【斎藤課長のオフィスラブ 4】
見、見られてる……
千鶴はひしひしと視線を感じながら、あえて無視をする。
隣の席の千に話しかけられて、必要以上に身を乗り出して千のパソコンの画面を覗き込んだ。
早朝、別れてからまだ五時間ほど。
シーツから出て顔を合わせた時の斎藤の驚いた表情を、千鶴ははっきりと覚えている。
「……」
そろーっと気づかれないように斎藤の席の方を横目で見ると、ちょうどやってきた土方に答えて立ち上がったところだった。
斎藤はそのまま土方と何事かを話すと、うなずいてファイルキャビネットの方へ移動し上の方に置いてあるキングファイルを取り出す。
ジャケットを脱いでいるせいで、Yシャツ越しに斎藤の背中の筋肉や腰のラインが見える。
千鶴は赤くなって目を伏せた。
あ、朝の……朝の裸を思い出しちゃう!!!
寝起きでぼーっとはしていたし、ベッドの上にあった羽毛布団や枕のおかげで、きわどかったけれどもかなりのところまで見てしまったのだ。男性との経験がない千鶴にしては、衝撃であった。
……あ、でも……ちゃんと見た、のかもしれないよね……
千鶴はさらに真っ赤になった。
何にも覚えていないが、当然見たんじゃないかと思う。ああいうことになったら、そりゃあ見えるんじゃないだろうか。だって斎藤の背中にあった傷は、たぶん千鶴がつけたのだ。と、いうことは、見るどころじゃないことまで……
そこまで考えて千鶴はガタッと椅子の音を大きく立てて立ち上がった。
これ以上考えちゃ、だめ!!!
そして急いでプリンターへと向かう。
プリンターはオフィスの少し離れた隅っこにあり人はあまり来ない。周りにはプリンター用紙や交換用のトナーが積まれていて隔離されている感じなのだ。当然会話も聞こえない。しかし、プリントアウトのタイミングが他の人と重なるときは当然あるので、プリントアウトを待ちながら会話をしている人はよくいる。
千鶴がプリンターの前でプリントアウトを待っている間に、斎藤もプリントアウトで傍に来る可能性があり……というか絶対来ると千鶴は踏んでいた。
だから行けなかったのだ。まだどう返事をすればいいのか考えがまとまっていないし、朝の記憶が生生しすぎて斎藤の顔がろくに見られない。
今なら土方と話し込んでいるから大丈夫。
ガーッと音を立てて打ち出されてくる紙を、千鶴はぼーっと見ていた。
話し……しなくちゃだめだよね……
昨日、自分が何を言ったのか、何をしたのかは覚えていないが、斎藤は覚えているだろう。
これから同じフロアで、同じ部で仕事をしないといけないのだから、何か……何か、昨夜について話さないといけないだろうとは思うが、何を話せばいいのかわからない。
とりあえず、一晩ゆっくり考えたい。うん、まだ朝起きてびっくりしてそのまま会社に来てるから……会社が終わって、ゆっくり夕ご飯を食べて、きちんとお風呂に入って……
今朝はバタバタと急いでシャワーを浴びただけだったので、じっくりと自分の体を観察できていないのだ。
どこかに何か……キスマークとかあったらどうしよう!
千鶴は真っ赤になって手で顔を覆った。
あの斎藤課長が!
あの、いつもクールで優しいけどビジネスライクな斎藤課長が!!私の体にキスマークをつけるとしたらどんな風だったんだろう。当然、服を脱いで抱きしめられてたんだよね、あの唇が私の肌に……!!
千鶴は思わずオフィスの床を転げまわりそうになった。
ああ、なんで覚えていないんだろう!
昨夜は皆が二次会の飲み屋に移動して、斎藤さんが最後にみんなに忘れ物がないかチェックして遅れちゃってたんだよね。
誰に頼まれたわけでもないし、昨夜の祝賀会では斎藤は主役だというのに、自らそう言った地味な仕事をやる斎藤。
そんなところも千鶴は素敵だなと思っていた。
私はトイレに行ってて遅くなって……
出てみたら皆はもう移動済み。祝賀会場の入り口のあたりで、斎藤と土方が二人だけで話していた。
『どうしたんですか?』
何かもめているようなので千鶴が話しかけると、土方が千鶴を見た。
『ああ、雪村か。お前はもう二次会に行っていいぞ』
『土方さんと斎藤さんは……』
土方は斎藤を親指で指さした。
『そうとう酔っぱらっちまってる』
千鶴は斎藤を見てみるが、顔色も態度も全く普通だ。『そうですか?』
『そうなんだよ。見た目普通だがこいつとは長い付き合いだ。もうそろそろやばい。家に送って行こうと思うんだが、二次会の店を紹介したのは俺なんだよな。左之の店だから俺が行かねえといろいろまずくてだな……』
斎藤が答えた。
『俺は二次会に行っても大丈夫ですが、土方さんがそうおっしゃるのならここで家に帰ります。一人で帰れるから大丈夫です』
土方は首を横に振る。
『信じられねえ。よし、じゃあタクシーよんで斎藤を送り届けてから二次会の店に行くか。面倒だが……』
『あ、あの私、斎藤さんを送っていきましょうか?おうち、知ってますし……』
ここから目と鼻の先だ。斎藤も見た感じかなりしっかりしているし、千鶴一人でも大丈夫だろう。
土方は少し迷ったようだが、OKした。
だが、大丈夫ではなかったのだ。
斎藤のマンションまでの5分もかからない間に、斎藤はまだ飲み足りないから一人で飲んでくる、大丈夫だから千鶴は帰っていいと真顔で言ってきた。
『だ、だめですよ。ちゃんと斎藤さんのおうちに帰りましょう?』
『いや、おれは本当に大丈夫だ。迷惑をかけてすまなかったな』
そう言って、じゃっと軽く片手をあげて去ろうとする斎藤を、千鶴は必死で引きとめた。
足元もしっかりしてるし、言葉もはっきりしてる。でも言ってる内容が……
『さ、斎藤さん……えっと、飲み足りないなら、じゃあ、おうちで飲むのはどうですか?』
そしてなぜか千鶴も付き合うことになり、斎藤秘蔵のワインを開けてもらい……そのあとは覚えていない。
あの後、頭が痛くなるくらい考えたのだが、全くおぼていないのだ。真っ暗。暗転。
そしてあの朝……
複雑な思いでもやもやしながら自席に戻ると、千と、若手男性社員が話していた。
今やっているドラマの話しらしい。
「どうして?もともと好意を持ってた女子とそういう関係になれたら、男は嬉しいでしょ」
「そりゃー嬉しいちゃ嬉しいですけど……彼女とかは嫌ですよ、そういうの」
「えー?なんで?」
「だって、誰とでもそういう風になる軽い子なのかなって思うじゃないですか」
千は憤慨したように腕を組む。
「何、自分は楽しむことは楽しむけど、他の男も楽しむのは嫌ってこと?」
男性社員は困ったように頭を掻いた。
「うーん……そういうのでもいいっていう男もいると思いますけど、普通の男は、簡単に体を許されたらちょっとひくと思いますよ。だって自分の彼女になった後も、他の男にちょっと優しくされたらそういう関係になっちゃうのかなって思うじゃないですか」
「そんなこと言えた義理?あのドラマであの男の主人公だってやることやってるじゃない!やることやっといて軽蔑するって勝手すぎない?」
「まあそうですけど。でもほとんどの男の本音だと思います。簡単にやらせてくれる軽い子はそういう扱いを今後もするし、彼女にはもう少し固い子を選ぶってかんじですかね」
勝手〜!!と千はプンプンして「ねっ?千鶴ちゃん」と千鶴に意見を求めてきた。
「俺はそんなことしないですよ〜」
と泣き顔の男性社員に、千鶴はこわばった笑顔でうなずく。
相手の男性の……斎藤の気持ちまでは考えもしなかった。自分がどうしようどうしようばかりで。
そうか、男性はそういう風に考えるのか……
相手を軽蔑……
それも当然だ。
だって千鶴だって、自己嫌悪で落ち込んでいるのだ。そういうことを自分がしたなんてと驚きと後悔と自己嫌悪。
当然相手だって、嫌悪とまではいかないかもしれないけれど、酔いに任せてそういうことをする子だったんだと思うだろう。千鶴は初めてだったけど、昨日斎藤がそれに気づいたかどうかも覚えていない。
「あの、ちょっと……お菓子買ってくるね」
会社のあるビルの1階に入っているコンビニに行くふりをして、千鶴は席を立った。
動揺しすぎて千たちに話しかけられても笑顔になれない。こわばった顔で、変に思われてしまう。
どこかで一人になって心を落ち着けないと。
ふらふらと部屋を出ていく千鶴に、土方との話が終わった斎藤が気づいたことは、当然千鶴は知らなかった。
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