【斎藤課長のオフィスラブ 3】
ごそごそと聞こえる衣擦れの音に、どうしても千鶴が着替えているところを想像しまって斎藤は奥歯をかみしめた。
この状況でいろいろ……そういうことになると、いろいろまずいのだ。たいそう。
斎藤も着替えたいが、彼女が着替えている最中に動くのもアレだし、終わったら……と思っていたら。
「あの、斎藤さん。会社の前に一度家に帰りたいんで、私はこれで失礼しますっ」
そう言いうなりバタバタッという足音が聞こえた。
「ゆ、雪村……!」
振り向こうとしたが、まだ『後ろを向いていてくれ』は千鶴からは解除されていないことを思い出して、斎藤は動けない。
「雪村!ちょっと…ちょっと待ってくれ、話を……」
言ってる間に、ガチャっという玄関のドアを開ける音がして、カツカツカツと走っていくヒールの音がかすかに聞こえて、斎藤はため息をついた。
実際先ほど言った『待ってくれ』も、本気ではない。
いや、本気ではあったが心の片隅では、顔を合わせてこの状態について話し合う心構えができていたとは言い難い。彼女が逃げてくれて助かったと思っている自分が少しあるのは否定できないのだ。
「いったいぜんたい……」
そう、まずはそれだ。
いったい何があったのかなかったのか。
……こうやって二人とも裸で同じベッドに寝ていたということは、まあ……なかったということは考えにくいが……
とりあえずはシャワーを浴びて頭をすっきりさせよう。
何か思い出すかもしれん。
斎藤はバスルームへ向かう。バスタオルや洗面所の髭剃りは、昨日の朝斎藤が使ったままの状態だ。
一緒に風呂に入ったりは……しなかったらしいな……
自分だったら入りたいと思ったと思うのだが。とふと考え、斎藤は慌てて顔を横に振った。
なっなにを……!俺は何を…!だいたい彼女は自分の直属ではないが部下であり、職場での頼りになる同僚でもあり、こんな不謹慎なことを考えるようなことはいかん!
ジャーッと冷たいシャワーを頭から浴びて、斎藤は少しだけすっきりした。
温度をあたたかくして頭と体を洗う。洗いながらも、またもや思考はさまよいだした。
雪村は……シャワーを浴びたくはなかったのだろうか。浴びたいと言ったが俺がかまわず……その、かまわずしてしまったのだろうか。
普通だったら、女性はシャワーを浴びたいし男にも浴びてほしいと思うのではないか?こうやってバスルームも洗面所も使っていないことを考えれば、俺は昨夜は強引に……その、強引に……合意もなく……
だんだん青ざめてくる。
斎藤はシャワーを止めると、体を拭き洗面所にある新しいTシャツとスウェットをはいて斎藤はぼんやりとタオルで頭を拭きながらリビングへと向かった。
ソファの前のローテーブルの上に、水割り用のグラスが一つとワイングラスが一つ。キッチンのカウンターには斎藤のお気に入りの焼酎と新しく開けたらしいワイン。
「ソファで……飲んだのか?あの後……」
そうだ、祝賀会で飲んで途中から記憶がない。が、目の前の状態と目が覚めた時の状態を見る限り、千鶴と二人でここでそのあとに飲んだのだろう。どうしてそういう展開になったのか、考えてもさっっぱり思い出せないが。
何か手がかりはないかとぐるりとローテーブルの周りをまわってみると、窓側のソファの下に何か落ちているのを見つけた。
「……なんだ?」
かがんで拾い上げる。
「……」
ブラジャーだった。
白にピンクのレースで縁取りがしてある。斎藤はそのまま窓の外を見た。
マンションの表側は大通りに面してにぎやかだが、裏側は川に面していて川沿いに咲いている桜がきれいに見える。この景色をそういえば誰かと……千鶴のような女性と見れたらと、ちらっと思ったことがある。
自分は多分それを実行して、そしてそこからどうなったかは覚えていないが、千鶴を口説くなりなんなりして、ここで……そのブラを取るような行為をしたのだろう。
はあ……
斎藤はガックリと肩を落とし、大きなため息をついてソファに座り込んだ。
背もたれに頭を預けて、まず思ったことは、自分はなんというおしいことをしたのかと。
本当に勝手で申し訳ないと思うが、まずそれだった。
あの千鶴を……こんな最高のシチュエーションでいろいろした(たぶん)というのに、まっっっったく何も覚えていない。
いや、やってしまったことは多分斎藤の人生で一番最悪なことだ。
固定的な関係でもない女性、しかも会社の部下で信頼関係を築いていた若い女性に課長という立場で、酔った勢いでこんなことをしてしまったのは、本当にまずかった。
だが!
だが、一人の男として千鶴はかなり……好みのタイプでかわいくて………どうせそういうことになったのならなぜ覚えていないのか。なんというもったいないことをしてしまったのか。やってしまった罪はかわらないのなら、せめて覚えていれば……!!!
この手の中の千鶴のかわいらしいブラジャーが、その悔しさを倍増させる。できるものならもう一度やり直したいと思うのは、たとえ斎藤だとはいえ男なら当然だろう。
ピピピピピッ
電子音が部屋に鳴り響いて、斎藤はハッと顔をあげた。
会社に行くための目覚ましだ。
サラリーマンにはこんな日も休むことは許されない。
……雪村は来るだろうか。
多分来るだろう。今日は新年度で発令があった者の人事異動の日だし、社長からの今年度の業績についての話がある。
「……話さなくてはな」
千鶴と。
どれだけ気まずかろうと、自分の愚かさを見せつけられようと、やはり男としてきちんと話さなくてはいけないだろう。
斎藤は自分に言い聞かせるようにそう言って、立ち上がった。
そしてふと、手に持っているブラに気づく。
これは……これはどうすればいいのか。当然返さなくてはいけないが……
会社に持っていくか?
中が見えないような紙袋にいれてこっそり返せば……かなり気まずいが返せなくはないだろう。しかし……しかし、もし通勤途中に交通事故にあったらどうなる?
当然身元を調べるために鞄の中を開けられるだろう。だが、財布などだけで紙袋の中までは見ないか……
そう思って少しだけほっとしたがすぐに思い直す。
いや!いやいやいや、意識を失った程度ならそれでいいが、死んだらどうなる?当然持ち物はすべて開封される。俺の場合は多分親に渡されるだろう。28歳の通勤途中の息子が、鞄の中に女性のブラジャーを入れていたと知れたら……
「それはまずいな」
やはり会社に持っていくのはやめた方がいい。だが、もし家に置いていたとしても交通事故で自分が死ねば同じことだ。なぜ28歳独身男性の自宅にブラがあるのかということになってしまう。盗んだのか、なんなのか。とにかく品性下劣な変態になってしまうではないか。
「自分の下着入れに入れておけば……」
どうだろうか。
斎藤は腕組をして考えた。
斎藤のパンツなどが入っているフィッツケースの中に入れておけば、とりあえず盗んだものではないと思ってもらえるのではないか。だが、そうなると、今度は斎藤の趣味が疑われることになる。女装は別に犯罪ではない。ないけれども……実の親にとって受け入れがたいショッキングなことには変わりないだろう。
「いっそ燃やすか」
そうすればこのやっかいなものはこの世に存在しなかったことになるが、しかしそれはさすがに千鶴に悪い。
なら、燃やして、これを買うのにかかったお金を弁償したらどうだろうか。斎藤はブラジャーというものがいくらぐらいするものなのかパソコンで検索しようと一歩踏み出し、そして我にかえった。
忘れていったブラを燃やしてしまったので弁償する、というのは、言われた千鶴にしてみれば斎藤はとても奇妙な人になるだろう。
はあ……
斎藤は今朝目覚めてから何度目かのため息をついた。
「少し……少し冷静にならなくては」
自分は動揺しているのか。誰かに相談した方がいいか。
パッと総司の顔が浮かんだが、ことが千鶴にもかかわってくることだ。同じ社内の総司に相談するのは千鶴にとっても失礼だ。
はあ……
斎藤はとりあえずブラをソファに置き、しばらく考えた後、目に入らないようにその上にクッションをきっちりと置いた。
後で考えよう。
斎藤はクローゼットをあけると、Yシャツを羽織った。
BACK NEXT