【三番組組長道中記 25】





何も言わず出会い茶屋の階段を上がっていく斎藤の顔からは、何を考えているのか全く読めない。
すっきりとした顎が千鶴のすぐ目の前に見える。
薄い唇に通った鼻筋も。黒い睫に覆われた深く蒼い瞳がきれいだ。
細身に見えるが千鶴を抱いたままこれだけ歩いて、息一つ乱れていない。
抱かれている胸は暖かいけど固くて、千鶴とは全然違う。
あの顔やこの胸や体や腕と、これから自分はあれこれするのだろうか?
千鶴は、そういうことについては当然ながら耳年増なだけで経験はない。なにをすればどうなるかはわかっているが、やはり知識と実践は違うのだろうと思う。まず二刻も必要なのかというところで驚いたくらいだ。

さ、斎藤さんはもちろんわかってるよね。教えてもらえる……のかな……

思わず想像してしまい、千鶴は真っ赤になってぱっと顔をふせた。
一年前道中であれだけ自分から迫ったにもかかわらず、いざ斎藤の男を感じて少し怖気づいている。
何も言わずに前を見ている斎藤は、千鶴の知らない人みたいだ。
『これからともに生きてくれるか』という問いにうなずいたからには当然ながらこういう展開はあるだろうとは思っていたが、まさかこんなに急だとは。
しかし幸いなことに、今朝起きて千鶴は井戸の水で体をきれいに洗っていた。髪も煙の臭いがひどくて我慢できず、怪我をしている足で苦労しながらきれいに洗った。着物も、荷物を見つけた時に着替えたからきれいで、つまりは乙女的な準備は完璧だ。

二階の部屋は狭く、布団がすでに部屋いっぱいに敷かれていた。
普通ならそれを見てひるむところだろうが、なぜか千鶴は腹が据わった。

お、女は度胸!斎藤さんとなら大丈夫!

少しおびえながらも千鶴が覚悟を決めたその時。
斎藤は考えていた。

千鶴の足は大丈夫だろうか。歩いている姿も辛そうだった。早く横になった方がいいだろう。

斎藤は千鶴を気遣いながら部屋に入ると、敷いてある布団に静かに千鶴を下す。
怪我をしている足以外にも、あの火事の中を逃げたのだ。きっと小さなやけどもあるだろうし、西国からの長旅の後すぐにあの騒ぎだ。体もあちこち疲れているに違いない。
「大丈夫か?」
足は痛くないか?という意味だったが、当然ながら千鶴は違う意味にとった。
「は、はい……!」
そんなことを知らない斎藤は、力強い千鶴の返事にふっとほほ笑むと小さくうなずいた。そして座ったままの千鶴に言う。
「横になるといい」
「えっ…!?」
驚く千鶴に斎藤も驚く。
「どうした?」
千鶴の顔が異様に赤い。まさか足だけではなくどこか調子が悪いのだろうか。それならばなおさらのこと横になった方がいい。
二刻も時間をとったのだから一眠りできる時間は十分にある。それでも足りなければ一晩借りてもいいだろう。
その間、斎藤は一度屯所に戻り、皆に説明し、できれば明日の隊務も変わってもらってとりあえず千鶴が落ち着ける場所を探さなくては。家を借りると言ってもすぐには無理だし、ここまで一目見て女性とわかる姿の千鶴を屯所におくわけにもいかない。
そもそもあんな男所帯に千鶴を一人でおくのは斎藤自身、あまり……うれしくないものがある。
いや、新選組の仲間たちは信頼している。
斎藤が迷いなく背中を預けられると思うのは、新選組の仲間たちだけだ。が、それとこれとは明らかに別で、そう思っている自分を斎藤はどこかおかしく思う。
剣の腕と女性への……特に千鶴への態度に対する信頼とはまた別のものらしい。
斎藤が考えにふけっていると、千鶴がおずおずと言った。
「あの……明るくて……」
相変わらず赤い顔の千鶴を気にしつつも、斎藤は「そうか」とうなずいた。
「確かにこれだけ明るいと寝にくいな」
斎藤はそう言うと、自分の言葉にぎょっとしている千鶴には気づかずに、東側と南側にある窓に手をかけた。
見てみると木でできた雨戸がある。勝手に閉めてもいいものか少し迷ったが、ここは出会い茶屋だ。当然閉めて使う客もいるだろうと考えて、ガタガタと雨戸を閉めていった。

閉めながら、斎藤はそういえばここを使う男女は普通色事に使うのだなとふと思い出した。
とたんに今の自分たちの状況が気になってくる。
結婚前の娘が男と二人でこんなところに入るなど、千鶴のような娘にはあってはならないことだ。だが今は事態が事態で、千鶴もここぐらいしかおちつける場所がないこともわかっているだろう。だが、他の者たちはそうではない。まさかここに入るところを誰かに見られて噂になどならないとは思うが……。
急にこんな風にさらうのではなかったかと、斎藤はようやく今さらになって少し後悔しだした。
だが、あんなひそひそと陰湿ないじめのような西国藩京藩邸の環境に千鶴を置いておくのは我慢がならん。かといって千鶴の足は自分で歩けるような状態ではないし、体もつらそうだ。千鶴の体を休めて、今後のことをじっくり考えることができる場所は近場にはここしかなかった。

そういえば俺は、千鶴に求婚の意味が正確に伝わっているかを確かめに来たのだったな……

いったい何故こんなことになっているのかと斎藤は我ながら首を傾げた。
千鶴への思いを受け入れた途端、次から次へと思わぬ行動に出る自分に驚く。
だが、まあ……まあ、きちんと求婚したあとはあの京藩邸は引き払うのだし、大きな目で見れば同じことだろう、と斎藤はいろいろな問題には目をつぶることにした。
後先になってはしまったが、きちんと筋を通せば済むことだ。
まずは俺の気持ちを伝えて千鶴の気持ちを確かめて、それから……それから綱道さんに文をださねば。いや、その前に局長と副長に報告して千鶴の当座の住む場所を探さなくてはな。

雨戸を閉め終えた斎藤は振り向くと、千鶴に話しかけようと口を開いた。
が、急に暗くなった部屋で目が慣れず足元にあった箱のようなものにつまずいてしまう。「おっ…と…!」つかまろうにも暗くてわからず、部屋いっぱいに敷かれている布団に足を取られて、斎藤はひざをついてしまった。
柔らかいものの上にぶつかり、

「すまない。怪我は……」

ないか、と言おうとして、暗闇に慣れてきた斎藤はぎょっとした。
横たわった千鶴の両脇に、斎藤は両腕をつき、足も千鶴をまたぐような形になってしまっている。
かなりの密着度だ。
すまないっ!と言って飛びのこうとした斎藤は、目の前の千鶴の表情に目を見開いた。
千鶴は緊張した面持ちで頬をそめ、ま、まぶたを……まぶたをを閉じているではないか。
怖気づきながらも恥ずかしさを押さえ、覚悟をきめたようなそのポーズ……。
あきらかに出会い茶屋に無理やり連れ込まれた女性のとる態度だ。

斎藤は愕然とした。

ショックだ。
まさか千鶴は、自分が最初からそのつもりでここに彼女を連れ込んだと思っているのだろうか?とんでもない誤解だ、自分はそのようななんでもかんでもとにかく女性を連れ込み襲う、狼のような男ではない。
西国までの道中、散々機会があったにもかかわらず理性で本能と煩悩を押さえつけてきた自分の努力はなんだったのか。あれだけ千鶴から迫られたというのに彼女の幸せを考えて何もしなかったではないか。
にもかかわらず、彼女を出会い茶屋につれこみ無体をしようとする、そんな男だと思っていたとは!!

……と言おうと思ったがなぜか口が動かない。

斎藤脳内には『据え膳食わぬは男の恥』ということわざが大きくこだましていた。
そのこだまはあまりにも大きく、『武士は食わねど高楊枝』という声をかきけしてしまう。

千鶴に自分がそのような男だと思われているのは訂正しなくては、と思う。
心外だとも思う。
しかし訂正したら、当然ながら……当然ながら、その、この先は無いわけで……
斎藤はあれこれ考えてるうちに何を訂正しなくてはいけないのだったかわからなくなってきてしまった。
千鶴の唇から目が離せない。
何か強く……強く千鶴に言わなければならないことがあったような気がするのだが……

なんだったかと思いながらも、斎藤の体はまるで磁石に引き寄せられているようにゆっくりと千鶴の方へと寄って行ってしまう。

い、いかん、このままでは……このままでは、つまり……
つまり、まさかそんな……こんなところで、真昼間に……
だが、ここはそういう場所なので問題はないといえばないのだが……
だがまず千鶴の気持ちを確かめて、綱道さんと副長に……

「……斎藤、さん…?」
固まったまま動こうとしない斎藤を不審に思ったのか、千鶴の心細そうな小さな声がした。
と、同時に、ふっと甘いため息のような吐息がもれる。
「ち、千鶴……俺は……」
斎藤の頭は真っ白になった。

き、気持ちを確かめるのは何も言葉でなくてもいいのでは……

手が勝手に動き、恥ずかしそうな表情の千鶴の頬にそっと触れる。びくりと千鶴が肩をすくめ、暗闇でもわかるほど赤くなるのを見ると、斎藤の腹の奥のなにやら野蛮なものがざわざわと目覚め始めるのを感じる。
いかんと思うものの抗いがたく、斎藤はそのまま彼女の唇へと自分のそれを寄せていった。

柔らかい唇が重なる。

触れた途端、斎藤の全身はあっさりと白旗を掲げた。
もうだめだ。
たとえ聖人君子だろうとなんだろうと、これにあらがうことができる男はこの世にはいないだろう。

甘い吐息とともに斎藤は千鶴のくちびるをなぞるように唇を這わせた。千鶴が固くなっているのを体で感じる。なだめて安心させてやりたいとちらりと思ったが、とてもではないが千鶴をフォローするまでの余裕など斎藤にもない。
斎藤はそのまま唇で彼女のくちびるの感触をたしかめた。
やわらかい。
そして暖かくて甘い。
斎藤は夢中になった。角度を変え何度も唇を合わせる。
「千鶴……」
合間に思わず感極まってささやいてしまった。怖がらせるかと思ったが、それを聞いて千鶴は少し体の力を抜いたようだ。
「千鶴……」もはや意味をなさないつぶやき。千鶴も聞こえているのかいないのか上気した顔で斎藤を見つめる。
「……」
視線を熱っぽく絡めたまま、斎藤は今度はゆっくりと唇を合わせた。それと同時に彼女の体を抱きしめる。細く華奢な千鶴の体は斎藤の腕にすっぽりと収まり、斎藤が熱い心のままきつく抱きしめるとどこまでも柔らかく斎藤の固い体に沿う。
「ああ……」
何度この体を抱きしめたいと願ったことか。
触れたい思いを押し殺して、同じ部屋で一晩を眠れないまま過ごした夜。温泉で垣間見た彼女の裸体は、はらってもはらっても斎藤の脳内に居座り苦しめられた。
柔らかい。
暖かくて、いい匂いがして……もう抑えが効かない。
深く合わせた唇で、斎藤は今度はゆっくりと舌で彼女を探った。
腕の中の千鶴が驚いたようにびくりと跳ねる。斎藤は構わず彼女の口内へと舌をゆっくりと侵入させた。
戸惑う彼女の暖かな舌を、自分の舌でゆっくりと探り愛撫する。
「あっ……ん……」
呼吸のために唇を話すたびに、千鶴の口から鼻にかかった甘い声がもれ、それが斎藤をさらにあおった。
彼女の舌を探し出し、求め、体と同じように絡める。
「ああ……あっ……」
もう二人とも夢中だった。堰を切ったように長く温めたお互いの思いがあふれ出て、戸惑いも恐れも、愛しさがすべてを押し流す。
千鶴の帯に手を伸ばしたとき、斎藤の頭に一瞬、そもそも自分はなぜここにきたのかについてよぎったが、千鶴の上ずった吐息にすべてを忘れた。




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ぐったりと眠っている千鶴を起こすのにはしのびず、斎藤は丸三日は出会い茶屋を貸しきれる額の金を主人に渡した。
「連れが眠ってしまったのでな……三日も世話になるつもりはないが、目が覚めるまでこれで置いておいてもらえないだろうか」
主人は心得たもので、「犬の世話もしときまさあ!」というととっとと引っ込む。
あまり暗いのもなんだなと思い、一つだけ開けた雨戸を見ると、どうやらもう日が傾きつつあるらしい。
激情が過ぎ冷静になった斎藤は、となりで疲れたように眠り続けている千鶴を見て後ろめたく思った。

そのような不埒な下心などなくここに千鶴を連れてきたと説明しようと思っていたが、この体たらくだ。
しかも千鶴は初めてだというのに、斎藤はどうしてもおさまりきらずそのままもう一度挑んでしまった。西国からの長旅、新しい環境での疲れに火事に、足のけがに……。千鶴は疲れ切っているだろうに斎藤は欲望のまま彼女を貪ってしまった。
今できることは、彼女の安眠を妨げないことだけだ。
斎藤は暇な脳内でこれからのことを考えるとため息をついた。

まずは父親である綱道さんだ。
次に近藤局長と土方副長。
そして西国藩と西国藩の京藩邸。
さいごに左之や総司たち。

婚約が決まりかけていた女子をさらい、このような事態になってしまったことをすべてに説明し謝罪しなくてはならない。
一体自分はどうしてしまったのか。
千鶴を娶る決めたのは、まあいい。
いや、これも冷静に考えると斎藤にとっては最前の道ではないのだ。
斎藤の志を全うするのなら、感情の話を抜きにすれば今でも妻帯をしたり愛しい女子を作ることはするべきではないと思う。
だが、まあ……気持ちを止められなかった。
「するべきではない」とうことより、千鶴のいない人生の方がつらい。
愛しい女子ができてしまったのなら、自分の目の届く範囲で自分の手で、守り幸せにする。

しかしそう決めたなのならせめて、まずきちんと綱道から承諾をもらい、近藤と土方に説明し妻帯の許可をもらい、西国藩に事情を説明して快く千鶴を送り出してもらい、左之たちにもきちんと説明したあとに、こういうことになるべきだったな、と斎藤は目の前で悩ましい寝姿の千鶴を見た。
事前に筋を通しておけば、お互い思いあっているのだし特に問題もなく夫婦になれたものを。
さらって、こんなことをしてしまったせいで、すべてにおいて気まずい思いをしながら各所に説明をしていかなくてはいけない。千鶴だとて気づまりだろう。
家を借りてもいないのに新婚の家財道具を揃え、夫婦にもなっていないのに初夜(夜ではないが)を迎えてしまった。

これまでの自分にはありえない不始末の連続に、斎藤はおかしくなって小さく笑った。
だがそれも楽しい。
これまですべて自分で制御できた世界が、千鶴の出現によって狂わされてしまった。だがそれが幸せなのだ。
予定通りいくことよりも、もっと大事なものがあるということを、斎藤は初めて知った。
自分の努力や力ではどうしようもない、とても大切なもの。

そういう存在があればこそ人は神仏に祈り、日々に感謝をするという気持ちを持つのだろう。
そしてその弱さが人を優しくし、さらには強くもする。

以前は自分一人の生き方のみを追求してきたが、これから二人の人生になる。いや、もしかしたら三人、四人と増えていくかもしれない。
自分一人の人生とは違って自分の自由にならないことやうまくいかないこともあるだろう。
だが、彼女とならそれもきっと楽しい。
そしてそんなにぎやかで予測などできない人生が楽しみだと思える自分に、斎藤は驚くとともに幸せだと思った。

自分のみではなく、他の愛しい者達に対する責任が、きっと自分を強くしてくれるだろう。心も、剣も。
妻、子どもたち。
守るものができた。

斎藤は、まだできてもいない子どもに思いをはせる。
てんやわんやになりながら子供たちの面倒を見ている千鶴と自分にも。
ひと月前の自分には思いもしなかったこの想像に、斎藤は再び微笑んだ。








【終】



あとがき   


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