【三番組組長道中記 22】
夢か現かわからない時間がしばらく過ぎた。
パチパチと炎のはぜる音が遠くに聞こえる。千鶴はぼやける視界の中で、すぐ目の前にある床板をぼんやりと見た。
起き上がらなくちゃ……
そうは思うものの、体に力が入らない。
思い浮かぶのはつい先ほど別れた、桜の中での斎藤。
優しくほほ笑んだその顔が今度は、昨年の西国藩への道中の景色に変わる。
同じ部屋になった時の斎藤の戸惑ったような顔や、おいしい団子を食べた時の楽しそうな顔。
これが走馬灯っていうのなのかな……
でも斎藤さんの顔を思い浮かべながら死ねるのなら、それはそれで幸せかも…
もう会えないって思ってたのに、今日偶然会えたのは、もしかして今日死んじゃう私に仏様がくれた贈り物だったのかもしれないな。
『幸せを祈っている』
今日別れるときに斎藤はそう言っていた。
千鶴にとっては斎藤のそばにいること以上の幸せはない。
千鶴は目の前の床をぼんやりと見ながらほほ笑んだ。
そうなのだ。
彼を思いきるために最後に一度だけ会いたいと思ったが、会っても思いきることなんてできなかった。
もうほかの男と夫婦になるなどど無理だろう。
ならばこのままここで斎藤のことを思いながらはかなくなるのも、いい。
斎藤さん……
千鶴がぼんやりと、心の中でそうつぶやいた途端、声が飛び込んできた。
「千鶴!」
箪笥に押しつぶされて倒れている千鶴を見て、斎藤は『肝が冷える』という心持を初めて味わった。
自分が命の危険にさらされるときはそれは自分の腕が未熟な場合か考えが甘かった場合で覚悟はできる。そしてその窮地を脱するための算段や努力をする方にすぐに切り替わるのだが。
大事なものを失うという恐怖を、斎藤は初めて知った。自分の手の及ぶ範囲外に大事なものが存在するという恐怖も。
頭が真っ白になり千鶴のそばに駆け寄り名前を呼ぶ。「千鶴!」
「斎藤さん……」
と言う千鶴の声が聞こえた時、斎藤は心の底から安堵した。
生きていたか……!
そして自分が助けることができるこの状況に感謝する。隊務を放り出してでも来た価値があった。
「しっかりしろ!今この箪笥をどける」
斎藤はそう言って立ち上がると、箪笥を持ち上げた。
「足を抜けるか?」
「はい」
寝返りを打つようにして箪笥の下から千鶴がのがれる。押しつぶされた時にどこかを打ったのか、千鶴の動作は緩慢で声もか細い。斎藤は千鶴が足を抜くのを見届けてから、持っていた箪笥を床に置いた。
「大丈夫か!?けがは?」
「斎藤さん……どうしてここに?」
どこか打ったのかぼんやりしている千鶴を見て、斎藤は聞くのはやめて自分で確かめるように千鶴の体を触った。
「どこか痛いところはないか?……大丈夫そうだな。では早く逃げるぞ!」
ふらふらとしている千鶴を立ち上がらせると、千鶴は「いたっ」と小さく叫んで体を折った。
斎藤が抱きかかえて千鶴が転ぶのを避ける。千鶴はそのままへなへなと座り込んでしまった。
「足か?」ひざまずいて足を見る。斎藤は慎重に触れた。
「……折れてはいないようだが……歩けるか?」
その時、下からの炎が再び激しく吹き上げた。
「あっ!」
吹き寄せてくる熱風から千鶴を守るように、斎藤が千鶴を抱え込んだ。吹き上げた炎は天井をなめ、パラパラと火の粉を振り散らせる。斎藤は千鶴にかかる火の粉を手で払った。
「この火の勢いでは……」
しばらく炎の勢いがおさまるのを待ってから行くしかない。勢いが落ちなければ……あの中二階の床板がもっている間にここを通り抜けるしかない。この床板が落ちてしまえば下は地獄だ。そうなる前にこの床づたいに先ほど斎藤が上がってきたところに出られれば……
あそこは出口からも近いし床が土だから今なら外に逃げらられる。
「千鶴、しばらく……」
「ゴホッ!ゴホゴホッ!」
煙がふきかかり、斎藤と千鶴は口を押えて急き込んだ。斎藤よりも長くこの煙と熱にさらされていた千鶴は、つらいのか呼吸が浅い。
「大丈夫か!?」
「……さ、斎藤さん……斎藤さん一人なら、あの炎の周りを行けますよね……」
二人連れ、しかも立てない千鶴を連れてあの炎の周り、落ちかけた中二階の不安定な床を伝って向こう側にでることはできないだろう。
ゴウゴウという火の燃える空気の音は激しくなり、熱さもひどい。
「斎藤さん、もう、もういいです。私を置いて行ってください……」
「バカなことを言うな!」
「でも、この足じゃ……」
「背負えば済むことだ。手は大丈夫なのだろう?」
斎藤はそういうと、千鶴を背負おうと背中を向けて千鶴の腕をとる。しかし千鶴はその手を払った。
「斎藤さん、そんな体勢であの火を抜けられません。お願いです、一人で逃げてください。私は……」
千鶴は斎藤の服をつかむと、潤む瞳で彼を見た。
「私は、私が斎藤さんの志の邪魔になりたくないです。斎藤さんが土方さんや近藤さんたちと一緒に成し遂げたいと思っている生き方を貫いてほしい。こんなところで、私を助けるために斎藤さんに死んでなんか欲しくないんです!」
千鶴が必死で言った言葉を、斎藤は驚いたように聞いていた。
そして意外なことに、小さく吹き出した。
「死ぬつもりなどさらさらない。お前を連れてここから無事に脱出するつもりだ」
笑われたせいで、こんな時なのに千鶴はむっとした。こんなに斎藤さんのことを考えて必死で言ったのに!
「このままここにいたら死んじゃいます!」
「だからお前は俺におぶさるのだ。早くしろ」
「だからそんな体勢であそこを通れるわけないじゃないですか!」
「そんなことはない。お前など背負っているのかいないのかわからないくらい軽いものだ」
「私は軽そうに見えても重いんです!もう!早く逃げてください、ほんとに私は最後に斎藤さんに会えてこうして話せただけで……」
千鶴はちらっと視界の端に見える反対側の梁を見た。
さっきから炎がなめてさかんに火の粉をまき散らしている。あれが耐え切れなくなったら今度は反対側の屋根が落ちてくる。そうしたら中二階すべてがつぶされてしまうだろう。千鶴でもわかるのになぜ斎藤は言うことをきいてくれないのか。
いらいらしている千鶴と同じく、斎藤も珍しくいらだっていた。
「おぶさらないのなら抱え上げるだけだ」
そういうと、目を見開いてこちらを見ている千鶴を無視して、米袋を担ぐように千鶴の胴に肩を入れて担ぎ上げてしまった。
「きゃあ!!」
「逆さだがしばらく我慢するのだな」
千鶴のお腹が斎藤の肩に、両足が斎藤の前側に、そして千鶴の上半身はさかさまで斎藤の背中にあった。
斎藤が一歩踏み出すと、床板が大きくたわんだ。その上中二階のために中腰ですすまなくてはいけないのだ。とても安定した姿勢とは言えない。
千鶴は悲鳴のような声をあげた。
「斎藤さん!だめです!ほんとに落ちちゃいます!私だけじゃなくて斎藤さんも一緒に……!おろしてください!ちゃんと私、一人で歩くので、おろしてください!」
「おろしてもお前は足のせいで歩けないだろう」
斎藤がまた一歩踏み出すと、床板の一枚が外れた。「きゃああ!!」千鶴が悲鳴を上げるが、斎藤はバランスを崩しながらもすばやく板の下にある梁へと移った。
「梁をつたった方がいいな」
「斎藤さん、嫌です!私、四つん這いで行くので……お願いです、おろして!私のせいで斎藤さんまで下に落ちちゃいます!斎藤さん一人なら逃げられるのに……!お願いです、先に逃げてください。後から、私もちゃんと逃げますから!」
ばたばたと肩の上で暴れる千鶴を、斎藤は腕でぐっと抑えた。
「静かにしろ!これから生きるも死ぬも共にするならば、問題はないだろう!」
「ええ?」
斎藤が言っていることを、正直千鶴は聞いていなかった。斎藤に担がれた状態で、火の海の一階を見て千鶴はそれどころではない。このままでは自分のせいで斎藤まで巻き添えにしてしまう。
「斎藤さん、ほんとに早くおろしてください。私、きちんと一人で逃げますから先に逃げてくださいってば!もう!なんでそんなに頑固なんですか!!」
「それはお互い様だろう。先ほど俺が言ったのを聞いていないのか?」
「何をですか?」
「これからの人生、長いか短いかわからん。ゆえに生きるのも死ぬのも共に過ごそうと言っているのだ。これぐらいの火事であきらめるわけがないだろう!」
「これぐらいの火事って、この火事は命があぶないくらいの………え?」
いいかけてようやく、千鶴は斎藤の言葉が頭に入ってきた。
「生きるのも死ぬのも共に……」
急に静かになった千鶴の脚を押さえて、斎藤はようやく梁の上を歩き出すことができた。
「そうだ。俺の生き方ではどれくらい生きられるかわからん。だが、それは誰もがそうだと、お前もそうなのだとこの火事で気が付いた。ならばその貴重な時間を共に過ごした方がいいのではないかと思った。もちろん……」
斎藤はここで言いよどんだ。
「……もちろん、お前がよければ、の話だが」
千鶴は一瞬すべてを忘れた。
ここが今にも焼け落ちそうな中二階であることも。
自分が今斎藤にまるでもののように担ぎ上げられていることも。
そして後ろから横から、炎が迫ってきていることも。
「……斎藤さん……」
千鶴は斎藤に担ぎ上げられた状態で体を少し上げ、斎藤の表情を見ようとした。
斎藤はその間も慎重に床板の下にある梁を伝い、下から炎が噴きあがっている場所をなんとか通り抜けた。
「よし、この先は火がまだ来ていない。行くぞ!」
斎藤が先を行こうと一歩踏み出した途端。
雷が近くではぜたような大きな音がして、火の粉が狂ったように振ってきた。
「うっ!」
千鶴をかばうように胸におろし、斎藤は床に転がる。後ろを見ると、とうとう炎に焼き切られた天井の梁が落ち、それに伴い屋根が崩れて落ちてきていた。
屋根の重さで中二階の床が引きずられるように斜めになる。斎藤は千鶴をかばうように胸に強く引き入れた。
「いかん!ここも崩れる!」
「斎藤さん!」
二人の声と同時に、足元の床が抜けた。
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