【斎藤課長の新婚生活 19】
朝、千鶴が音を立てないように気づかってマンションから出ていくのを、斎藤は自分のベッドの中で聞いていた。
眠れないと何度も寝返りを打っているうちに眠ってしまったたようだ。千鶴の部屋のドアが開く音ですぐに目が覚めたということは、その眠りも浅かったに違いない。
千鶴がマンションから出て行ったのを待って、斎藤は起き上がった。頭の中に粘土でも詰まっているように重く、考えが鈍い。
『だってもともと結婚なんかしてないから……!』
『一緒に暮らしてますけど、それだけです』
『結婚の外側だけがそろっちゃったからお互いに無理して中身も合わせようとしてただけなんです』
千鶴がそんな風に思っていたとは。
俺は本当に女心がわからないのだな……
斎藤はベッドに座ってぼんやりと考える。
わからなかったのだ。本当に。
手をつないでキスをして、お互いの子どもの頃の写真を見て、デートをした。
斎藤にとってはとても楽しく幸せな日々で、千鶴との仲も少しづつ深まっていると単純に思っていた。初めての恋にとても幸せだったのは、斎藤だけだったのか。
斎藤は苦笑いをした。
この年になって恋に浮かれて、そして現実を思い知るとは、自分は何と愚かなのだろうか。十分に経験をつんで女性との付き合い方も学び、生涯のパートナーと身も心も深く付き合っていくべき時期なのに、自分は高校生のようなぎこちなく不器用なふるまいをして大事な女性を泣かせてしまった。
斎藤はため息をついて立ち上がると、いつも通りキッチンへ向かった。
これまでは朝はいつも千鶴と食べていた。
テレビをつけて二人がお気に入りのチャンネルにして、ニュースを聞きながら斎藤も一緒に朝食をつくる。
でも今は、キッチンは冷たく静かなままだった。
千鶴はいないし、あたたかいコーヒーも食事も会話もない。静かなキッチン。
斎藤は食欲がなく、コーヒーだけ沸かして一人でダイニングテーブルに座って飲んだ。向かいに誰もいないことに違和感を感じる。
千鶴と暮らしだしてまだそれほど経っていないのに、もう共にいることは二人の日常になっていた。そしてそんなささいなことに癒されていたことに初めて気づく。
結局コーヒーも飲む気になれなくて、斎藤はそれをシンクに捨てた。
いったいこんなところまでノコノコと、俺は何を期待しているんだ。
斎藤は居心地の悪さを自分へのいらいらへと紛らわせながら、ホテルのロビーにいる人達を見た。
それほど高価ではない地方のホテルで、ホテルマンの数は2人程度。あとは、多分同じ会社の研修に来ている社員たちだろう。
見た顔もちらほらあるが、まだ誰も斎藤には気が付いていないようだ。
いや、俺は妻が携帯を忘れて言ったのに気が付いて、だな。不便だろうと届けに来ただけだ。携帯を渡したらすぐに帰るのだ。
そう自分に言い聞かせて千鶴を待っているがなかなか来ない。まさか俺が来る前にもうホテルに入ってしまっていたのだろうか。そうなるとフロントに確認しなくてはならんが……いやいっそフロントに携帯を千鶴に渡しておいてくれるように頼んで、俺は帰った方がいいかもしれんな。
正直なところ、あんな別れ方をして、今こんな風にわざわざ遠い研修先までやってきた斎藤が歓迎されるとは思えない。
あと……15分待って千鶴が来なければ、預けて帰るか……
と、斎藤が思いロビーの壁にある大きな時計を見ようと顔を上げた時、ロビーの先を女性が……千鶴が、小走りで入口の方へ向かうのが見えた。黄緑色のワンピースを着ている。前にも見たことがある斎藤の好きな服だ。入口近くにあるソファから男が立ち上がり、千鶴に話しかけるのが見えた。
あの男だ。本社に来ていた千鶴の同期の。
会わずに帰ろうとまで思っていた斎藤は一瞬でその考えを忘れ、千鶴の方へ向かいながら声をかけた。
千鶴と二人でゆっくり駅まで歩きながら、斎藤は会話の糸口を探していた。
夏が近いこの時期は昼が長く、もうすぐ7時になろうというこの時間でも外はまだ明るい。海に近い町のせいか澄んだ透明な空気が薄青く広がっている。気持ちのいい夕方なのだが、斎藤と千鶴の間にはピンと緊張が張っていた。
「その……研修は、どうだ」
「はい。あの、順調です」
まるで課長と部下のような会話だ。だが斎藤はそれ以上話を膨らませることができず「……そうか」とだけ答えた。
駅につくまで沈黙が続く。
結局夕食をとれるような店などないどころか、買って食べるような店もなかった。しょうがなく、駅の売店で二人はパンとお茶を買う。くつろいで食べれるような駅前のちょっとした広場など当然なく、二人はうろうろと歩いてベンチを見つけそこに座った。
「クリームパンなんて久しぶりです」
「俺もあんぱんを食べたのは何年ぶりだろうか」
ビニール袋に入ったシンプルなパンとペットボトルのお茶。わざわざ千鶴が送ってきてくれたのにこれが夕飯だとは。
「……すまなかったな」
「え?何がですか?」
「その……夕飯の約束を別でしていたのだろう?予定通りなら少なくともこれよりはましな夕飯だっただろう」
「別に予定っていうほどの予定じゃないので構いません。これもおいしいですよ」
千鶴はそう言うと、大きな口を開けてクリームパンをかじった。「懐かしい味です。それに忘れ物をわざわざ届けていただいちゃって。お忙しいのにすいませんでした」
千鶴のやさしさに斎藤は胸が熱くなるのを感じた。そうだ、いつもこの優しさに助けられていたのだ。もらったやさしさや暖かさをすこしでも返せたらと、昨日からずっと考えていた。
「……実は、携帯を届けに来たのはそれはそうなのだが、口実と言うか……いやメインの理由ではあるのだが、少し話ができたらと思い、わざわざ来たのだ」
斎藤がそう言うと、千鶴はぎくりとしたように体をこわばらせた。それを見て斎藤は、胸が何か鋭いものを突き立てられたように痛んだ。本当はやり直しができないかをもし話せたらと心のどこかで思っていたのだが、この様子では無理そうだ。
「いや、家でした話を蒸し返すつもりはない。安心してくれ」
斎藤はそう言うと、しばらくどういおうか考えた。言いたいことは決まっているのだが、言葉にして並べるのが難しい。
「ありがとう、と言いたくて」
千鶴の大きな目がさらに見開かれるのを見て、斎藤は視線を足元のアスファルトに移す。
「あのような始まりで、強引に結婚迫り、私生活も仕事も千鶴には無理を言ったにもかかわらず受け入れてくれて、感謝している、と伝えたかったのだ。共に過ごしたのは短い期間ではあるが、自分について知らない面を知ったり人と共に生きることについて考えたり、俺にとってはとても……有意義な日々だった。だが、お前に払わせた代償について、すまないと思っているのだ」
「一さん……」
「結婚という法的な形を無理にとらせてしまったことに対して、できれば何か償いをしたいと考えている。金の問題ではないのはわかっているが、さんざん考えたがそれ以外のやり方が思い浮かばなくてな。あのマンションを……一緒に住んでいるマンションを千鶴の名義にしたいと思っているのだがどうだろうか」
「えっ!」
千鶴は驚いたようだ。
「あそこは会社からも近いし引っ越さなくていいから便利だろう?」
「いえ、そんなの、いただけないです。ダメです」
「慰謝料的な意味合いとでも思ってくれれば……」
「そんな……。お金の問題だけじゃなくて、一緒に暮らした部屋に一人で住むなんてつらいです。だから……」
そうか、と斎藤は納得し反省した。
確かにそこここに別れた夫の気配がある部屋に住むのは嫌だろう。千鶴はまだ若い。斎藤と分かれてもまた別の男とつきあうこともあるだろう。その時にあの部屋に呼ぶのは嫌に違いない。
千鶴の人生に自分以外の男が現れるかもという想像は、斎藤の胸を重くした。しかしそれは表情には出さず、微笑んでみせる。
「そうか、確かにその通りだ。気が利かなくて申し訳ない。ではあのマンションは売ってそお金を渡そう。それならいいだろう?」
千鶴は首を横に振って拒否したが、斎藤が何度も頼むととうとうしぶしぶうなずいてくれた。
「でも、半額……ううん、3分の1くらいにしてください。そんなにもらう理由はないです」
「俺は会社を辞めるし、あの土地から離れるから問題はないが、お前はあそこに居続けるのだ。口さがない噂話に傷つくこともあるだろう。金で解決できるわけではないが、他には俺にはなにもできん。せめてものお礼と謝罪なのだ。せめて、折半させてほしい」
「一さん……」
頷いてくれる千鶴を見て、斎藤は安堵のため息をついた。千鶴の兄にも直接あって謝罪をしたいと言ったが、それは断られた。
「一さんが謝るような話じゃないので。私の方から話しておくんで大丈夫です」
千鶴と分かれるにあたりどうすれば一番彼女を傷つけずに済むか、昨夜眠れないままさんざん考えた。
あっさり別れてあげることと、補償……財産についてできるだけのことをしたいと思った。親族についても話し合い、折り合いがついた。これでもうすべてが終わりだ。
それからしばらくは、ぽつぽつと離婚には関係のない世間話をして、二人で売店で買ったパンを食べた。
こうして千鶴と二人でのんびりと同じ時間を過ごすのは最後かもしれない。それを考えると、なぜか胸の奥がきゅーっと痛くなる。前なら心臓外科か消化器系かと、病院へ行くことを考えただろうが、今はもうわかっている。
これは恋なのだ。いや、恋を失くした痛みか。
千鶴と出会わなければこんな痛みなど知ることがなかっただろう。この息苦しい痛みから逃げたいのに逃げたくないという矛盾した気持ちも、わからなかった。それがよかったのかよくなかったのか、今ではもうわからないが。
斎藤の列車の時間が来た。
「では。……送ってきてくれてありがとう」
改札の前で斎藤がそう言うと、千鶴は小さく首を横に振った。泣きそうな顔だ。しかし涙は見せずに、顔をあげて斎藤の顔を見る。
「いいえ。私こそ……ありがとうございました」
携帯を届けたことだけの礼ではないだろう。斎藤は何か言いたかったが言葉がでない。
結局小さくうなずいただけで、改札を通った。
階段をのぼって反対側のホームに行くと、千鶴がまだ改札の前にいるのが見えた。
これでいい。これでよかったのだ。
自己満足かもしれないが、できることはすべてやった。泣いたりわめいたり問い詰めたりの修羅場ではなく、冷静に、事務的に話を進めることができた。
いつか、遠い未来。今日のことを千鶴が思い出したときに、せめてきれいに別れた男として思い出してほしい。
電車がホームに入ってきて、改札が見えなくなる。
電車の扉があき、一人だけ人が降りた。斎藤よりも年上のサラリーマン風の男性で、家に帰るのかリラックスした表情だ。
自分にも『家』ができたと思えた時があった。二人でこれから作っていこうと。
でも結局は手に入らないまま終わってしまった。
斎藤は電車に乗ろうと顔を上げたが、なぜか足が動かない。
あと一歩前に踏み出せば。
この電車に乗れば。
この電車は斎藤を、自動的に家へと運ぶ。そうしたら斎藤は誰もいない家に帰り、寝て、明日はまた会社に行くのだ。千鶴が帰ってくるのは一週間後。それまでには会社や実家と話し合い、マンション売却の目途もつく。
この電車に乗ればいいのだ。そうすれば、きれいにあとくされもなく修羅場も無く別れることができる。
あと一歩踏み出せばいい。それだけでいいのだ。
斎藤は何度も心の中でそう言ったが、足はまるで自分の意志を持っているようでどうしても動いてくれない。
そうこうしているうちに、ため息のような音を立て、斎藤の前で列車の扉は閉まった。
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