【斎藤課長のオフィスラブ 6】
「ロンドン……ですか」
昨夜からいったい何度目だろうかと我ながら思う茫然自失状態で、斎藤は近藤の話を聞いた。
「そうだ、前から話していただろう?俺たちの仕事と同じ分野で世界で成功している業界1位の会社がロンドンにあるんだ。そこの社長に、うちの社員を勉強に行かせてほしいと前々から頼んでいたんだが、急に『来てくれ』と連絡があってな。トシとも相談したんだが、斎藤君が適任だと俺も思う。行ってあちらの最新の動向を吸収してきてくれないか」
土方が、つやつやにコーティングされたパンフレットを差し出す。
「まあ、もう知ってるだろうがな、この会社だ」
ロンドンのシティにそびえたつ超高層ビルだ。
こことつながりを作りたくて、近藤や土方があちこち根回ししていたのを斎藤は知っている。これは会社的にはすごいチャンスであり、斎藤の仕事人生においてもとてつもなく大きなターニングポイントだ。断ることなどありえない。光栄な話なのだ。
だが……
「何年でしょうか」
斎藤の頭に真っ先に浮かんだのは、千鶴の顔だった。
こんな状態のままあえなくなるのか。それはどれくらいの期間なのか。
そんな質問が来るとは思っていなかったようで、近藤と土方は少し驚いた顔をした。
「期間は決まってねえよ。あちらさんはうちと比べ物にならねえくらいでかい会社だし、ロンドン以外にも中国や南米、アメリカにも支社がある。そういうところへOJTへやってみっちりしこんでやるって言ってくれてたから、まあしばらく帰れねえだろ。2年か3年か……いや5年以上はかかるんじゃねえか。うちと組んで日本市場でも仕事するって話にでもなりゃあ、お前はうちに帰ってきたとしてもほぼあっちで仕事することになるだろうしな」
「そうですか……」
どこか暗い様子の斎藤に、近藤と土方は顔を見合わせた。
以前この話をそれとなく打診した時は、まっすぐな目で『期待に応えられるよう全力をつくします』と言い切っていたのに、今はまるで行きたくないような言葉ではないか。
「斎藤、おまえ、何か……その、問題があるのか?日本を離れられないような?」
「いえ。なにもありません。変な質問をして申し訳ありませんでした」
詳細はまた追って連絡する、と言われ、とりあえずの転勤のための事務処理一式をもらって、斎藤はまだどこか茫然としたまま社長室を出た。
雪村に……言った方がいいだろうか。
だが、もう話したくないと言っていたし……そもそも俺と彼女はなんの関係でもない。
だが、これではまるで……
まるでヤリ逃げだ。
本当にどこまでも卑怯な男として、千鶴の記憶に残ってしまう。
いや、このまま物理的に距離を置いた方がお互いいのかもしれない。千鶴に謝って許してほしいというのは、斎藤の気を楽にするためだけのもので、千鶴にとってはなんのメリットもないのだ。
それならお互いが目に入らないような状態で、時が傷をいやしてくれるのを待った方がいいのだろう。
斎藤が席に戻ると、もう終業時間だった。
こうして、斎藤の長い一日が終わった……と思っていた。この時はまだ。
長い一日だった……
体力には自信があった斎藤も、さすがに疲れた。
鍵を開け誰もいない部屋の電気をつける。
当然ながら朝でかけたままだ。
ソファのクッションノの下にあるものには思いをはせないようにして、斎藤はネクタイを緩めた。
とりあえず休もう。
睡眠不足と頭の混乱、千鶴と遭遇しないように変に緊張した一日だったせいで、もう限界だ。ゆっくり風呂に入りゆっくり眠り、すっきりした頭でいろいろ考えればいいのだ。
いや、考えると言っても……
もう、放っておいてくれと言われたのだったな……
こんなことになる前の関係に何とか戻りたい。が、それも無理なのだろう。
斎藤はネクタイをとるとベッドに放り投げ、Yシャツのボタンを外す。
自分が一体どんなことを昨夜千鶴にしたのか、それについて謝りたいが、それも自己満足だ。
千鶴のことを考えれば、もう触れずにそっとしておいた方がいいのだ。
斎藤はYシャツの袖のボタンを取りながら、ふとベッドを見る。
寝乱れたシーツと羽根布団。昨夜いったいここで自分は何をしたのか……
「ん?」
ふと斎藤は何かしみのようなものに気づいた。シーツの真ん中のあたり。
「これは……」
上掛けをどかしてみる。
斎藤の瞳の色が濃くなった。
それは血だった。
少量の……
「くそっ!」
斎藤はそのまま踵を返してリビングへ行く。
こらえようのない熱いものが腹の奥からこみあげてきて、斎藤はぎりっと歯噛みをした。
こみ上げてきたものは怒り。
昨夜の自分に対する怒りだ。
こんなものを発見してしまったら、もう千鶴の『触れないでほしい』などということにかまってはいられないではない。たとえ千鶴が何と言おうとも話し合わなくては。
男としての責任だ。
昨夜のことを話せば千鶴を傷つけてしまうかもしれない。だが、このまま、たぶん千鶴を傷つけたまま放置した方が彼女の傷は深い。
その傷を癒すためにはなんでもしよう。
ちゃんと向き合って、傷つけたことを謝って、そして女性にとってその傷をいやすのに時間がかかるのなら、自分はいくらでもつきあう。
なんでもする。
彼女があんな風に泣くことが二度とないように。
それでも泣いてしまうときは、自分がそばにいたい。加害者が何を言うのかと言われるかもしれないが、そばにいて自分の肩をかしてやりたいのだ。許されるのなら、抱きしめてなぐさめたい。
「……」
リビングの端に置いてあるパソコンの前で斎藤が迷ったのは、一瞬だった。
管理職として緊急用に同じ部署の社員の連絡先と住所の一覧を持っている。業務以外で使うのは、当然ながら許されることではない。だがもうかまうものか。
斎藤はパソコンを立ち上げると千鶴の電話番号を確認し、携帯に番号を入れた。
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