなことをするわけないではないか!いいか、いい機会だから言っておきたいのだが、俺は、その、……まあ別の女性との経験も過去にはあったが、このような、このような……なんというか合意や準備があいまいなまま、その、その場の勢いでこういったことになったことは皆無なのだ。これだけはどうしてもお前に知っておいてもらいたい。ほんとうに、無い!一度も!しかも、避妊を、だな。女性の身を守るための避妊をせずにこういった行為におよぶことなど、俺は男として畜生にも劣ることだと常々思っているのだ。……まあ、二度もしてしまった後で言うのもなんだが」
「ですよね?だから、おかしくって。私も一さんも、そんなタイプじゃないのに二回も。これだけじゃないんです。私、いつも結構自分で決めた通りきちんと生活をするのが好きで。気分もあんまり上がったり下がったりするタイプじゃないんです。でも、一さんに会って一緒に暮らすようになってから本当にアレコレ考えちゃって毎日ジェットコースターに乗ってるみたいで」
斎藤は思わず千鶴の手をとりたくなってしまった。
「お、俺もだ。俺も同じなのだ。予定調和の毎日だったのだが、お前と暮らすようになってから本当に天国と地獄を1時間ごとに行ったり来たりだった」
「一さんもそうだったんですか?」
目を見開いた千鶴に斎藤が頷くと、千鶴はまたころころと笑った。
そしてしばらく笑うと、しみじみと言う。
「じゃあ、やっぱり結構同じように思って暮らしてたんだ。一さんは何を考えてるんだろうってあれこれ考えちゃってたんですけど考え方が似ているところがあったんですね。だから、終わりも……終わりについても、同じように考えたのかな……」

終わり……

その言葉で斎藤はふいに現実に引き戻された。そうか、ベッドの上でこんなに親密に会話をしていて、離婚の話を忘れていた。
終わる……終わらないといけないのだろうか、本当に。今なら、今の、お互いにリラックスした今なら、千鶴がどうして別れたいのか、斎藤がどこか千鶴が嫌だったところを変えれば別れないでいてくれるのか、聞けないだろうか。
斎藤が考えを巡らせどう話せばいいか頭の中を整理して口を開こうとしたとき、千鶴が言った。

「私……ずっと斎藤課長がすきだったんです」






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