【三番組組長道中記 9】




「きゃあ!」

ふわりと風に揺られて、枝に掛けていた千鶴の着物が舞い上がった。
「あっ……ああ!」
思わずあたたかい温泉の中から立ち上がり風に飛ばされた着物を追いかけようとして自分が裸なことに気づく。さすがにこのまま飛び出せないけど、でもこのままでいたら着るものが谷底に飛ばされてしまう。幸い今はまだ着物は細い枝にわずかに引っかかっていてなんとか取れそうだし、このまま……
千鶴はそう考えて背に腹は代えられないと素っ裸で温泉から出た。

教えてもらった、さらに山奥にある小さな温泉。洞窟のようになっているところに温泉があり、温度も適温でこれはいいところを教えてもらったと、まず斎藤が先に入り、今は千鶴が入っているところだ。
言われた通り誰もいないし、唯一ここに通じている細い道には斎藤がいる。千鶴は安心して着物を脱いだのだが、下や岩肌はあふれ出たお湯や岩から染み出ている岩清水でぬれていて脱いだ着物を置くところがなかった。そこで手ごろな木の枝に着物をひっかけさっそく温泉につかったのだが。

風に飛ばされそうになっている着物に手を伸ばしたとき、斎藤の声がした。
「どうした?何かあったのか」
同時に草を踏み分ける音。
「……」
千鶴は声が出ないまま固まった。来なくても大丈夫です。特に何もないです。
そういいたいのに突然のことで頭がパニックになり声が出ない。
「千鶴?」
不審に思ったらしい斎藤の声が、さらに近くに聞こえてきてガサリと目の前に茂っていた木の枝がよけられる。
どうしようどうしよう!と焦っている間に、千鶴は枝に手を伸ばした状態で、出てきた斎藤と至近距離でばっちり目が合った。

「きゃああああ!!!」

千鶴は、自分でも驚くような速さで木に引っ掛かっている着物をとり、それを抱え込むようにしてしゃがむ。
斎藤はというと、驚きのあまり石化していた。
しかし数秒後にハッと我に返り、慌てて背を向けた。
「すっすすすすすまぬ!こっここからなら、その、湯につかっているところまでは見えぬゆえ大丈夫かと思いのっのぞいてしまったが、誓って言うが、お前がそこにいるとは思ってはいなくてだな、まっまさかそのはっはははははだかだとはゆめ思わず、まことに相すまぬことをしてしまって本当になんと謝ればいいのか……!だ、だが!本当にやましい気持ちなど……」
「……あの、あの、大丈夫です、着物が風に飛ばされてしまって、その……急に強い風が吹いて……」
自分よりも動揺している斎藤を見ているうちに、千鶴は真っ赤になってうずくまりながらも少し落ち着いてきた。
そういえば木の陰から見える斎藤の肩はしっとり濡れているようだし、木々にも小さな雨粒がついている。風も強くなっているし、天気がくずれてきているのかもしれない。
「そ、そうか。着物が風に……そうか……その、気づかずすまなかった」
斎藤の言葉に、千鶴は笑ってしまった。風に着物が飛ばされたのは斎藤のせいではないのに。
「あの、すいませんでした。私は大丈夫です。雨が降ってきたみたいですね。すぐに上がります。お待たせしてすいませんでした」
「あ、ああ……いや、まだ小雨程度だ。ゆっくりはいってくるといい」
千鶴が斎藤を見上げると、背中を向けたままの斎藤は耳まで真っ赤だ。
裸を見られた……とは思うし恥ずかしいけど、斎藤の慌てぶりに千鶴はほっとするようなほのぼのするような気持ちになった。きっと斎藤のことだから、千鶴の叫び声を聞いて本当に心配になってきてくれたのに違いない。
斎藤も言っていた通り、千鶴が普通に温泉につかっていたとしたら、この場所からは岩の陰になっていて千鶴は見えなかったはずだ。
「ありがとうございます。じゃあちょっとだけあったまって、すぐに出ますね」
「う、うむ」
そのままぎこちなく振り向かずに去っていった斎藤の背中を見て、千鶴はいそいでもう一度温泉へと戻った。


「はくしょん!」
帰り道、千鶴がくしゃみをすると斎藤が心配そうにのぞき込んできた。
「寒いか?」
そして空を見上げる。
「本降りになってきたな。急げるか?」
「はい……くしゅん!」
斎藤は自分の首に巻いている白い布をとると、千鶴の頭をくるむようにして巻いた。「少しはましだろう」
「でも、斎藤さんが寒くなっちゃいます。私が温泉に入っている間雨の中待っていてくださったんでしょう?私、雨が降ってきたことに気が付かなくて……すいませんでした」
「あそこは洞窟のようになっているからな。雨には気づきにくいだろう。それに俺も木の下にいたからそれほど濡れていない。大丈夫だ」
自分のことよりも相手のことを……そういえば屯所でもそうだったなと千鶴は巻かれた白い布を見て思い出した。
新八や総司、平助らが頼んでくる洗濯や繕い物で千鶴が手いっぱいになっていると、斎藤がいつの間にか手伝ってくれていた。斎藤のものも一緒に洗いますよと言っても、斎藤はたいてい自分であらってしまっていて、千鶴は斎藤のこの白い首に巻いている布も洗ったことがない。
微笑んでいる千鶴に気づいて、斎藤が聞いた。
「どうしたのだ?」
「屯所のことを思い出していたんです。みなさんどうしてるかなーって」
巡察して鍛錬して、土方は他の組織と交渉したり……ケガなんてしていないといいけれど。千鶴がそういうと、斎藤の瞳がふっと和らいだ。
「そうだな。お前にしてみればこれから行くところは初めてなのだし、屯所の方が懐かしいのかもしれんな。だが、もう忘れた方がいい」
最後の言葉に、千鶴は「え?」と斎藤を見上げる。斎藤は特に何でもないようにさらりとつづけた。
「ここまで旅をしてきてわかっただろう?あの屯所での日々は一般の生活に比べるとかなり特殊だ。斬ったり斬られたりなどと、普通の町方の人間には遠い世界の話なのが普通だ。情勢が不安定で大きな戦があるかもしれないが、町が丸ごと焼かれるようなことがない限り、武士でもない者たちの生活はそうそう危険なことにはならないだろう。特に、お前が今から行くような京から遠くはなれた国ではなおさらだ。あんな日々は忘れて、のんびりと暮らすのがいい」
「……忘れる……」
「そうだ。幸せになるといい」
やさししい斎藤の言葉だったが、千鶴には冷たく響いた。まるでもう仲間ではないのだというように。
実際もともと仲間などではないのだが。命を懸けて日々過ごしている皆と自分が同列などとは思っていなかったけれど。でも、同じことに喜び同じことに悲しんで来たと思っていた。それを拒絶されたようで千鶴は傷ついていた。
だが、斎藤は完全に善意で「忘れる」ようにと言ってくれていたことはわかるので、千鶴はそれ以上何も言えずにうつむくしかない。
ふっと顔をうずめた斎藤の白い布から懐かしいにおいがしたような気がした。


「千鶴?どうかしたのか?」
夜部屋で、どうもふさぎがちな千鶴を見て斎藤はそう聞いた。
「いいえ、大丈夫です。なんでもないです。……明日には川を渡れるでしょうか」
蒲団を敷いて、二人の間に目隠しの代わりの洗濯した着物を広げて掛けながら斎藤は首を傾げた。
「難しいだろうな、今日もまた少しだが雨が降ったし……はっくしょん!」
続いてくしゃみをした斎藤に、千鶴は心配そうに声かけた。
「斎藤さん……大丈夫ですか?夕飯の時も調子が悪そうでしたし風邪をひいちゃったんじゃ……」
「少し寒気がするが、……まあ一晩ぐっすり眠れば大丈夫だろう」
斎藤がそう答えると、千鶴は心配そうな顔でうなずいた。
「はい。よく眠ってくださいね」


……一晩ぐっすり、……か……

部屋の行燈を消したあと、斎藤は千鶴とのしきり代わりの彼女と自分の着物を見た。
壁と壁の間に紐を渡しててそこに着物をかけ、寝乱れた姿の目隠しとしているのだが。
斎藤は心の中でため息をつき、眠れるように祈って瞳を閉じた。


その夜斎藤が見た夢は妙に熱かった。
こんなに熱いのに、斎藤は夢の中で温泉に入っている。と、千鶴が入ってきた。もちろん裸だ。
夢の中の斎藤は驚いて先に出ようとするのだが、千鶴は恥ずかしそうにしながらも斎藤にそのまま入っていてくれるように言う。
『い、いやしかし、おれももうかなり熱い。先に……』
斎藤が視線を泳がせながらそういうと、あろうことか千鶴はすっと隣に寄り添ってくるではないか。もちろん裸だ。
『熱いですか……?』
そういってするりと斎藤の腕に自分の手を絡ませる。『どれだけ熱いか、触ってみてもいいですか?』
『さっ触る!?触るとは!?なっお前は何を……何を……』
あわあわしている斎藤に、千鶴はさらに体を寄せた。しつこいようだがもちろん裸だ。
『本当。斎藤さん、とっても熱いです。私はどうですか?熱いですか?冷たいですか?』
千鶴はそういって妙にうるんだ瞳で斎藤を見上げてきた。
『ち、千鶴……』
斎藤は手をどこにやればいいかわからず空中でうろうろとさせた。
『抱いてみてもらえないですか?冷たいか熱いか教えてください』
『つ、冷たいか熱いか……』
まるでオウムのように千鶴の言葉を繰り返すことしかできない。千鶴はそんな斎藤をやさしく、誘うように見上げる。
『そうです。ほら、斎藤さんの手を私の体に回して、抱いてみてください』
『こ、こうだろうか』
『そうです。ああ、斎藤さん本当に熱いです。とけちゃいそう……私はどうですか?熱いですか?冷たいですか?』
『う、うむ…そうだな……』

「冷たいな。ひんやりしていてやわらかくて気持ちが……」
そこまで言いかけて、斎藤は自分の声で目が覚めた。
あたりは真っ暗で空気はひんやりしている。
静かな宿の部屋。
自分の蒲団。
腕の中には千鶴。

「!!」

斎藤は自分が抱きかかえているひんやりしてやわらかくて気持ちのいいものが千鶴だと気づくと、バッと布団ごと後ずさった。その拍子に刀掛けが音を立てて倒れる。
「ち、千鶴……」
どこからが夢でどこからが現実かはわからないが、千鶴に促されて自分は千鶴の体に手を回した記憶が確かにある。細い肩と腰を抱き寄せ柔らかさを味わい、首筋に顔をうずめた記憶が……
激しく動揺している斎藤とは裏腹に、宿の中は静かで千鶴もすうすうと気持ちのよさそうな寝息を立てて眠っていた。
「……」
斎藤は大きくため息をつく。
安堵の溜息だ。夢とはいえ……夢とはいえかなり…その、自分の立場としてはあってはならないことをしてしまった気がする。しかし、それは正直なところ胸の奥の奥で欲していたことだと薄々わかっているので、さらに気まずい。
千鶴は眠りこけており気づかれずに済んでよかった。
斎藤はもう一度大きくため息とつくと、自分の手を眺めてそして千鶴を見た。
千鶴は境界線である目隠しの着物の下を寝ながら越えてきていた。
昨日もそうだったのだ。
昨日はすぐに気配に気づき、起こさないように気を付けながら千鶴をもう一度着物の向こうに寝かせた。それが夜中に三回。寝乱れて前がはだけているのを見ないようにしながら、自制心を最大限に発揮させながらの夜の孤独な修行だった。
ろくに寝られないままの昨夜に続いて今夜。
頭も痛いしぞくぞくと寒気もするし、目の前の悩ましい千鶴の寝姿を見ていると自制心なぞどうでもよくなってくる。
斎藤はもう一度ため息をついた。
「千鶴がこんなに寝相が悪いとは……」
斎藤はあきらめたように首の裏をかいた。
今夜は彼女に触れない方がいい気がする。斎藤は千鶴のむき出しのきれいな白い足や、深くはだけた襟元を見ないようにしながら彼女に布団をかけた。
そして立ち上がると窓際に行ってそこに座り庭を見る。視界にも入れない方が心の平穏にいい。
明日には完全に風邪をひいてしまっているかもしれないが、それでもここで千鶴を抱きしめてしまうよりはいいだろう。
斎藤は、もう何度目か数えきれないくらいの溜息をついた。








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