【斎藤課長のオフィスラブ 11】





『斎藤課長もどうですか』
鈴鹿千にランチに誘われたが、断ってしまった。ランチメンバーにはいつものごとく千鶴もいたので一瞬心が揺れたが、異動前の引き継ぎ準備でそれどころではなかったのだ。

返事は……どうなのだろうか。

斎藤は、その時一瞬だけ目があった千鶴を思い出していた。
今日の仕事の後に、千鶴からたぶんプロポーズの返事があるはずだ。
YesなのかNoなのか。
それによって斎藤の人生は180度かわるのだ。NOの場合については正直考えたくない。斎藤が考える唯一の懸念点は、一昨日のような夜を実際すごしてしまったことだった。
あんな風に酒癖女癖が悪い男だと思われたままで、そのせいでプロポーズを断られるのは無念だ。実際、ナンパなどしたこともないし、付き合っていない女性と寝たこともないのだ。

先ほどコピー機のスペースで『恋愛対象として千鶴を見ていたか』と聞かれた時は、どきりとした。
後ろめたさのせいで少々慌ててしまったが、課長という役職である自分が、部下の女性をそういう目で見るような人間だと前々から思われていたのだろうか。
そりゃあ千鶴のことは、肌が白くてきれいだと思ったこともあるし、立っている姿もどことなく品があっていいと思ったし、今時珍しい黒髪も大きな黒目がちの瞳と相まって美しいと思うし、書類を見る時の伏せたまつ毛とか字を追う細い指先をうっとりと眺めていたこともあるけれど、そういったことは会社では一切匂わせていないつもりだったのだが。
クリスマスイブと正月に個人的にあったせいで、そんな風な雰囲気を感じ取られてしまったのだろうか。

斎藤は、新年度に行われた課長対象の『セクハラ研修』の講師の言葉を思い出す。
『女性と男性は違います。男性は、好きでもない女性から恋愛対象に見られても特になんとも思わないでしょう?逆に嬉しいと思う人も多いと思います。けれども!』
女性講師はここで語気を強めると、男ばかりの課長たちの顔をゆっくりと見渡した。
『女性は違います。恋愛対象でない男性から思いを寄せられたり性的な目で見られることを嫌がる人の方が多いんです。たとえば、あなた!』
女性講師はそういうと、斎藤を指した。
『女性は好きですか?』
なんのひっかけだろうかと、斎藤は用心しながら答えた。『好きというか……人並みだと……』
『ああ、すいません。恋愛の対象は男性ですか女性ですか、という意味です』
当然女性だ。
『そうですか。でしたら、もし、隣に座っている……』女性講師はそういうと、隣の総司を指さす。『この方が実は男性を恋愛対象としている方で、あなたのことを長年、恋愛対象や性的な対象としていいな、と思っていたとしたらどう思います?』
『……』
総司と斎藤は顔を見合わせた。
大学からの付き合いだ。温泉に一緒に入ったこともあるし雑魚寝で同じ部屋に寝たことなど数えきれないほどある。
その相手が実は自分を恋愛対象に……
『相手を殺したくなるかと』
斎藤の答えに、総司をはじめ他の男課長はみなうなずいた。それは激しく気持ち悪い。もう見られるのさえいやだ。
講師は満足げにうなずいた。
『そう、その感覚です!女性が、恋愛対象ではない男性から、性的な目や恋愛対象として見られる時の嫌悪感。覚えておいてくださいね。おまけにあなた方は役職的に女性より上、つまりそういうふるまいを受けた女性は自分の身を守るすべはないんです。そしてオフィスでのそう言ったふるまいは、同じフロアにいる人達はなんとなくわかるものです。モラルも下がりますし仕事へのモチベーションもさがります。おまけに女性からセクハラとして訴えられたら、今の時代は、あなた方は当然クビ、その上会社自体の存続も危なくなる可能性があるんです』
講師はそういうと、また課長たちを見渡す。
『みなさん男性ですし、見たところお若い方が多いです。当然ながら、女性社員をかわいいな、タイプだな、足がきれいだ、スタイルがいい……等など思ってしまうかと思います。それはしょうがないんです。ただ、それを本人や他の社員にけっして気取られないようにしてください。それぐらいの腹芸ができなければ、今後の出世も難しいですよ』
課長陣は、皆緊張した面持ちでうなずいた。


あぶなかった……
斎藤は書類をキングファイルにとじながら、安どのため息をついた。
もともとそんな目で見ていて、そのうえであんな一夜がおこったとしたのなら、本当に品性下劣なセクハラと思われてもしょうがない。
いや、あの夜の記憶がないのだからもしかしたらそういうふるまいをしたのかもしれないが……
本当にあれは最初でもちろん最後の、通常ならあり得ない出来事なのだが。斎藤はもう何度目かの後悔をしていた。ほんとうに、ほんとうに何という失敗をしでかしてしまったのか。
そのせいで千鶴との関係が断ち切られてしまうのだとしたら、後悔してもしたりない。
キングファイルを持って座ったまま、斎藤はため息をついた。

その時、卓上の電話が鳴った。
「はい」
『正面受付ですが、斎藤課長はいらっしゃいますか?』
「はい、私ですが」
『お客様がお見えです。南雲薫様とおっしゃる方が正面玄関でお待ちです』

わかったと言って電話を切った後、ジャケットを羽織り名刺入れを用意しながら斎藤は首を傾げた。
南雲薫?
聞いたことがない名前だ。斎藤はネクタイを整えながらエレベーターへと急いだ。



その男は、受付から少し離れたところで全面ガラス張りの正面壁から外の歩道を眺めていた。
春の爽やかな日で、日差しがきらきらとまぶしく、照らされた歩道の木々のわかばが柔らかく美しい。
受付のあるエントランスにはその男しかいないので、彼が『南雲薫』なのだろう。だが、彼は……なんというか、仕事関係という感じではなかった。
まず私服だ。
細身の深い赤色のズボンに白のポロシャツ。
おしゃれな大学生のようないでたちで体つきも若い。斎藤に気づいてこちらを見た顔を見て、社会人だとわかったが、見覚えはなかった。
「……斎藤です」
「南雲です。はじめまして」
名刺を出す様子がなかったので、斎藤も特に名刺入れは出さなかった。
いったい誰だろうか?何の関係で?初めましてというからには面識はないのだろうが。
斎藤が心の中で首をかしげていると、その男―南雲薫は、すっと手を差し出した。
人差し指一本でヒモの部分をぶら下げて、斎藤の目線間で持ち上げたそれは、昨夜千鶴に渡した、アルマーニの小さな袋だった。
「……それは……」
「見覚えある?」
南雲薫というその男は、斎藤がうなずくのを確認してからつづけた。「じゃー俺が呼び出した相手は正解か。斎藤ってよくある名前だからさ」
そういうと、まじまじと斎藤を足の先から頭のてっぺんまで眺めた。
「ふーん……、まあ、趣味はいい……かな。見た目はね」
品定めされているような視線に、斎藤は眉根を寄せた。
「……なぜその袋を?」
その質問を待っていたという風に彼はうなずいた。
「俺は千鶴の双子兄なんだ。苗字は違うけどね」
薫というその男は、一言一言言いながら、その反応を見逃さないように慎重に斎藤の表情をうかがっている。
「で、昨夜は千鶴の家に泊まってたんだけど、千鶴が一旦出かけてその後おかしな様子で帰ってきた。持って返ったものを見てみたら……」
薫は肩をすくめて、その後は意味深な流し目で斎藤を見る。

「ま、中に何が入ったかは自分がよく知ってるだろ?」
「……」

「で、兄として、千鶴の唯一の肉親として説明してもらいに来たってわけだ」
薫の瞳が挑むように光った。
「説明……」
何を話していいのか。だいたい兄が斎藤に会いにきていることは千鶴は知っているのか。
斎藤がぐるぐると頭の中で考えていると、後ろから声をかけられた。

「斎藤?こんなところで何やってんだ」
「おお、斎藤君か」
社長の近藤と副社長の土方だ。
「こちらは?お客様かな?初めまして」
会社の客かと、近藤がにこやかにあいさつをする。ここは斎藤が紹介をしなくてはいけないところではある。

「南雲薫……さん、わが社の社長の近藤と副社長の土方です。近藤さん、土方さん、こちらは……こちらは、わが社の社員である雪村くんのご父兄……お兄さんだそうです。南雲薫さんです」

「おお!雪村君の!それはそれはいつも妹さんには仕事をとてもがんばってもらって、本当に感謝しとるんです。大変優秀で、いろいろと経験してもらって将来的にはわが社を支える人材になってもらえると確信しております。……ところで、今日はどういったご用件で?」
土方も不思議そうに薫と斎藤を見た。
「お前、雪村の直属の上長……じゃあないよな。なんでおまえが?」

まずい展開だな……と斎藤が思った瞬間、案の定薫が楽しそうに口を開いた。
「こちらの……斎藤さんが、昨夜うちの妹を呼び出しましてね。いろいろ話を聞くとどうやらうちの妹はもてあそばれたらしいんで。そこで兄としては文句を付けにきたわけです」

「……」
シーンとエントランスは沈黙に包まれた。
近藤はもちろん、土方、斎藤、受付嬢までが固まる。唯一固まっていないのは薫だけだ。
斎藤は一瞬にしてどっと噴き出した冷や汗を意識しながら、必死になって口を開いた。
「な、何を……もてあそんでなど、もてあそんでなど……」
薫は、千鶴とどことなく似ている大きな黒目勝ちの目で斎藤をにらんだ。
「そうかな?じゃあ、千鶴の下着をやり取りするような仲にもかかわらず、それをわざわざ家の外で千鶴に返した理由は?」
「し、下着!?」
土方が驚いた声を上げる。
「いや、これは……ほんとうなのか?斎藤君」
近藤も戸惑ったように斎藤を見た。
斎藤はといえば、混乱のせいもあるが薫の質問の意図がわからない。
「か、返した理由?なぜそのような……あれは、彼女が俺の家に忘れて行ったものなので持ち主に返したにすぎん」
薫は舌打ちをした。
「下着を忘れるような仲なんだろ?普通につきあってんなら次に千鶴がおまえのうちに行った時に千鶴が持ち帰れば済む話だ。にもかかわらずその下着はあんたんちには置いておけなくてわざわざ呼び出して返す……つまり」
「つまり?」
話しの行く先が、やはりわからないままの斎藤は聞き返す。

「つまり、あんたんちには、他の女のブラが見つかったら困るような本命の奥さんか婚約者が彼女が出入りしてるとしか考えられないんだけど?」

な、なるほど……!!
斎藤は薫の解釈に驚いた。確かにそういう風に見えなくもない。
近藤が斎藤を見る。
「斎藤君は独身だったよな?決まった彼女はいるのか?」
斎藤は首を横にふった。
「いません」
これで自分の身の潔白は証明できるだろうと、斎藤は急いで否定した。事実、彼女も婚約者も妻もいないのだ。『もてあそばれた』などという薫の心配は杞憂におわる……と思ったのだが、薫はあざけるような笑顔で、斎藤を見た。目が怒っている。
「なるほど、じゃあ、コンパとかナンパとかで毎回持ち帰りしてるわけ?」
「いや!そんなことは……」
薫が声を荒げた。
「じゃあ、千鶴との関係は何なんだよ?適当に遊んでオワリとか、あいつはそういうタイプじゃないのはわかってる?」

「もちろんだ!だから結婚を申し込んだ」

え!!?

という音にならない声が、再びエントランスに満ちた。
近藤、土方、薫、受付嬢が、目を剥いて斎藤を見る。
一番最初に我にかえったのは土方だった。
「け、結婚ってお前……」

「あら?斎藤さんに土方副社長、それに近藤さんも。正面玄関でどうしたんですか?」
またもや後ろから、今度は軽やかな声がかかった。

こ、この声は……

斎藤の額に再び汗が吹き出す。
いっそこのままここから走って逃げたいが、そういうわけにもいかない。
声の主は鈴鹿千。
当然ながら他に数人。千鶴もいる。

「え?か、薫!?」
千鶴が驚いてそう言うのには構わず、薫は斎藤に一歩近づいた。

「結婚を申し込んだ……本当か?」

ま、まずい。ここで、千鶴の前でそれを言うのは……
斎藤が返事に詰まっていると、薫がもう一歩近づき声を荒げる。
「嘘か!?」

「本当だ!」

鈴鹿千たちが、『え?結婚?誰と誰が?』『斎藤課長が?』と囁き合っているのが背中から聞こえる。
千鶴の反応が恐ろしすぎて、斎藤は振り返れなかった。が、薫には説明をする必要がある。
「……本当だ。昨夜、雪村に結婚を申し込んだ。返事は今日もらうことになっている」

「え、えええええええええ!!!!?」

皆の驚きの声が響き渡る。
唯一驚きの声をあげていないのは、斎藤と千鶴、そして薫だけだった。 





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※斎藤課長のオフィスラブは次回で一旦最終回です。
 長らくお付き合いいただいてありがとうございました〜!