【斎藤課長のオフィスラブ 7】





な、長かった……

千鶴は、文字通り体をひきずるようにしてマンションのエレベーターを降りた。
朝起きたのも早かったし、起きてすぐに半年分ぐらいのアドレナリンを使ったし。そのあとの会社も長かった。
斎藤を避けるために全神経を使うのにもそうとう疲労したし、追いかけてきた斎藤に呼び止められた時は、廊下の窓から飛び降りて逃げようかと思ったほど追いつめられた。
そして思わず泣いてしまって……

斎藤さん、なんて思ったかな……
会社で、しかもあんなことの後に泣くなんて、困ったよね。めんどくさいなあってたぶん思われたんじゃないかな。

睡眠不足の上に疲労が重なって、千鶴の物思いはどこまでもネガティブだ。
よろよろと自分の部屋へ向かったとき。

「遅い!」

ふいに声をかけられ、千鶴は最後の気力を振り絞って驚いてしまった。もう体力気力ゲージはレッドゾーン、ほぼゼロだ。
部屋の扉の前に立っていたのは、兄の薫だった。
「か、薫?なんで?」
「仕事の関係でしばらくおまえんちに泊まるって言っておいたろ」
「あ……」
そうだった。
薫は海外の会社で仕事をしていて、その仕事と仕事の合間に日本に帰ってくるときは千鶴の部屋に泊まるのだ。今回についても一か月くらい前に打診されていたんだっけ。

よ、よかった。昨日じゃなくて……

薫がくるのが昨日だったら……
千鶴は想像して青ざめた。

祝賀会はあらかじめ知らせておいて、薫には先に私の部屋に入っておいてもらうにしても、妹がその夜帰らなくってしかも朝帰りして、動揺しててって……

ほんとうに一日ずれていてよかった。心から。
薫をすっぽかすのも悪いが、何をしていたのかを当然説明しなくてはいけないのに、とても説明できない。
いや、説明したとしても、職場の上司と酔った勢いで一夜を共にしてしまい、しかも自分はそれが初めてだったのでとてもショックなのだと妹から告白されても、薫だって困るだろう。

「えっと、ごめんね。あがって待っててくれればよかったのに。鍵を持ってるでしょう?」
「そりゃそうだけど……。お前だって知られたくない彼氏とのアレコレとかあるんじゃないのか」
「……」
いつもは一笑でスルーする兄の『いい加減男作れよ』発言だが、今日は笑えない。
兄の薫は、千鶴に彼氏がいないのを実はとても気にしているのだ。母は二人が小さいときに亡くなり、その後父に育ててもらったのだがいかんせん男親と男兄弟のみの思春期。家族の世話にかまけてほとんど男の影もなく学生生活を過ごした千鶴に、父と薫は男が苦手なのじゃないか、女としてのノウハウを教えられないから彼氏ができないのではないかと、それはうるさかった。その後父もなくなってしまい、今はその心配を薫が一手に引き受けている。
そのため、昨日のことがばれたらとてもめんどくさいことになるのは目に見えていた。興味無さそうな顔をしながらも『どこの』『どんなやつで』『いつから』『どんなふうに』と根掘り葉掘り聞いてくるに決まっている。それでもってきっと、後から天国の父と母に報告とかするに決まっているのだ。正直言ってその旺盛な好奇心と妹思いの興味がうっとおしい。
「……別にみられて困るものなんてなにもないから。ほら、入って」
そう、本当に困るものはない。千鶴の頭の中以外には。

鍵を開けて扉を開けて、薫を先にあがらせて電気をつけたところで、千鶴の携帯が鳴った。
「夕飯は食べたのか?」
リビング兼ダイニング兼ベッドルームの電気をつけた薫が、そう声をかける。
「ううん。でもあんまり食欲なくて……ちょっとごめん、電話でるね」
千鶴はそう断ると、パンプスを脱いで通話ボタンを押す。知らない番号だ。誰だろう?

『雪村さんでしょうか』
「はい」
『斎藤です』

えっっっっ!!!

千鶴の周囲の空気が一瞬にしてピリッと電気を帯びた。
今、まずいと思った傍からこの事態とは。
千鶴が沈黙だったせいか、斎藤が続ける。
『突然電話してすまない。どうしても話しておかなくてはいけないことがあって――』
会社では決してしないことだが、千鶴は斎藤の言葉をさえぎった。
「ど、どうして電話なんて……!もうあの話はしたくないって言ったじゃないですか」
通話口を手で押さえて、リビングにいる薫に聞こえないように小声で、でも必死に言う。
『す、すまない。だがどうしても話があるのだ』

もうっ!

千鶴は心の中で舌打ちをした。「……わかりました。じゃあ明日会社で……」
『いや、もうそちらに向かっている。雪村の家の駅の改札を今出たところだ。あと……そうだな10分もすれば着く』
「ええええええ!」
今度は声が出てしまった。
「さ、斎藤さん、そんな……!そんな、急に来られても困りますっ!」
『すまない、だが男として――』
斎藤がそこまで言いかけた時、リビングから薫が声をかけた。

「誰か来るのか?俺が邪魔ならしばらく出かけておいてもいいけど?」

『………』
斎藤は黙り込んだ。パニックになっていた千鶴は、斎藤のその沈黙が意味することには気づいていない。
「えっと……どうしよう……じゃあ私が外に出るので……駅からちょっと行ったところにミスタードーナッツがあるので、そこで待っていてもらえないですか?私、すぐに行くので」
『……』
「斎藤さん?」
『いや、その……家ではなかったのか?』
「?いえ、家ですけど?」
『……』
「斎藤さん、ミスタードーナッツで……」
『誰かと約束があったのだな。無理に押しかけて申し訳なかった』

ものすごーく暗い声が電話の向こうから聞こえる。千鶴はどうしたのかと思ったけれども、斎藤があきらめてくれたのならそれはそれでラッキーだ。
「いえ、約束ってわけじゃないですけど、でも明日でもいいのなら……」
その後、かなり長い沈黙の後、斎藤のきっぱりとした声が聞こえた。
『いや、やはり会社では話しにくいことだ。それにこうなったのなら早く話した方がいいとも思う。その、今だれか家に来ているのだろう?その人が帰ってからでいいので、ゆっくり話をさせてほしい』
「はい……」
こうなったらやはり会うしかないのかと千鶴はがっかりした。だが、いつかは話し合わなくてはいけないのだ。ただ、それが……それを、お風呂にゆっくり入っておいしいものを食べて、薫と気の置けない話して、たっぷり眠った後にしたいというのは、ぜいたくなわがままだったらしい。

「あの、大丈夫です、私今から出ます」
『だが客人を放っては……』
「客っていうか、泊まっていくので、大丈夫ですよ」
『……』
また沈黙になってしまっった。

「斎藤さん?」
『……わかった。ミスタードーナッツで待っている』

この世のものとは思えないくらい、暗い声でそう言った後、斎藤は電話を切った。











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