【斎藤課長の新婚生活 20】
改札の外から、電車が到着したのを見た時、千鶴は猛烈な後悔に襲われた。
あの話で、あの会話で満足?
お礼を言ってくれて、私も言いたいことがたくさんあったはずなのに。
ううん、いまからでも間に合うかもしれない。入場券を買って改札を通り階段をのぼれば。声を出して呼び止めれば。
千鶴が切符売り場で入場券のボタンを押したとき、電車がぶしゅーっと音を立て、一拍置いて発車してしまった。千鶴は買ったばかりの切符を持って立ち尽くした。
「……」
いつもそうだ。その時に行動できなくて、あとから悔やんでばかり。
遠くなっていく電車を見ながら涙が滲む。
千鶴は唇をかんだ。
いつもそうやって後悔してあきらめて。今回もそうするの?斎藤さんとのこと、後悔したまま……
追いかけよう。
次の電車に乗ってマンションに戻って、ちゃんと言おう。何を言えばいいのかわからないけど、思ったことを、思ってることを全部。斎藤さんとのことはやり残したまま後悔して終わりたくない。
乗車券を買いなおそうとしたとき、千鶴はホームに見覚えのある人影があるのに気が付いた。田舎の駅には珍しい細身のスーツ姿。
「……え?」
斎藤だ。ホームに、電車が入ってくる前のままの体勢で突っ立っている。表情は遠くてわからないけれど……なにかあったのだろうか?トラブル?忘れ物とか?
しかし千鶴は、これが神様がくれた最後のチャンスだと心臓が強く打つのを感じた。斎藤が何かのトラブルで電車に乗れなかったとして、それは次の電車がくるまで時間があるということだ。
伝えたい。
結婚とか離婚とか、会社とか実家を継ぐとか、そう言うのは全部脇に置いておいて、自分の気持ちを伝えたい。そして斎藤に感謝の気持ちをちゃんと言って、そして、次の電車がくるまで一緒にいたいと。
千鶴は急いで改札を通り抜け、階段をのぼって上り線のホームへ向かった。
「一さん!」
千鶴が呼びかけると、斎藤は困ったような顔でほほ笑んだ。
「どうしたんですか?何か、忘れ物とかでしょうか?」
「いや、そうではない。……乗れなかったのだ」
「乗れない?どうしてですか?」
不思議に思った千鶴がそう聞くと、斎藤は黙り込んだ。
「……何も話していないような気がしてな。俺たちの結婚について。ちゃんと話さないままいつか話そうと思っていて……ためらっている間に終わってしまった」
「話す……何をですか?」
千鶴も話したかった。斎藤もそうだったのかと千鶴は勢い込んで聞く。言われた斎藤は目を瞬いた。
「何を話すか……それについては、それについては……」
しばらく考えている斎藤を、千鶴は息をのんで待ったが、斎藤は自分で自分の考えが分からないというように首をひねった。
「それについてはよくわからん。だが、その……まだ、帰りたくないと言うか……千鶴には迷惑だろうが、もしよければ、もし、この後特に予定がなければ、次の電車まで……」
「もちろんです!」
二人とも同じことを思っていたなんて。そして二人とも、何を話せばいいのか何を伝えればいいのかはっきりわからないけど、何か伝えたいと思ってる。
そしてふと思う。
もしかしたら……もしかしたらだけど、斎藤さんも同じなのかもしれない。私が楽しいって思ってる時に斎藤さんも楽しんでくれてたのかも。遠慮をしてる時には斎藤さんも遠慮してて。
会いたくないけど会いたいって思ってた昨日と今日、もしかしたら斎藤さんもそう思ってたのかも。
一緒に暮らしてきてもう半年以上。千鶴は初めて斎藤のことが少しわかったような気がした。完璧な人でいつも追いかけてばかりと思っていたけれど、斎藤も本当はいろいろ迷って戸惑っていたのかもしれない。
次の電車は2時間後だった。
ぶらぶらするような繁華街もなくゆっくりお茶を飲むような喫茶店もない。唯一お茶を飲めるところは千鶴の泊まっているホテルの1階のレストランだが、そこに斎藤と千鶴が二人で居れば当然社内の人間たちに目撃されあれこれ言われることだろう。
結局二人は、千鶴の泊まっている部屋で時間を過ごすことにした。
自動販売機で水とお茶を買い、千鶴の部屋に入る。
「……結構広いのだな」
斎藤の言葉に、千鶴は慌てて返事をする。二人きりの部屋で、なんだか緊張する。
「そうですよね。田舎なので土地はいっぱいあるんでしょうか」
斎藤も居心地が悪いのか、きょろきょろと部屋を見渡していた。
「窓があるのだな。開くのか?」
部屋の反対側にはホテルにしては珍しく大きな窓があった。外はもうかなり暗くなっている。「海が見えるのか」
千鶴は部屋を横切って窓に行く。「そうなんです。開いたら気持ちいいだろうなって私も初日にやってみたんですけど、鍵が固くて……」
ガチガチと鍵の取っ手を千鶴が動かすと、「どれ」と斎藤が後ろから手を伸ばす。
二人の手が触れ、そして二人とも動きが止まった。
千鶴は目を見開いて、自分の手の上に重なっている斎藤の手を見た。
斎藤の手は動かない。千鶴が目線を上にあげると、同じく固まっている斎藤と目があった。
ゆらりと斎藤の体が動いたのか、それとも千鶴が寄り添うように動いたのか。
二人の距離が縮まり、何も考える間もなく言葉もなく斎藤の顔が近づき千鶴の顔が上向く。
そしてまるで磁石のように、そうするのが当然というように、二人の唇は合わさった。
探るように動く斎藤の唇に、応えようと千鶴の唇が開く。斎藤の体が固くなるのを千鶴は感じた。そして、斎藤は顔の角度をつけて深く千鶴に口づけてきた。
覆いかぶさるようなその体に押され、倒れないように千鶴は斎藤に掴まる。それが抱き付くような形になり、斎藤の腕が千鶴の腰と背中に回された。
痛いくらいに強く抱きしめられて、千鶴の思考と感情は爆発してしまった。
頭が真っ白になり何も考えられない。
いつの間にか頭の後ろにはベッドがあって、ぼんやりとした視界の先には斎藤の顔とホテルの天井が見える。
キスとキスの合間に自分の唇から甘い声が漏れるのを、千鶴はどこか遠くで聞いていた。
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