【三番組組長道中記 10】




「風邪ですね」
千鶴がそういうと、布団に横たわっている斎藤は、あっさりとうなずいた。「だろうな」
「やっぱり昨日の湯冷めが良くなかったんですね。ちゃんと夕べは眠れましたか?」
「……」
しばらく考えてから小さく首を横にふった斎藤を、千鶴は腰に手を当てて「めっ」とでも言うように見た。
「だめじゃないですか、ちゃんと寝なくちゃ。じゃあ、今日は一日ゆっくり体を休めてください」
千鶴はそういうと、もの言いたげな目で自分を見ている斎藤に気づいて聞いた。「どうしたんですか?」
「……いや」
斎藤はあきらめたように瞳を閉じる。
「食欲はありますか?」
斎藤は首を横にふる。
「いや。だが一日寝れば大丈夫だ。お前は気にせずに一日のんびりしているといい」
「斎藤さん。病人なんですからそんなことは気にしなくていいんです。私も一応屯所で何度も皆さんの風邪の看病をしましたし、それくらいはできます。何か食べやすいものをもらってきますね。眠る前に少しでもおなかに入れた方がいいと思うんです」


そういって出て行った千鶴の背中を、斎藤は熱でぼんやりしたまま眺めていた。
こんなに熱を出して寝込むようなことは久しぶりだ。子どもの時以来ではないだろうか。
やはり昨日布団に入らずに窓際にずっと座っていたのがまずかったらしい。しかしこの宿に泊まっている限り夜に斎藤に安息はない。早く治して次の宿にかなくては。
そうは思うものの、心のどこかで子どものように千鶴に世話を焼かれているのが楽しくもある。
風邪なのだし、少しくらい甘えてもいいのではないだろうか。
一つ部屋に暮しともに眠りともに食事をし、日常のささいなことを共有する――まるで夫婦のようではないか。そのうえ看病などしてもらったらますます勘違いをしてしまう。そうでなくても昨日垣間見えた彼女の裸と、夜中に見えた寝乱れた姿がちらちらとまぶたの裏を横切るというのに。
……などと、いつもは己を戒める理性は、風邪の頭痛でかなり弱まっていた。
頭も痛いし体も重い。
斎藤があっさりと理性の敗北を受け入れているとき、千鶴が小さな器をもって戻ってきた。
「宿のお台所をちょっと借りておかゆをつくってきました」
「かゆか」
斎藤は重い体を持ち上げて布団の上に座った。食欲はないが体が寒い。千鶴の言う通り眠る前に温まりたい。夢の中のように千鶴がぴったりとくっついて一緒に布団にはいってくれれば暖かなのだが……
「香りづけに梅干をちょっとだけ入れてみました」
理性の戒めをとかれ自由にさまよいだした斎藤の心は、千鶴の声にハッと我に返った。
いかんいかん。いい加減にしなくては表に出てしまう。
「それはうまそうだ」
ふわりといい匂いが香り、斎藤は急に空腹を感じる。
斎藤が手を伸ばそうとしたのと入れ違いに、ぬっと目の前に粥の入った匙が差し出されて、斎藤は目を瞬いた。

布団の脇に座った千鶴がさじを斎藤に差し出しているのだ。
「……あの、あーん、です……」
斎藤は、少し恥ずかしそうに頬を染めている千鶴と、差し出されたかゆが入っているさじとを見た。
「『あーん』とは……」
まさかあれだろうか。子どものように口を開けて食べさせてもらうとかそういう……
斎藤が固まっていると、千鶴はあわてて匙を戻した。顔がさらに赤くなっている。
「そっそうですよね!やっぱりおかしいですよね?私もそう思ったんですが、でも沖田さんが……」
「総司?総司がどうしたのだ?」
千鶴はぐさぐさとさじでかゆを突き刺したりかきまぜたりしながら気まずそうに言う。

「その、『千鶴ちゃんはお母さんがいないから知らないだろうけど、病気の時のおかゆってこうやって食べさせてもらうのが普通なんだよ』って」
千鶴の言う意味がよくわからず、斎藤はぱちぱちと二回瞬きをした。
いや、言っている内容はわかる。こどもが熱をだしたらそういうことをする親はもちろんいるだろう。だがそれを大人にもすることは、斎藤の常識では『ふつう』ではもちろんない。
千鶴はつづける。
「わ、私も、ほんとですか?って何度も聞いたんですが、沖田さん真面目な顔で『誓ってほんと』って言うし、私は確かに母がいないので看病のしかたはわからないと言えばわからないですし……」
「……では、お前は総司が風邪をひいて寝ていた時はいつもこうしていたのか?」
「沖田さんだけじゃなくて、平助君の時もちゃんとそうするようにって言われて。あ、副長にも一度……」
「……」
黙り込んだ斎藤に、千鶴は恐る恐る聞く。
「皆さんからも特に何も言われなかったので、そうなのかなって思ってたんですが。……やっぱり……違ってたんですよね?沖田さん、冗談で私を……」
斎藤は迷ったが、熱で思考能力が弱っていたのが幸いし口が勝手に動いた。

「いや、総司が正しい」

斎藤が真顔でそう返すと、今後は千鶴が大きな目を見開いて瞬きをした。
「え?ほ、ほんとですか?大人でも看病では『あーん』……」
「そうだ」
斎藤はそういうと、「ではいただこう」と千鶴の持っている粥の方を見てうなずいた。千鶴は慌てて粥を一匙すくう。
「あ、は、はい。じゃあ……『あーん』」
「……」

……これくれくらいはまあ役得として許されるだろう、と斎藤はあたたかい粥を食べさせてもらいながら思った。

自分の知らないところで、総司も平助も、副長まで千鶴にこんなことをしてもらっていたようだし。
発端は、まあ総司のいたずらだとは思うが存外楽しく、千鶴がかわいく、心地よく、思わず本当にしてしまったのだろう。
何も知らぬ女子につけこんでこのような親密な行為をさせるなど、武士の風上にもおけん……と心の奥で思わなくもないが、まずは風邪を治してからでないとその思いも弱い。
それに実際千鶴の白い手で食べさせてもらってさらに皆の気持ちもわかった。
斬ったはったの毎日の中で風邪に倒れ弱っているときに、この『あーん』はたまらないだろう。味気ない粥でさえもうまく感じるというものだ。
それに、実際のところもおいしい。これは何か……
「何か隠し味があるな?なんだ?」
斎藤が食べながらそう聞くと、千鶴は楽しそうに微笑んだ。
「さすが斎藤さんですね。屯所のみなさんもおいしいおいしい、ほかのおかゆとは違うって食べてくれたんですが隠し味までに気づいてくださったのは斎藤さんだけです」
「なにか…香ばしいような……魚のだし……ではないな。なんだ?」
「ほんのちょっとだけなのでわかりにくいかもしれないですね。でも内緒です。また作ってあげます」
いたずらっぽく微笑む、出し惜しみをする千鶴との会話も楽しい。
「いや、しかし屯所ではもう無理だろう?こつを聞いて自分でつくれるようになっておかねば」
斎藤がそういうと、千鶴の表情がふっと暗くなった。
「そうですね……もう皆さんに作ってあげることもないんですね……」

本来いなくてもいいあんな男所帯に無理やり軟禁され、つくらなくてもいい粥を作り、やらなくてもいい『あーん』をやらされていた千鶴が、なぜ悲しそうな顔をするのか正直なところ斎藤には理解できなかった。
嫁入り前の娘をいいように扱ったのはこちらの方だ。
「お前がそんな表情をすることはない。粥も、病気を治すのも、本来はもうみな自分一人でできる。お前には甘えっぱなしで悪かったと思っている」
フォローのつもりで斎藤は言ったのだが、千鶴は今にも泣きそうな顔で微笑んでうなずいただけだった。
女子の扱い方のわからない自分が、また何か傷つけるようなことを行ってしまったのかと、斎藤は困惑した。しかしこれ以上なにをきけばいいのかわからない。そんな状態でさらに彼女を傷つけてしまうのは避けたい。
千鶴が幸せそうに微笑んでいるのを見るのが好きなのだ。
自分には分不相応だとわかってはいるが、彼女が幸せそうだと斎藤も幸せになる。なのに彼女を悲しませるようなことをしてしまったらしい不器用な自分に、斎藤はいらだった。だがそれを何とかするような気が利いたことができる自分ではないこともわかっている。

斎藤は黙って、粥を救っている千鶴の、伏せた長いまつげを見つめていた。


その日の昼間いっぱい高かった斎藤の熱は、夜になるとすっかり下がったようだった。
これで最後にしようと心に強く思いながら、斎藤は夜に最後の『あーん』をしてもらう。さすがに熱も下がり冷静に己を見つめられるようになってからの『あーん』は、恥ずかしくもあり後ろめたくもあり、という感じだった。
かなりすっきりした頭で、斎藤は今夜をどう乗り切ろうかと考えた。また千鶴は斎藤の方に転がってくるだろう。
理性は……戻ってきているつもりだが、正直体調が万全ではない今、夜中千鶴の誘惑から耐えきるのはつらい。
「おやすみなさい」と言い、かけた着物の向こう側でふっと明りが消える。
眠れるか、と不安んだったが昼間十分寝たはずなのに熱で体力を使ったせいか、斎藤はすぐにうとうとと眠くなってきた。

この分なら、なにがあろうとぐっすり眠れるかもしれんな。さすがに煩悩も体調には勝てんということか。

斎藤が覆いかぶさってくるような猛烈な眠気に襲われながら、意識を手放した。


『斎藤さん、もう温泉から上がった方がいいんじゃないですか?』
千鶴の問いに、夢の中の斎藤は自分でも驚くほど強気に答えた。
『何故だ?こうしているのが嫌なのか?』
斎藤の裸の腕の中で、同じく裸の千鶴は恥ずかしそうに頬を染めてまぶたを伏せる。『嫌なはず、あるわけないじゃないですか』
真っ白な千鶴の肌が、お湯の熱と体の熱とでほんのりとピンクに染まっている。濡れた髪が幾筋かうなじに張り付き、これまたたいそう色っぽい。
斎藤の下腹がさらに熱くなる。
斎藤は、千鶴の裸の背中が痛くないように気を使いながら、温泉の端にある石にゆっくりと押し倒しのしかかる。
『……なら、かまわんだろう』
低くかすれた声でそういうと、斎藤は千鶴の丸く滑らかな肩を撫でた。そして彼女の頬、耳たぶ、首筋と口づけを落とす。
『あっ……さ、斎藤さん、こんなところで……』
『誰もいない』
『でも……あっ…あん…!』
甘く鼻にかかるような千鶴の声に、斎藤の気持ちと体は一気にあおられた。
『千鶴…!』
細い腰を引き寄せて、肩から胸へと手を伸ばす。

「千鶴、大丈夫だ。やさしく……」

斎藤は再び自分の声で目が覚めた。
静かな旅籠の夜。
ひんやりとした空気。
暖かな布団に、腕の中の千鶴。
しかしこれまでの経験があった斎藤は、夢を見つつもこのようなおいしすぎる展開は夢に違いないとわかっていた。
「……」
斎藤は、自分の体の下で眠っている千鶴を見下ろした。

……惜しい夢だった。
あのまま眠り続けていたらいったいどうなったのか。
もう一度眠ろうかという誘惑を、斎藤は首を横に振って払う。

彼女を無事に親元まで送り届けるのが俺の任務だ。
……いや、任務ももちろんあるが、これまで苦労の連続だった千鶴のためにも、斎藤自身が安全に彼女を送り届けたい。それなのに自分が送り狼になっていたら話にならないではないか。斎藤なら、と自分を指名してくれた副長の信頼も、こうしてのしかかられても安心してすやすや眠っている千鶴の信頼も裏切ることになる。
それにしても千鶴ももうすこし警戒心というものがないのだろうか。みずからオオカミの懐に転がり込んできて無防備に眠りこけているようでは、食べるなという方が……ん?
斎藤は腕の中の千鶴の目じりがきらりと光ったような気がして体をずらした。窓からもれてくる月の光で、千鶴の目のあたりをよく見てみる。

……これは……涙?

横向きになって丸まるように眠っている千鶴の目じりには、涙が光っていた。表情も心なしか悲しそうだ。
「……千鶴……」
何故泣いているのだろうか。何かつらかったことを夢にみているのか?
新選組から離れることができ父親も見つかり、これから幸せになれるというのに……

理由はわからないが丸くなって眠っている彼女が、寂しげで不安そうで、斎藤は思わず再び抱き寄せてしまった。
「……泣かずともよい」
言っても聞こえないのだろうが言わずにはいられない。
千鶴はぬくもりを求めるように、斎藤の肩のくぼみへ頭を押し付けた。
ふわりと女性らしいにおいが斎藤の鼻をくすぐり、斎藤の脳裏には再び夢の中の出来事がよみがえった。が、すぐに千鶴の涙を思い出されて、斎藤はそのままやさしく彼女を抱きしめた。
辛い思いも悲しい思いも、千鶴にはさせたくないのだ。自分で彼女のすべてを守り、幸せで包んであげることができたらいいのだが。

今夜も眠れないかもしれないが、それで千鶴が安心して眠れるのなら……

斎藤は千鶴を抱きしめながら、暗い部屋の天井をぼんやりと眺めたのだった。









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