【斎藤課長のオフィスラブ 8】
「結婚してほしい」
深夜というにはまだ早い、こうこうと明るいミスタードーナッツの椅子の上で、千鶴は『目が点』という意味を、実感を伴って知ることができた。
隣に座っている人がドーナッツを喉に詰まらせ、苦しそうに咳き込んでいる。
隣の席はようやく人一人が体をねじって通れるほどの隙間しかない近さなので、多分唐突な斎藤の言葉が聞こえたのだろう。
「……斎藤さん……」
千鶴はいったいどこから突っ込めばいいのかと心の中で十数えながら口を開く。と、どこか暗い表情の斎藤にさえぎられた。
「いろいろと……問題があることはわかっている。だがこれがベストだと思う」
「ベストって……」
斎藤はどこか虚ろな表情で、淡々と業務連絡のようにつづける。
「まず雪村に話さなくてはいけないことがある。昨夜のことだが――」
その時、斎藤の手がちょうど狭い机の端においてあった小さな紙袋にあたった。それは、千鶴の方に落ち、千鶴はそれを拾う。
「あの、これ……」
「あ、ああ。すまない。ありがとう……いや、それは実は雪村に……」
「私に?」
アルマーニのブランド名が書いてあるシックな小さな紙袋だ。
「いや、紙袋は関係ない。うちにあった適当な大きさの袋に入れただけだ。中身は昨夜俺の家に忘れて行った……ブラジャーだ」
千鶴が目を見開いて真っ赤になったのと、隣の席の人がコーヒーを吹きだしたのとが同時だった。
斎藤と千鶴が隣を見ると、隣に座っていた中年の男性は真っ赤になって紙ナプキンで机を拭いている。
「……出るか」
「はい」
千鶴は真っ赤な顔のまま、斎藤の後について席を立った。
ほとんど手を付けていなかった千鶴のトレイを見て、ミスタードーナッツの店員さんは親切にも持ち帰り用に詰めなおしてくれた。
コーヒーと紙袋を持って、千鶴は斎藤を促す。
「あの、こっちに公園があるんです」
と、二人で公園に向かう。
季節は桜が散った時期で、暖かい夜だった。
「先ほどの話の続きだが……」
公園のベンチの前で、二人で立ったまま話を始める。千鶴は紙のコーヒーカップを意味もなく持ち直した。
「は、はい」
「昨夜のことだ。その……俺は、何かしただろうか?」
「……?」
言葉の意味がよくわからず首を傾げる千鶴に、斎藤は気まずそうに続ける。
「いや、朝の状況からして何かはしたのだろうが、俺が聞きたいいのはつまり、お前の意思に反して、という意味だ」
「えーっと……」
聞かれても、千鶴は覚えていないから答えようがない。しかし斎藤はなぜこんな質問をしたのだろうか?それはつまり……それは、つまり……
「も、もしかして……斎藤さん、覚えてないんでしょうか!?」
千鶴がそう聞くと、薄暗い公園の灯りの下でもはっきりわかるほど、斎藤の目じりが赤くなった。
「……実は、そうなのだ。祝賀会の途中から記憶がない」
「途中から……」
そんなに前から。確かに、帰り道でもう一飲みすると言い張る斎藤も、自分のマンションで飲みなおそうと言い出す斎藤も、いつもの斎藤ではありえない。土方はさすが長い付き合いだけあって斎藤の様子をきちんとわかっていたのだ。
「言い訳をするわけではないのだが、あの日俺は風邪をひいていてな。強い風邪薬を夕方に飲んでいた」
「風邪薬を?」
斎藤は頷く。
「にもかかわらず、祝賀会で勧められるままに飲んでしまった」
しかも、日本酒や焼酎やビールやワイン、各種ごちゃまぜで飲んでいた気がする。それではいくら酒に強くても意識が飛ぶのはしょうがない。
「それで……おれは、何かお前にひどいことはしなかっただろうか。いや、ああいうことになったのがそもそもひどいことかもしれないが……もっとはっきり言うと、暴力をふるったり脅したりとか、そういうことだ」
心配そうな斎藤の顔。
千鶴を傷つけたのではないかとずっと悩んでいたのがわかる。
ああ、やっぱり斎藤さんだ……
と千鶴は久しぶりに、衝撃の今朝の出来事の以前の視線で斎藤を見ることができた。
心配している斎藤を安心させてあげたい。だが。
「すいません、……実は、私も覚えてないんです」
斎藤の目が見開かれた。
「お前も覚えていないのか?」
千鶴が頷くと斎藤は絶句したように腕を組んだ。そして顎を手でなでる。
男の人の手だなあ……
大変な話し合いの真っ最中なのに、千鶴はふと斎藤の大きな手を見てそう思う。全身はスラッとしている印象だが手は大きい。そして指が長い。男性特有の節くれだってはいるのだが、ごつごつ、という感じではなくて……
そこまで考えて、千鶴はパッと顔を伏せた。耳が熱い。
あの手に触られたら、どんなだったんだろう。ざらざらしているのかすべすべなのか。あの大きな手で、私の体に触れられた……はずなのだけど記憶がない。
「……」
頭は覚えていないけど、体はわかるのだろうか。あの手は本来もっと親密な距離にあるものだと。
だからこうやって薄暗いところで二人でいると、変なことを考えてしまうのだろうか。
斎藤は平気な顔をしているけれど、きっと夕べはあの手で千鶴の体に触れたのに違いないのだ。
千鶴は、変な方向へ行きそうな思考を打ち切って、顔を上げた。
「あの、だからというわけじゃないんですが……その、もう、いいんじゃないでしょうか。私ももう忘れたいし、覚えていないし、私も斎藤さんもそうなら、昨日の……今朝のことは、なかったことにしませんか?結婚とかそんな大ごとにしなくても」
斎藤はじっと千鶴を見た。
かなり長い間、あの蒼い瞳で見つめられ、千鶴は居心地が悪くなる。
「……大ごとだろう」
そう言われ、千鶴は「え?」と聞き返した。斎藤はこちらに向き直り、まっすぐに千鶴を見る。
「俺にとっては大きな出来事だった。お前は違うのか?」
「それは……」
もちろんそうだ。あの後、自分の家で早朝にシャワーを浴びながら千鶴は泣いてしまった。記憶がないので嫌だとかそういうのではないのだが、どこかみじめで感情の整理がつかなくて。こんなのが初めての経験だなんて、と自分が悪いのはわかっているのだが心がザラザラと音をたてていた。
会社に行っていつもの生活に戻って忘れたと思っていたのに。
斎藤は言いにくそうに視線を下げた。
「お前は、その、……初めてだったのだろう?」
ズバリ言われて、千鶴は真っ赤になった。
「な、ど、なぜ……どうして、それ……」動揺の余り言葉にならない。
「先ほど俺のベッドを見たら、……血のあとがあった」
「……」
恥ずかしさと気まずさと情けなさで、千鶴は消えてしまいたかった。あんな風にお酒に酔って初体験を済ませてしまうような女を、斎藤はどう思っただろうか。少なくとも尊敬されたり好意を持つような行為でないことは確かだ。胸の奥のザラザラが強くなる。
「……すまなかった」
絞り出すような声で謝罪されて、千鶴は顔を上げた。
そして薄暗い公園の灯りの下で斎藤の表情を見て、彼も傷ついているのだと千鶴はわかる。
千鶴を傷つけたことに傷ついている。
不思議なのだが、傷を分け合おうとしてくれる斎藤の態度に、千鶴の傷は実際少しだけ癒された。
「それで、……初めてだったから、結婚なんて言ってくださったんですか?」
「いや……」
そこで斎藤はもう一度口をつぐんだ。
そういうことに固そうな斎藤といえども、まさか処女をもらってしまったから結婚を…と言いだしたのではないと分かり、千鶴は少しほっとした。
だが、さらに言いにくそうだ。というか、もう昨夜のことは全編、言いにくことばかりなのだ。
「その……俺はしばらく、その、部屋にあげるような特定の女性はいなくてな……」
回りくどい言い方だが要は彼女ということだろう。そんな状況でもないのになんだか少し嬉しくて、千鶴は「はい」とうなずいた。斎藤は続ける。
「つまり…記憶はないのだが、おそらく……避妊はしなかったのではないかと思う」
「………」
斎藤の口からでる『避妊』という生々しい言葉に、千鶴は、そしてもちろん斎藤も赤面したまま沈黙した。ミスタードーナッツを出てよかった。こんな話をあそこでしたら、隣の席の人は落ち着いてドーナッツも食べられなかっただろう。
「俺の部屋には無い。お前も持っていなかったのではないか」
「そ、そこまで考えてなかったです……すいません……」
千鶴が真っ赤になって小さくなっていると、斎藤は一度口を開け、また閉じ、また開け、を何度か繰り返す。
まだ何か言いたいことが……言いづらいけど言わなくてはいけないことがある様子だ。
「まだ何か……?」
これ以上どんな恥辱があるのかと、千鶴は半ばやけっぱちで聞いた。
「俺はよく知らんのだが、その……時期的に子どもは大丈夫なのか?」
子ども。
言われて千鶴ははっとした。
そうだ、避妊してないってことは当然妊娠の可能性があって、でも記憶は全くないってことは処女懐胎!!?
ううん、落ち着いて千鶴。問題はそこじゃなくて、そう、赤ちゃん……
なんだっけ?生理と生理の真ん中らへんとかきいたことがあるような。この前の生理は……
千鶴は必死に考える。生理が始まった日から数えるのか終わった日から数えるのか。それだけで一週間は違う。だが、アバウトな感覚でも……
「ど、どうでしょうか。可能性は……」
あるかもしれない。とういうか結構ある。かなりある、と思う。
千鶴は今度は青ざめた顔で斎藤を見上げた。斎藤も真剣な顔で小さくうなずく。
ま、まさか……赤ちゃんが?
斎藤さんと私の!?
「それに……」
「ま、まだあるんですか!?」
悲鳴のような千鶴の声に、斎藤はすまないと、心底申し訳なさそうに謝った。
「まだ口外はしないでほしいのだが、俺に内辞がでたのだ」
「内辞?」
部署異動をする本人にだけ、正式な辞令の前に内辞がある。正式な事例が出る前に、それを受けられるかどうかの確認だ。
「さ、斎藤さん、異動しちゃうんですか!?」
それはいろんな意味でショックだ。斎藤に会えるのが会社に行く楽しみの一つだったのに。
いつ?どこへ行くんだろう?千鶴がそう聞くと、斎藤はまたもや言いづらそうな顔になった。
「……たぶん来週の月曜日に辞令がでて、すぐにロンドンへ行くことになると思う」
「ロ、ロンドン!?」
千鶴と斎藤の会社は国内には支社や支店はおおくあるが、海外にはないはずなのだが。千鶴の表情に気づいた斎藤は、事情を説明した。この業界のリーディングカンパニーに出向という形で勉強をしにいくのだと。
「そ、それってすごいチャンスっていうか……うちの会社にとってもすごく重要なこと、ですよね……」
ここで斎藤がうまくやれば、その会社が日本に進出する際にうちの会社と提携を結び、うちが全面的に販売権を持てることになる。さらには斎藤が培ってきた人脈やノウハウを社内で生かし、アジアに進出する事でも夢ではない。近藤社長や土方副社長は当然そこまで見越しての話しだろう。
「おめでとうございます!す、すごいです!」
まさにわが社の命運を一身に背負っての転勤ではないか。なのに斎藤は冷静に首を横に振った。
「いや、この話を断ることも考えている」
「ええ!?どうしてですか?」
「もし、子どもができていたらどうする」
ポカンと口を開けた千鶴に、斎藤は続けた。
「来週の月曜日までに、おまえが妊娠しているかどうかわかるものなのだろうか?」
これには千鶴は首を横に振った。
多分違う。いろんな本とかテレビとかでも、たいてい『生理がおくれてる』から妊娠発覚の場合が多い。ということは千鶴の場合はあと……2週間くらいあとに生理が来なければ、妊娠していることがわかるのだと思う。
「やはりそうか。となると、ロンドンに行ってしまうような無責任なことはできん」
「そ、それは……」
それはとてもありがたいが、だが、それで妊娠していなかったら仕事上ものすごいチャンスを斎藤はフイにしてしまうことになる。会社は多分斎藤ではない別の人間をロンドンに行かせることになるのだろう。
千鶴がそういうと、斎藤はうなずいた。
「そうだ。俺としてもできればロンドンに行きたいと思っている。だから結婚してほしいと頼んだのだ」
「……え?」
「今日決めて、明日に双方の両親と会社に伝え、土曜日にそれぞれの実家にお邪魔し、日曜に必要なものを買い揃え、月曜日に役所に婚姻届をだしてその足で辞令をうけとりロンドンに行けばいい。パスポートは持っているな?」
千鶴は力なく、カクンとうなずいた。一応……去年の夏、千たちとグアムに行ったので持ってはいるが……
「ロンドンに行った後に妊娠がわかったとしてもすでに結婚しているから問題ないだろう?」
いや、問題だらけだ。
「そ、それはそうですけど、でも妊娠してないのがわかったらどうするんですか!?結婚までしちゃって!!」
突拍子もないことを当然のように次々と言われて、思わず声が裏返ってしまったが、斎藤はあくまで冷静だった。
「俺は別にかまわん」
「か、かまわんって……」
「雪村」
斎藤はそういうと、千鶴へと一歩近づき、そして瞳を見つめる。
「雪村は、俺が夫では嫌だろうか」
真っ直ぐに目を見て問われて、千鶴は頬が熱くなるのを感じた。
い、嫌なわけではない。全然。それどころか……とてもすてきで、だが住む世界が違う、斎藤が選ぶような恋人は、きっとスタイルが良くて頭もよくてとっても美人で胸も大きくて社交的な魅力ある人だと思っていて、あきらめていたくらいだ。
だが。
そうはいっても、それはそれ、これはこれ。
いくらなんでもつきあってもいないのに結婚はないだろう。
千鶴が口を開こうとしたとき、それを止めるように手のひらを千鶴の方にむけて斎藤がつづけた。
「いや、雪村に……家に泊めるような付き合いの男がいるのはわかっている。その男のことが好きなのか?」
「え?お、男?」
「その男はどうなのだ?昨夜、俺との間にあったことを話しても、その男は変わらずお前を好きでいられるだろうか」
「昨夜……」
「そうだ。お前のことを好きだからこそその男はそういう関係にならずに我慢していたのだと思うが、そんな状態の彼女が他の男と先に関係を持ってしまったとしたら、普通の男はそのまま付き合い続けていくことは難しいだろう」
「さ、斎藤さん、何か勘違い……」
「昨夜俺は何をしたのか、乱暴をしたのではないか、嫌がる雪村に強引に迫ったのではないか、どこか怪我はしていないか……。そしてそのせいで雪村が他の男から責められているのではないか、妊娠はどうなのか?……そんな思いを抱えてロンドンに行くのは避けたいのだ。それに、雪村を日本に置いたまま俺がロンドンにいる時に昨夜のせいで雪村に何かまずいことがあったとしても、俺にはそれがわからない。男としてそんな無責任なことはできない」
斎藤はそういうと、がしっと千鶴の肩をつかむ。
「俺は、いい夫になれると思う。他の女に目を向けてお前を悲しませるようなことは決してしないし、経済的に苦労させるようなこともない。だから信用してお前を……お前の人生を預けてもらえないだろうか」
斎藤の青い瞳がまっすぐに千鶴の胸の奥の奥、まだ誰も触れたことのない場所へ触れる。
突然の展開や、よくわからない内容にもかかわらず、目を見て誠実な口調で真摯に言われたその言葉は、千鶴のおなかの奥を熱くした。
「……」
「必ず幸せにする。一生」
千鶴は薄暗闇の中、斎藤の真剣な表情を見上げた。
展開が早すぎて頭がついて行かないが、このプロポーズは……このプロポーズは、受けるにしろ断るにしろ千鶴の女としての歴史にしっかりと刻んでおこうと心に決めた。
こんな素敵な人に、誠実に、まっすぐに、こんな言葉をもらえるなんて、女冥利につきるではないか。
何十年後かに自分の子どもに『ママだってもてたんだから。素敵な男の人に真剣に、必ず幸せにする、なーんて言われちゃったのよ〜!』と自慢しよう。
いや……いやいや、その子どもが実はもうすぐ千鶴のおなかの中に誕生しているのかもしれない。
そしたら自慢するときは『お父さんからこんな素敵なこと言われちゃったのよ〜』となるのだろうか。
余りの状況に千鶴の頭がパンクして、全然関係のない楽しい妄想の世界に行ってしまっていると。
「雪村。雪村?聞いているのか?」
小さく体を揺らされて、千鶴はハッと我にかえった。
「えー……っと……」
どうしよう、どうすればいいんだろう。
考えなきゃ。こ、答えないといけないんだよね。
どうしようううう〜〜!!!
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