【斎藤課長の新婚生活 18】
考えたくないことを考えないようにしていると、頭が空っぽになるんだなあ……
千鶴は、他の人よりかなり早く終了した自分の端末の画面をぼんやり眺めた。
新しいシステムの基礎的な研修が終わり、様々なケースのトラブルシューティング演習で、千鶴は一人だけ早く終わらせることができた。
研修も二日目。
できるだけ考えたくない斎藤のことを頭の隅にやり、その空いたスペースにどんどん研修内容をつめこんでいく。
何かに集中していれば考えなくてもいいので、通常ではありえないほどの集中力で覚えていく。
結果、研修を受けている他社員の中で、千鶴は今のところ一番優秀な研修生となっている。
「すごいなあ、雪村。もう新しいシステム完璧じゃない?」
講師としてマニュアルの説明をしてくれていた、例の一緒に夕飯を食べた同期が、千鶴の端末を覗き込んでそう言った。
「そうかな……でもまだ明日の分があるから」
「これだけできてたら大丈夫だって。今日は早く上がれるな」
先千鶴は初日の昨日、残業をして新システムの勉強をしていた。各支店から集まった同じシステム担当者のみんなは、先は長いんだしと早々にホテルに引き上げていったが、千鶴はホテルに帰ってもすることがない。
一人でホテルの部屋にいたらいろいろ考えたくないことを考えてしまう。それくらいならやるコトがたくさんある残業の方がいい。システムも覚えられて一石二鳥だ。
「うん、でも今日も残ろうかな。おさらいしておかないと」
「なんか顔が暗いぞ、つかれてんじゃないのか?今日はもうやめて飯食いにこう、うまい飯」
同期にモニタの電源を消されて、千鶴は彼の顔を見上げた。
「でも、この辺りはホテルの食堂くらいしか食べるお店、ないって言ってなかった?」
実際ここはかなりの田舎で、コンビニもないくらいだ。
「だから、俺の車でちょっと遠出しようぜ。ほら!」
強引に誘い出されて、千鶴はいったんホテルに帰った。今着てるスーツじゃなくて気楽な服で行こうと同期から言われて着替える為だ。
「俺も一度家に帰るから、ホテルのロビーに迎えに来るよ。携帯に電話する」
「あ、ごめんね、私、携帯電話を忘れてきちゃって……」
「ホテルに?家に?」
「家に」
昨日の朝、家を出る時、斎藤と顔を合わせたくなくて必要以上に早く家を出たのだ。その時に、音をさせないように神経を使ってばかりで注意力が散漫になっていて、スマホを忘れてきてしまった。
気づいたときは、焦って研修を休んででも取りに戻ろうかと思ったが、結局やめた。
斎藤から連絡が来るのが怖い。
自分から離婚を告げておいて勝手だが、斎藤から具体的な離婚の手順についての話を聞くのも嫌だし、これ以上の話し合いをするのも嫌なのだ。
いつかは話さないといけないのだとしても、今はまだ……
「じゃあ、30分後にロビーに降りてきて。待ってるから」
そうやってホテルから立ち去る同期の背中を、千鶴はため息をついて見た。食事に行っておしゃべりをする気分じゃないけど、ホテルの部屋で斎藤の事を考えているのも嫌だ。行った方がいいのだろう。
一さん、今なにしてるのかな……
千鶴はホテルの部屋で着替えながら、ちらりとベッドわきのデジタル時計を見た。
夕方の6時。
きっと仕事中だろう。真面目な斎藤のことだ、辞める前に今抱えてる案件の整理をつけようと頑張っているに違いない。
千鶴は、会社のいつものデスクで仕事をしている斎藤を思い浮かべた。
結婚する前はいつも、斎藤が夕飯も食べずに残業しているのを見てきた。どうしても優秀な斎藤のところに仕事が集中してしまうのだ。誠実に、責任感を持って仕事をこなしていく斎藤を素敵だなと眺めつつ、でもあのままじゃ倒れてしまうんじゃないかと心配していた。でも単なる隣のチームの平社員である千鶴から言うような話でもなくて。
結婚してからは、早く帰るようになって夕飯も一緒に食べて、安心していたのだけれど。
一さんがおうちの事業をついだら、斎藤さんの仕事のし過ぎとか体を気を付けてあげられるのは、もう私じゃないんだな。
千鶴の胸は、水をたっぷり吸ったスポンジのようにずっしりと冷たく重くなった。
早くこの気持ちにもなれないと。家に帰った時に、泣いたりしないでちゃんと斎藤と話し合って別れられるように。
本当なら、こんなに斎藤の近くにいて斎藤のことを知ることなんてできなかったのだ。少しの間だけど、あのストイックで律儀で頭が固い、でも誠実で優しくて不器用な斎藤の、一番近くにいられた。
それだけで十分嬉しい。
あんな素敵な人と少しの間だけでも夫婦になれて、ほんとによかった。
あの人の横に並んで一緒に生きていくには、私にいろいろ足りなくて無理だったけど、でも、いい思い出にできるようがんばろう。
話し合いの時に泣いたりしないで、ちゃんと一さんのことも考えて、きちんとわかれなくちゃ。せめて最後だけは、一さんに迷惑をかけないように。
ロビーに降りていくと、同期はもう来ていた。千鶴を見て立ち上がり歩み寄る。ロビーにはちらほらと同じ会社の研修生がいた。
田舎の町の唯一のホテルでこの時期なので、ホテルに泊まっているのはほとんどこの研修関係の千鶴と同じ会社の者ばかりなのだ。
「お、ちゃんと楽な恰好してきたな。行こうか」
千鶴はニット素材の明るい黄緑色のシンプルなワンピースに白のパーカーを羽織っている。
「どんなお店があるの?」
「いや、大した店はほんとにないんだけどさ、隣町にカフェっぽいレストランが……」
同期と話しながらロビーを出ようとした千鶴は、聞きなれた声が聞こえた気がして、ギクリと立ち止まった。
「雪村」
その声に同期もたちどまり、二人で振り返る。
フロントの横に立っていたのは、斎藤だった。
「一さん……」
紺色のすっきりしたスーツに淡い紫のネクタイをきっちり締めた斎藤がそこに立っていた。シンプルでオーソドックスなスタイルなのに、ピンと背筋の伸びた斎藤が着こなすとさびれた田舎のホテルのロビーの中でひときわ目立つ。
斎藤のことを考えていたせいで幻覚を見てるのだろうかと千鶴はぼんやりしていたが、その幻覚のはずの斎藤が一歩自分に近づいてきた。
「一さ……いえ、斎藤さん」
隣にいる同期と、ロビーにちらほらいる同じ会社の研修生を意識して、千鶴は会社での呼び方に変えた。
「どうしてここに?」
千鶴が聞くと斎藤は固い表情のままちらりと千鶴の隣に立っている同期を見てから、手を差し出した。その手にあるのは、見慣れた千鶴のスマホだ。
「家に忘れていったのに気が付いたのでな。……わざと置いて行ったのかとも思ったが、充電ケーブルにさされたままだったので忘れたのかと」
「あ……はい、そうです、わ、忘れちゃって……」
わざと置いていったのかと言われて、千鶴は頬が熱くなった。斎藤からの連絡を怖がっていた自分を、見抜かれていたようで。
「ありがとうございます」
千鶴が手を伸ばして、斎藤の手に触らないように気を付けて受け取る。
「……」
気まずい沈黙になる。
「あの、すいませんでいた、これのためにわざわざ……仕事は……?」
「忘れたのなら、困るだろうと思ったのだ。それゆえ……仕事は少し早めににあがらせてもらった」
滅多なことでは有休をとらない真面目な仕事人間の斎藤が。
千鶴は驚き、申し訳なく思った。
「すいません、私のせいで……」
「いや、これは……」
斎藤は何か言いかけたが、口をつぐんだ。そして少し離れたところで立って千鶴を待っていた同期を見る。同じ会社の本社の課長である斎藤に、同期はぺこりと会釈をした。斎藤はそれに頷き返す。心なしか表情がさらに硬くなったような。
「邪魔をしたようで、すまなかった。では俺はこれで……」
そう言って踵を返した斎藤に、千鶴は慌てた。せっかくここまで忘れ物を届けにわざわざ来てくれたのだ。このままあっさりと帰すのは申し訳ない。
「あの、斎藤さん、ちょっと……ちょっと待ってください。せっかく来てくださったのにそんな……あの、駅まで、せめて」
「いや、駅まで大して遠くはない。明日も仕事だし、お前もだろう」
「そんな、私なんかより斎藤さんの方が……」
千鶴と斎藤が押し問答をしていると、少し離れたところにいた同期がおずおずとやってきた。
「あの、雪村……さん、旦那さんだろ?俺、別にいいからさ、帰るわ」
「え?」
同期はそう言うと、次に斎藤を見てもう一度ペコリと頭を下げた。「じゃ、また明日」
そう言って去っていく同期を二人で見つめる。
「よかったのか?」
「はい。約束っていうほどの約束でもないんで。あの、駅まで送らせてください」
「ああ……」
斎藤はそう言うと、ふと視線をそらせて気まずそうな表情をした。
「いや、実は列車が来るのはあと1時間後なのだ」
「1時間?」
ここから駅までは歩いて10分ほどだ。
「じゃあ、さっき帰るって言ったのは……駅で1時間待つつもりだったんですか?」
「……まあ、そうだ」
「気を遣わせちゃってすいませんでした。じゃあ……あと1時間もあるのなら、その、一緒に夕飯でも……」
そう言いながらロビーの反対側にあるホテルのレストラン……というか食堂を見て、千鶴は気が付いた。
ロビーにいる5,6人の社員たち。研修で見たことがある顔ばかりだ。
全員が、千鶴と斎藤を見ていた。
「……え?旦那さん?本社の斎藤課長?知ってる。前、うちの部がお世話になった人だ。わざわざ奥さんに会いに?」
「……心配だったんじゃないの、変な虫がつくんじゃないかとか」
「さっきから見てたけど、つきそうな虫がいたわよねー」
「へえ、愛妻家なんだな。え?新婚?なるほどー」
などというヒソヒソ声も聞こえてくる。
斎藤にも聞こえていたようで、「……出るか」と千鶴を促した。
そっか。傍から見たら一晩以上奥さんと離れているのが耐えれなかった旦那さんみたいに見えるのかな。
千鶴は赤くなった顔を隠すようにうつむいて、斎藤と一緒にホテルのロビーから外に出た。
本当にそうだったら、どれだけ幸せな事だっただろう。斎藤からそんなに思われる女性になりたかった。
それとは正反対の現実に、千鶴は泣きたくなるのをこらえて斎藤の横を歩いた。
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