【斎藤課長の新婚生活 17】
青天のへきれきだった。
斎藤が家に帰ると、千鶴はまるで斎藤を待っていたかのようにリビングのソファから立ち上がった。どこか思いつめたようなこわばった表情。
何かあったのか?どうしたのだ?と聞こうとしたが、その前に千鶴から告げられた。
『私……別れた方がいいと思います。離婚、したいです』
離婚……
俺と、だろうか……?
状況から考えてそれ以外は有りえないのだが、斎藤には信じられなかった。何故なら何も問題は無いはずだから。
千鶴は結婚しても仕事を続けたくて、今の仕事を気に入っていて。このマンションは職場から近いし斎藤は家事もよくしている。育児だって父親としての責任はきちんと果たすつもりだ。
夫はサラリーマンがよかったのだろうか。確かに実家の仕事を継ぐと言うのは社長とはいっても田舎の中小企業で、都会で数多くの従業員を抱え全国展開している今の会社とは全然違う。だが、資産だけを見ればかなり持っていて、今日明日にでもつぶれるような会社ではないのだが……それを説明しておいた方がよかったのだろうか。
「千鶴。説明していなかったのだが、実家の仕事を継いでも、給料はかわらん。個人事業主になるということで安定は、それは今よりは無いように思えるかもしれんがマンションのローンもきちんと払い続けるし、どちらかというと今よりは裕福に……」
「そういう……そういう話じゃないです」
静かな声でそう言われ、斎藤は黙り込んだ。
聞くのが怖い。聞きたくはないが聞かなくては話が進まない。
「……では、どういう話なのだろうか。いきなりなぜ……俺が何かしたのか?」
千鶴は静かに頭を横に振った。
「斎藤さんが悪いんじゃなくて……もともと、一緒になるような人間じゃなかったんです、多分。ちょっとしたアクシデントが続いて形だけ夫婦になって……努力したけど、やっぱりもとからの運命に逆らうのは難しいっていうか」
「何を言っているのかわからん」
さすがの斎藤もイライラして思わず千鶴の言葉をさえぎってしまった。
通常の仕事だけでもたいへんなのにその上辞職までの仕事の整理と引き止められる上司の説得をし、帰り道で携帯電話で『兄さんは会社を辞める必要はない』という弟に、でも本当はお前は政治をやりたいはずだと認めさせ泣いて謝る弟を慰め励まし、両親と妹と話し、疲れ切ってかえって来たら妻からはこれか。
「何か俺が気に入らないことをしたのなら、具体的に言ってくれ。いくらでも直す。だが、先週までは離婚などと考えてもいなかったのではないか。急にそんな話が出たということは、俺の実家の話が原因だろう。それなら、千鶴のもともとの結婚の条件は変えずに済む方法を俺が考えて説明したではないか」
斎藤がそう言うと、千鶴の顔がさっと青ざめた。唖然とした顔で呟く。
「結婚の条件って……」
斎藤は、まるで自分が二歳児を泣かせ猫を蹴飛ばし犬にエサをやらず借金をした上に母親を売った男として軽蔑されているように感じた。千鶴の目がそう言っているのだ。
「そう言う話だったではないか。何やら千鶴の『理想の旦那様』があって、それが俺にぴったりだったと」
「そんなこと言ってません!」
斎藤のイライラが伝わったのか、千鶴も怒って言い返してきた。千鶴が怒ったのを初めて見た斎藤は驚いて目を見開く。
斎藤の前で千鶴がこんな大声を出したのも始めだ。頬が紅潮し眉が上がり、キッとしたまなざしで斎藤をにらみつけている。
怒った顔はかわいいというより大人っぽく見えてきれいだ……などというどうでもいい感想が脳みその裏を一瞬よぎるくらいには、斎藤は疲れていた。だから千鶴の怒りを受け止める余裕がなく言い返してしまう。
「いや、言った。だが言った言わないの水掛け論は不毛だからもうこの話は終わりだ。今の話をしよう。俺の何が気に入らなくて離婚などと考えたのか」
我ながら冷静に論理的に話をすすめられたと、斎藤は満足していた。しかし千鶴がその満足を木端微塵に打ち砕く。
「だから気に入らない所なんてないって言ってるじゃないですか!」
「気に入らないところがないならなぜ離婚などと言うのだ!」
「だってもともと結婚なんかしてないから……!」
千鶴の言葉で斎藤はハッとした。千鶴も自分の言ったことに気が付いたのか、その後の言葉を飲み込む。
そしてどこか覚悟したような表情で言った。
「……もともと『結婚』なんてしてないじゃないですか、私たち」
涙声だ。
「婚姻届けをだして一緒に暮らしてますけど、それだけです。お互いに対する信頼も尊敬も……愛情も、全部後付けで。結婚の外側だけがそろっちゃったからお互いに無理して中身も合わせようとしてただけなんです」
涙がぽろぽろと千鶴の大きな瞳からこぼれて、透明感のある頬を伝いあごから落ちる。
言いたいこと、わからないこと、聞きたいことは山ほどあったが、千鶴が傷ついていることだけははっきりわかる。
斎藤は言葉を失った。
「だから、今ならまだお互いに傷が浅いから、離婚した方が良いと思います」
「……本気で言っているのか」
斎藤の静かな声に、千鶴はピクリと肩を震わせた。が、気丈にも涙にぬれた大きな目で斎藤を真っ直ぐに見る。
「本気です」
今ここで手を伸ばし、千鶴を抱きしめたらどうなるだろうか、と斎藤は目の前にいる、決して自分の思い通りにならない女性を見た。はかなげに涙を流すのに、この意志の強さはどうだ。
これまでもそうだ。何をしても何を言っても、千鶴は斎藤の思い通りになってくれない。そのくせおもってもみないところで笑顔を見せたり優しくしてくれて斎藤の心を乱す。
千鶴を抱きしめたい。折れてしまうほど強く。抱きしめてキスをして、この床の上に押し倒して、そして抵抗されても力で手に入れるのだ。彼女の全てを。
この、弱くて愛おしくて強くて、斎藤という存在を根底から混乱させる憎らしい存在を。
その暴力的な考えは斎藤の脳裏に一瞬浮かんだが、すぐに消えた。彼女を傷つけて奪うことは俺にはできない。
それならば、あきらめて立ち去るのを見送るしかないのか。
斎藤が何も言えずに立ちすくんでいると、千鶴は目をそらした。
「明日から…明日の朝早くに、研修に出かけます。お互い少し離れて冷静になった方が良いと思うんです」
「……わかった」
情けないことに、斎藤はそれ以外何も言えなかった。
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