【斎藤課長のオフィスラブ10】
よたよたと、本当に這うようにして千鶴は家のドアを開けると、玄関先に座り込んだ。
つ、疲れた……
頭の中も体も。
とにかく、とにかくお風呂に入りたい。ゆっくりとお湯につかって……
「遅かったな」
リビングから声をかけられて、千鶴は「ああ、薫……」と顔をあげて立ち上がる。今は根掘り葉掘り聞かれるのもつらいし、話すのもおっくうだ。一人だったらよかったのに……
「お風呂……」
「いれといた」
そう言われて、千鶴は薫を見た。面倒な兄が来たと思ってたが、こういうちょっとした思いやりが暖かい。特にこんなに疲れているときは。
「ありがと。入ってくるね」
千鶴はそのままリビングの手間にある風呂へと直行した。
「……」
残された薫は、千鶴の様子を不審げに見る。
怪しい。帰ってきた時点であんなに疲れていたのに、再び呼び出されて外にでかけるなんて。
「……なんだこれ?」
薫は、千鶴が持ち帰って下駄箱の上に置きっぱなしになっている小さな紙袋を持ち上げてみた。ブランド名はアルマーニで見るからに男物の小物を買ったときの袋ではないか。
「ふーん……。プレゼントでも貢いで、つっかえされたとか?」
薫は罪悪感などかけらもなしに、袋の中を覗く。玄関口は電気が暗く、中がよくわからない。薫は指を突っ込んで中のものを摘み上げた。
するすると出てきたそれは、女物の下着。
ブラジャーだ。
値札も何もついていないしどことなくよれているから使用済み。もちろんアルマーニ製などではなく、その辺で買ったもの。
「……」
これの意味するところは何かと、薫はしばらく考えた。そしてためらうそぶりもなく、同じく下駄箱の上に置いてあった千鶴のスマホを取り上げた。バスワードロックがかかっているが千鶴の性格を考えればすぐに解ける。電話の履歴をチェックしたが、電話帳に登録していないのか電話番号だけで名前が分からなかった。
確か先ほど電話で話していた会話で、苗字だけはわかるが……あとは、明日会社で、と言っていたから職場の人間だろう。
「あいつならたぶん……」
薫はぐるっと部屋の中を見渡すと、こちゃこちゃと小物が置いていある棚へとつかつかと歩み寄る。紙類のあたりを長い指であさり始めた。慌てず堂々と。目当ての物はすぐに見つかった。今年の正月の年賀状だ。
これで名前と住所がわかる。薫は年賀状なんてめんどくさいもの、もう何年も前から出していないが、千鶴は毎年律儀に出すタイプなのだ。
「斎藤、斎藤っと……こいつか」
想像していたような年賀状ではなく、干支のイラストと謹賀新年がプリントされ、手書きで『今年もよろしく』と書かれたシンプルな年賀状。
薫は斎藤のフルネームを確認すると、それを元に戻した。
そして次は千鶴の鞄の中をあさる。
「名刺入れは〜……っとこれか」
千鶴の名刺を一枚抜き取った。
「それで、どういうのがいいかなって……―」
次の日、コピー機のある場所へ千鶴が行くと、話し声が聞こえた。
そこにいたのは斎藤と、千鶴も何度か話したことのある女子社員。違う部の沖田課長の部署の女性社員だ。
千鶴に気づくと、その女性社員は軽く会釈をし斎藤は驚いたように動きを止めた。昨日の今日でお互いに気まずい。
「あの……プリントアウトしたので……」
取りに来たのだと言うと、「ああ……」と斎藤がコピー機の方を見る。
「すまない。今俺が大量に打ち出しをしていて……あと少しで終わる」
「すいません〜うちの課長が資料をなくしちゃって、『斎藤君からもらってきてよ』って言われたんです」
女子社員も謝る。
千鶴はあいまいな笑顔を浮かべて、一歩下がって待った。
女子社員はあからさまに千鶴に背を向けて、斎藤を下からのぞき込むようにして先ほどの話の続きを再開した。
「斎藤課長、いつも素敵なネクタイをしてるから。どこで買ってるんですか?」
媚びを含んだその質問を、斎藤はあっさりとスルーした。
「プリントが終わったな」
そして分厚い打ち出しを取り上げると、千鶴を振り向く。
「すまなかった」
打ち出しをその女子社員に渡す。「これを総司に渡してくれ。ああ、それと、父親へのプレゼントなら俺が選ぶより娘が選んだ方が喜ぶだろう。いいと思ったものを買えばいい」
「え、でも……」
「そもそも俺は、父親がどんな好みなのかも知らんしな。娘の方がよくわかるだろう」
どうやら、女子社員は自分の父親のネクタイを選ぶのに一緒に買い物に行ってくれないかという古典的な手で、斎藤をプライベートに誘っていたらしい。斎藤がその誘いに乗らないのは、わかっていて乗っていないのか本当に父親の趣味が分からず力になれないと思っているのか……
斎藤の無表情は、そのどちらなのかはわからない。
千鶴はなおも食い下がっている女子社員と斎藤を見た。
正直心穏やかとはいいがたい。
私なんて、私なんて、斎藤さんからプロポーズされたんだから!
なんて言って二人の間に割って入りたい。だから斎藤さんに近寄らないで、と。
当然ながら彼女でもない自分にはそんな権利はない。……いや、あるのだろうか?
『俺は、いい夫になれると思う。他の女に目を向けてお前を悲しませるようなことは決してしないし、経済的に苦労させるようなこともない。だから信用してお前を……お前の人生を預けてもらえないだろうか』
昨夜の斎藤の言葉を思い出す。
確かに斎藤は、とてもいい旦那さんになると思う。もてるけれども、女性に軽くないし、誠実だし。仕事もできるし優しいし。
昨夜ほとんど寝ずに考えて出した結論が、こうして斎藤を目の前にするとゆらいでしまう。
「雪村」
斎藤が声をかけてきた。女子社員はなおも話したそうにしているが、斎藤はあっさり「これを総司に。もうなくすなと伝えておいてくれ」と言い、女性社員に背を向ける。
そこまできっぱり言われて、女性社員はしぶしぶコピー機のスペースから立ち去った。
女性社員の姿が見えなくなったのを確認して、斎藤は千鶴に向き直る。
「その……昨日のことだが」
「は、はい」
「返事は……」
昨日の件だ。千鶴は、昨夜さんざん考えたことをもう一度思い出す。そして、「あの…!」と意を決して顔をあげた。
「あの、斎藤さんは……もし、もしもですよ、もし……あの夜がなかったら、こういうことをしてましたか?」
あの夜というのは、当然斎藤のマンションに千鶴が泊り裸で目覚めたあの夜のことだということは、斎藤もすぐわかったようだ。だが。
「こういうことというのは……つまり結婚を申し込んだのか、という意味か?」
千鶴はうなずいた。
「結婚……とまではいかなくても、その……そういう対象として、っていうか、その恋愛対象として私を食事に誘ったりとかそういう風に見てましたか?」
千鶴は正直なところそんなにモテる方ではないし、面白い話題があるわけでもない。女性として魅力的な体や容姿をもっているわけでもない。はっきりいって、斎藤とはつりあわないのだ。
斎藤の方が千鶴について対象外にもかかわらずあのアクシデントのせいで義務感から結婚するのだとしたら……斎藤にも悪いし、千鶴もつらい。だって千鶴の方は斎藤のことを素敵だと思っているのだ。なのに一緒に暮らしている夫が、妻に全然興味がなかったら……とてもつらいと思う。
だから、確かめたかったのだ。斎藤にとって自分はどの程度の存在なのかを。
もともと異性として意識してくれたなら。
あの夜が単なるきっかけに過ぎないのなら。ううん、もしかしたら……
あの夜のことは覚えていないけど、千鶴は斎藤のことを男性として素敵だなと思っていたのだから、だからそういう展開になっても断らなかったのかもしれない。
斎藤ももしそうだったのなら、あの夜は起こるべくして起こった出来事だと言えないだろうか?
……自分に都合のいいように考えすぎかな、とは思うけど……
千鶴の質問に、斎藤はなぜか慌てて答えた。
「いや、そんなことはない。そんな風に見たことはない」
当然そうだろうとは思いつつ、もしかしたら、とは思っていた。もしかしたら……きっかけはあんなことだったけれど、お互いにそこから普通に、普通の恋人のようにつきあうことができるかも、なんて。
「そうですよね。……ありがとうございました」
聞いたのは千鶴だ。正直に答えてくれた斎藤は悪くない。
もともとそんな都合のいい展開なんてあるわけないのだ。
千鶴は、笑顔になっているだろうかと不安に思いながらにっこりとほほ笑んだ。
「返事は……返事は、必ず今日中にします。あの、仕事の後とか……」
ここで今断ると、涙がでてしまいそう。
斎藤は小さくうなずいた。
「わかった」
そしてほっとしたようにほほ笑むと「ありがとう」と言い、コピー機のスペースから立ち去った。
その笑顔に、千鶴の胸は意に反してドキンと高鳴る。
千鶴は胸を押さえた。
だんだんいろんなことが複雑になってきている気がする。
でも、答えはもう決まっている。
断ろう。
妊娠してたとしても、一人で育てよう。
斎藤さんには知らせて、場合によっては経済的な援助はもらうかもしれないけど……でも、何とも思われていないのに斎藤さんと一緒に暮らす方がつらい。
薫、なんていうかな……
仕事も辞めないといけないかもしれない。
でも、斎藤との子どもなら嬉しい。
がんばって育てよう。
千鶴は健気にもそう決心した。
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