【斎藤課長のオフィスラブ 9】





帰り道の足取りは軽かった。
ショベルカーがアスファルトを盛大に掘り起こしている横を、鼻歌を歌いたい気分で斎藤は通り抜ける。
行きに『いっそ俺も埋めてくれないか』と思って横を通り過ぎたその工事現場も、帰りは『がんばっているな』と頼もしく思える不思議。

男としての責任云々で勇んで電話したものの、電話口から聞こえてきた他の男の声に、斎藤の男気はぺしゃんこにつぶれた。
うかつなことに千鶴に既に思う相手がいたとは考えもしていなかったのだ。しかも泊まっていくような親密な男がいたとは。斎藤が責任をとるなどと笑止な話だった。千鶴にはもうすでに、喜んで責任を取りたがる男がいたのだ。
そのことは思ったよりもざっくりと斎藤を傷つけた。

雪村には恋人がいたのか……

だが、と斎藤は考え直した。
あのベッドでの血の跡から考えれば、千鶴はまだその男に体は許していない。二人で結婚まで待つとでも約束していたのだろうか。
そんな据え膳をおあずけされていた男が、他の男に据え膳をむしゃむしゃ食われたとしたら嫉妬と悲しみと怒りで尋常でない状態に陥るだろう。
そんな状態に千鶴を一人置いたままにしてもいいのか?そんな状態にしたのは千鶴一人の責任ではなく、斎藤のせいでもあるのだ……と、そんな騎士道的な優しさもなくはなかったが、正直なところ、

さっさと別れるがいい。

と思っていたことは否めない。
その男がどんなに千鶴を大事にしていようが、千鶴の体を自分のものにしたのはこの俺なのだ。たとえ覚えていないとしてもそれを盾にして、話し合い別れてもらおうと思っていた。
自分がこんなに……なんというのか独占欲が強いと言うのか縄張り意識が強いと言うのかわからないが、ここまで『男』なことに、斎藤は初めて気が付いた。これまで付き合った女性からはことごとく、優しすぎてつまらない、いい人過ぎて物足りないと言われ別れてきたというのに。
『不安になったりしないの!?嫉妬くらいしてよ!』と怒鳴られて終わったのが、斎藤の最後の彼女とのつきあいだった。もう……2年も前になるだろうか。
そんな経験から、自分は女性にはあまり執着しない淡泊な男なのかと思っていたのだが、今の自分はどうだろうか。
「まだつきあっているというわけでもないのにな」
斎藤は小さくつぶやくと苦笑いをした。
そうだ、彼女というわけでもないのに、千鶴のまわりにいる男を排除しようとあの手この手を考えている。

もともと好意は持ってはいた。好みのタイプでもあった。中身も外身も。
だが、課長という自分の役職、5歳という年齢差、そういう色事から遠ざかってきた年月から、千鶴に告白するとかデートに誘うとか、そういう発想はなかった。斎藤は女性の扱いが下手だし、千鶴自身も斎藤のことを上司としか見ていないだろうと思っていたのだ。
初めて意識したのは、クリスマスイブの残業を千鶴にお願いした時。
『クリスマスイブは空いているか?』
千鶴は頬を真っ赤に染めてうろたえていた。
それを見て斎藤は、自分の発言がイブのデートに誘うためのものだと誤解されたことに気づき、そして一気にいろんなものが覚醒した気がしたものだ。
今回は残業を頼むために聞いたのだったが、もしかして……もしかして本当にイブのデートに誘っていたとしたら。
千鶴のこの様子では断られなかったのではないだろうか。その上、こんなに真っ赤になってくれるということは、好意を……男としての好意ももってくれているのでは?
柄にもなく胸がどきどきと弾み、動きがぎこちなくなった。千鶴が逃げるように退社してくれたので助かったが。
仕事仕事の毎日の中で、唯一華やいだ瞬間だった。
その後も、同僚として皆で…というよりお互いに個人個人で意識しているような会話や態度が続き、斎藤の毎日はピンク色に染まりつつあった。

だからなのだろうか、彼女にプロポーズをして、二人でお互いに知ろうと努め、二人で生きていくことに、不思議なことに斎藤はなんのためらいもない。
むしろ収まるところに収まったという安心感さえある。こんな始まりでも、斎藤には千鶴を大事にして、一生愛し抜いて行く自信があった。
あの時千鶴に言ったのは本心だ。
千鶴自身は、斎藤のことを好きではないにしても、利を説いて結婚さえしてしまえば二人の時間はたっぷりある。
ゆっくり時間をかけて二人だけの関係を築き、本物の夫婦にもいつかなれるだろう。


プロポーズなどしたのは初めてで、斎藤はかなり緊張して答えを待っていたのだが、帰ってきたのは意外な言葉だった。

『あの、まずその前に……ちょっと訂正したいことがあるんですけど』
『なんだ』
『他の男ってなんですか?』
斎藤は電話口から男の声が聞こえたことを話す。泊まって行くと雪村も言っていたではないか、と。
『あれは薫……兄です!あの、海外から仕事の関係で日本に来るときは私の家に泊まるんで……今回も、今日と明日と泊まっていくんです』

なんと、兄とは……!

斎藤は一瞬にして奈落の底から蝶が舞い飛ぶ天国へと浮かび上がった。実際、天使が吹いたラッパのファンファーレが聞こえた気がしたくらいだ。
『そ、そうか……!それならばますます問題はないな』
返事は聞くまでもない、明日からの事務的に片づけなければいけない処々について話し合おうとしたとき。

『あの、さっきのお話……ちょっと考えさえてもらえないでしょうか』

千鶴はそういうと、大きな瞳を揺らして斎藤を見た。
『一生にかかわるお話ですし……私にとっても斎藤さんにとっても。もしお受けするんだとしても、ゆっくり考えたいんです。私も仕事があるし……』

その真剣なまなざしを見て、斎藤はふと職場で初めて彼女と話した時のことを思い出した。
背伸びをしたりわかったふりをするのではなく、静かにきちんと聞きわからないところは質問する。
周囲に流されてあまり考えずに仕事を『こなす』者が多い中、質問の際の千鶴の真剣な瞳は斎藤いとって新鮮だった。自分の頭で考え、自分の答えを伝える。そこが好ましいと、こういうことになる前にも斎藤は思っていた。

『そうだな。日本にいれば妊娠しても仕事は続けられるだろうが、ロンドンに行くのなら辞めなくてはいかんな……』
そうなるとやはり、斎藤がロンドン転勤を断った方がいいだろうか。
驚くことに、千鶴と千鶴の子どものことを考えると、ロンドン転勤を断ることは全く惜しくなかった。以前土方から内々にロンドン行を打診された時は、社を背負って勉強してこようと勢い込んだものだったが。
『だが、時間があまり……』
『そ、そうですよね。明日にはお返事するようにします』
結婚について合意をもらえたら、ロンドン行についてはその時千鶴の希望を聞こう。
千鶴が結婚はするが仕事は続けたいと言うのなら、斎藤がロンドン行を断ればいいだけだ。
自分以外の人間の意見で自分の人生の進路を大幅に変えることは初めてだ。だが、斎藤は全く苦ではなかった。逆にうれしい縛りというか、自分でも驚くのだが気遣える相手がいて気遣いたいと思える相手であることが嬉しいのだ。
斎藤は『わかった』とうなずいだ。





千鶴と分かれて自宅近くの駅について、そこから近い自分の家に帰ろうとしたとき、斎藤はくしゃみをした。
気が抜けたせいか寒気がするような気もする。

そういえば昨日までは風邪をひいていたのだったな。

千鶴と結婚し転勤するとなると、これからは休めない予定が目白押しだ。風邪などとっとと治しておかなくてはならない。
斎藤は駅に近い薬局に入った。
にぎやかな音楽とまぶしい店内で風邪薬を選んでいるとき、とある商品がふと目に入る。

避妊具も買っておいた方がいいのだろうか……

一瞬そう思ったものの、斎藤は首を横に振った。
いや、結婚したからと言って夫としての権利を当然のように要求するような図々しいことはしたくない。
自分は男だし、そういう事に対する抵抗はほとんんどなく、できればその……きちんと夫婦関係になりたいとは思うが、そこはやはり千鶴に無理をさせるのは嫌だ。
こんなあわただしく急がせた中でどさくさに紛れて千鶴に受け入れさせるよりも、二人で暮らす中でお互いについてよく知って、それから自然と彼女の気持ちの準備ができた時に。
妻の義務だからというだけで、そういう行為をされるのは斎藤にとっては本意ではないのだ。いや、そういう行為がしたくないというわけではないが、千鶴が……

そこまで考えて、斎藤は自分の気持ちに気づいて愕然とした。

そうか……俺は、雪村に、いや、雪村が……雪村を……

雪村に好かれたいのか。
体はもちろん欲しいが、それに加えて。

そして、始まりがあんな事態だったせいで、通常よりも過剰に自分がよこしまな思いがないことを彼女に証明したがっているようだと、斎藤は自己分析した。

酒に酔った勢いで。
一夜だけ。
付き合ってもいない女性と。

そんなことを頻繁にやっているようなだらしない男だと、千鶴には思われたくない。


斎藤は手に取った避妊具を再び棚に戻し、風邪薬だけを持ってレジへと向かった。












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