【斎藤課長の新婚生活 16】



『だから俺は仕事を辞めて、実家に戻ろうと思っているのだ』

斎藤からそう告げられた千鶴は驚いた。
そしてショックだった。
その時はなぜ自分がショックを受けたのかわからなかったけれど、その後一晩、眠れないままに考えてようやくその理由がわかった。
そんな大事なことを、斎藤は一人で実家に帰って一人で決めてしまったことがショックだったのだ。
だが、次の言葉を聞いたときの方がもっとショックだった。
『だが、千鶴は大丈夫だ。どうすればいいか俺もいろいろ考えたが、ここは実家からそれほど遠くはない。毎夜こちらに帰ってくることもできなくはないだろう。サラリーマンでもないから上司もいないし比較的時間は自分の裁量で使える』
『え?こっちに???帰ってくるんですか?どうして……』
『千鶴は会社に近いこのマンションの方がいいだろう?』
そう言われて初めて、会社を辞めるのは斎藤だけで、実家に戻るのも斎藤だけなのだと千鶴は気づいた。
夫婦なのだから当然千鶴も会社を辞めて実家に来てもらえないかと頼まれているのかと思っていたのだ。
この斎藤の決意についてはまだ実家にも会社にも話していないから、正式に決まったわけではないが、と斎藤は言ってその夜はそれで終わった。
だが、週明けから斎藤はそれに向けて動き出すことは明らかだ。
千鶴の意見は何も聞かれなかった。
斎藤から見た『千鶴の生活』は変わらないのだから、千鶴の意見を聞く必要もないのだろう。千鶴はこれまでどおり会社に行って、このマンションに帰ってきて、夜には斎藤が来て。千鶴の生活は変わらないのだ。会社に斎藤がいないだけ。

そのあとずっと千鶴は考えていた。
日曜の夜に斎藤から話を聞いて、月曜日、火曜日の今日。明日から千鶴は泊りの一週間研修で、斎藤とはしばらく会えなくなる。
このまま進んで行っちゃっていいのかな。どうしてこんなにモヤモヤするんだろう?斎藤さんの職種がかわるだけ。私は住む場所も職場も変わらなくて、そんな風に斎藤さんが気を使ってくれたのに。
実際、最初に千鶴が勘違いしたように、千鶴にも会社をやめて誰も知り合いのいない斎藤の実家に来てほしいと言われたら、それはそれでハードルが高いと感じただろうと思う。
斎藤の家は地元の旧家で、事業もやっていて、義理の母も旧家の出で、しがらみやらなんやらてんこ盛りのはず。田舎出の一般人である千鶴には荷が重い。
そう考えれば、斎藤のこのやり方はありがたいと感謝すればいいんだろうけど……

結婚したってこういうことなのかな……
私がしたかった結婚ってこういうこと?

理由はよくわからないけれど、その答えはもやもやに包まれながらも千鶴の胸にすぐ浮かんだ。
違う。
何がどう違うのか、どうしたいのかはわからなかったけれど、こういう結婚をしたいわけではないと言うことは、千鶴にははっきりわかった。別に斎藤と遠距離生活になるから違うというわけではなくて……
だめだ、言葉にできない。
でも、普通の恋愛結婚なら。ちゃんとケンカをしたり仲直りをして信頼関係を築いた上でこの人ならと思った相手なら。
斎藤のとった行動も千鶴が感じたモヤモヤも違った結果になったかもしれない。うまく言葉にできないから、斎藤にどう訴えればいいのか、千鶴にはわからなかった。
でも伝えなきゃ。ちゃんとお互いにわかり合おうと話したあの時の約束は、今もまだ有効なはずだ。

なんて言えばいいんだろう。

千鶴が考えながら会社の廊下を歩いていると、かなり先の方で立ち話をしている平助と総司を見つけた。二人は真剣な顔で何事か話している。
一さんのことかな、と千鶴が思った時、二人が千鶴に気が付いた。
「千鶴ちゃん」「ちょっ……、こっち、こっち来て」
二人に手招きされ、そのまま人が通らない会議室に入る。すぐに平助が真面目な顔で千鶴に聞いた。
「一君、仕事やめるってマジ?」
「実家の仕事をするって……決定なの?千鶴ちゃんは知ってた?」
サラウンドで聞かれて、千鶴は頷いた。
「は、はい。一応……」
本当は今週末にゆっくり話すつもりだったみたいだけど。でも、昨夜聞いておいてよかった。
ここで私が驚いたら、一体どんな夫婦だって驚かれちゃう。
平助がため息をついて頭をガシガシとかいた。
「今朝、えらい深刻な顔した土方さんに呼び出されてさ、『斎藤がやめるって言ってんだ。お前ら何か聞いてるか』って」
「近藤さんと土方さんにだけ話したみたいだよ。二人とも必死に引き留めてるみたいだけど、斎藤君の意志は固いみたいだね。千鶴ちゃんもあっちに引っ越すんでしょ?大変になるね」
「えっ……と……」
斎藤が辞めても千鶴は会社を辞めない。昨夜の斎藤の話しではそうだった。ならば訂正しておかなくてはいけない。
千鶴が、自分は会社を辞めないこと、斎藤は実家の仕事を継ぐがこちらから通うことを二人に話すと、総司と平助は微妙な表情で顔を見合わせた。
「通いで?」

千鶴は顔が赤くなるのを感じた。「そ、そうですよね。ちょっと遠いですよね」
「それもだけど……千鶴ちゃん、斎藤くんの実家の事業って知ってる?」
首を横に振った千鶴に、総司と平助が『僕達もよく知ってるわけじゃないんだけど……』と話してくれた。
地方の名士で旧家だと言うのは聞いていた。元は地主で今も森林を含め広い土地を含めた斎藤家の資産を管理する会社を経営しているらしい。そして土地からあがる利益を投資し、さらに資産をつくる。要は当主やその周辺が持つコネや顔が大事らしい。
「だから一君のお母さんも人脈が広い旧家から嫁いできてるんだよ。表向きのことは当主であるお父さんに話すんだろうけど、ああいう世界ってそれだけじゃないでしょ?内輪の話し、裏の話し、表ざたにせずうやむやにしておかなくちゃいけないことや、表には流れない話しってのを、秘密を守ったまま裏からトップに伝えるルートが必要で、それが奥さん。だから、実際のところ当主よりも奥さんの方が大変なんだよ。人を見られるし、人を見る目も必要だし。公の場にも必ず夫婦で出てるし、外国からのお客も来るし、当主が出られないときは名代で奥さんがでるしさ。今僕らがやってるようなサラリーマン的実務なんてほとんどなくて、ほぼすべて人脈と情報とコネの世界」
総司の話しに平助もうなずいた。
「一君、当然そんなことは知ってるはずだぜ。奥さん無しで、夜もこっちに返ってきて、週末もだろ?どうやって仕事回すつもりなんだろ」
「妹さんがいなかったっけ?兄弟で表と奥を分担するとか?」
「でもそしたら妹、嫁げねーじゃん」
「……嫁げはするだろうけど、旦那さんが理解ある人で地元の人じゃないと難しいだろうね」
話し合っている二人を前にして、千鶴はどんどん気持ちが沈んでいくのを感じた。もともと地面近くまでおちていたのが、今は地面をぶち抜いてさらにさらに下まで落ちてしまった気分だ。

私には、『奥さんの仕事』は無理だって思ったのかな……
……多分、無理だけど……

じわりと涙がにじみ出るのを感じて、千鶴は「あの、仕事の途中だったので」と二人に断り、会議室から出た。
今の自分に『斎藤家の奥さんの仕事』ができるとは、自分でも思えない。でもできたらよかった、できる人間だったらよかったと、千鶴は強く思った。もっと勉強をがんばって、英語とかも喋れて、趣味もたくさんあって知り合いもたくさんいて……一さんが困ってる今みたいな状況の時に、千鶴に頼んでみよう、千鶴なら多分できるだろうと思ってもらえるような存在だったら。

そしたら多分、一さん一人で悩んで決めなくてもよかったんじゃないかな

千鶴はトイレに行くと、一人で泣いた。
相談してくれなかったのは、私が一さん実家の世界について何も知らなかったから。何の役にも立てないし、何のアドバイスもできないし。一さんのお手伝いをしたいって言ってもおんぶにだっこで、多分私がいない方が一さんは楽だから。
お金持ちでもお嬢様でもないし、旧家とか教養があるとか、そんなの何も持ってない。仕事は頑張ってるけど、普通の事務能力だけで。もともと一さんとは差があって、でも結婚を機に頑張って見ようと思ったけど……
もう限界だ。
千鶴は拭いても拭いても溢れてくる涙をぬぐう。
心を決めなくちゃ。もともと無理だってわかってて、でも挑戦しようってがんばって。……できなかったんだ、私。





「私……別れた方がいいと思います。離婚、したいです」

その夜千鶴は、マンションで研修の荷造りをした後、帰ってきた斎藤にそう告げた。







      
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