【三番組組長道中記 19】
「千鶴〜!!」
元気な声に、千鶴は顔をあげた。
人の往来の向こうに、手を大きく振っている平助の姿。
団子屋の椅子から立ち上がり笑顔で手を振り返しながらも、千鶴の視線は平助の左右、後ろをさまよった。
隣に左之、左之のななめ後ろに総司と新八。
……いない……
急に視界が暗くなったような気がした。ひんやりとしたものが体の内側からじわじわと広がっていく。
「久しぶりだな」
近くまで来た左之が相変わらずの笑顔で千鶴の顔を覗き込んだ。そして千鶴の瞳の奥の何かに気づいたのか、ポンポンと慰めるように頭を叩く。
「ほら、中はいろうぜ。今日はおごりだ」
次に来た総司は、「へえ〜…」と千鶴の頭からつま先まで見ると、「なんだ、ほんとに女の子みたいになっちゃったんだね」とこれまた相変わらずの意見だ。
新八は「ほんとに別嬪さんになったなあ!」と妹に対するような明るい笑顔で笑った。
会える時間は昼の一時のみ。
皆でワイワイと昼飯を食べる。千鶴は斎藤のことは考えないようにして、皆が話しかけてくれる言葉に明るく答えた。そして自分がいなくなった後の新選組の動きについても聞く。
千鶴が去ったころと比べかなり大きくなり隊士も増えたようだった。近藤も土方も、頻繁に大名や京都守護職に呼ばれ、京の治安や幕府の政策についてもかなりかかわるようになってきているらしい。
「そうですか…!すごいです。さすが土方さんですね」
「っていうか近藤さんのおかげなんだけどね」
言い直した総司に、相変わらずだなあと千鶴は笑い、皆もやれやれといおう顔で笑う。
楽しいときはあっという間に過ぎ、皆で店を出た。
思わず皆と同じ方向に帰りそうになって、千鶴は笑った。気づいた左之もほほ笑んだ。
一緒におなじ場所で長い間暮らしていた感覚はすぐに戻る。でももう別々の家路なのだ。
「ま、少し寂しいけどな。おまえにゃこの方がいいだろ」
左之が再びやさしく頭を叩く。
「じゃあね、また遊びに来るよ」「おう!そうだな!」「ばーか、千鶴はこんなむさくるしい男ばっかと遊びたくなんざねえだろ」
言い合いしている男たちに、千鶴は笑った。
「そんなことないです。またぜひお会いしたいです。文を書きますね!」
「うん。じゃあね」「またな!」
去っていく彼らに手を振って千鶴が見送っていると、角を曲がったあたりで平助が走って戻ってくるのが見えた。
「平助君?」
「千鶴………その、一君なんだけど……」
気まずそうに視線をそらして頬を掻いている平助に、千鶴はほほ笑んだ。ちゃんと笑えているといいけれど。
「うん。わかってる。大丈夫だよ」
平助が覗き込むように千鶴の顔を見た。
「一君、変なんだ。すっげえ変。千鶴のこと気にしてるんだと思う。だけど今日のは……伝言も言ったんだけどさ」
「うん、大丈夫。ありがとう、平助君。私ね……」
伝言役をしてくれた平助。彼の表情から、きっと平助は千鶴の気持ちを気づいているのだろうと思う。
そんな面倒な仕事を押し付けてしまった彼に、せめて理由をちゃんと説明しなくてはと、千鶴は自分の手を見た。
その指が細かく震えているのを見て、千鶴の言葉は喉の奥で詰まった。
「私……」
自分でも驚いたのだが、出てきたのは言葉ではなく涙だった。
「わっ!わ、わ、ち、ちづ……ちょっ…おい泣くなよ!」
平助が慌てふためいている前で、千鶴の涙は堰を切ったようにあふれ出した。
「私、さ、斎藤さんと旅をして……ううん、その、その前から、ね、屯所にいた時から、た、たぶん好きで……」
「あーわかってる!わかった!いいよ言わなくて!ごめん!辛いこと言わせて!」
千鶴は指で涙をぬぐった。周囲を歩く人たちが好奇の目で自分たちをみているのがわかる。これ以上平助に迷惑をかけてはいけない。
「ううん、私こそごめんね」
「いや!俺の方が悪かったよ、ごめん!」
「そんな、私の方があんなお願い……」
言いかけた千鶴をさえぎって、平助は真剣な目で千鶴を見た。
「一君を連れてこれなくてゴメン」
まっすぐに、千鶴の心の奥底まで響く平助の目を見て、千鶴は、ああ、本当にこれで斎藤さんとは最後なんだなあ……、となぜかしみじみと思った。
見合いの話がでたのは西国藩で正月のことだった。
新年を親子二人で祝っているときに、千鶴に縁談が来ていると綱道が言ったのだ。
『父様、まだこっちに慣れてないからそういうのはお断りしてって前にも……』
『いや、こっちではなく京でなんだよ』
京で、という言葉に話を聞こうかと思ってしまったのは事実だった。
この西国藩から京は遠い。女の足で、しかも一人でなどいけないくらい遠い。そもそもこの藩を出るための手形を、千鶴一人旅に出してはもらえないだろう。
もう二度と会えないのかと、千鶴は毎夜もらった櫛を見て、斎藤と過ごした日々を思い返していた。
そして綱道の口から、京にあるこの藩の藩邸に努める武士が縁談のお相手だと聞いた。とりあえずは会ってみて気に入ったら……という建前ではあるが、ほぼ確実に京で婚儀をあげて京で夫婦になることになる。
でも、京に行ける。京に住める……
巡察途中の斎藤を見られるかもしれない。何かあった時に、同じ町にいれば少しは手助けができるかも。
あの蒼い瞳に再び自分が映ることがあるかもしれない……
京に行ったらほぼ他の男との縁談は断れないと知りつつ、このままここにいてもきっとここで別の縁談が来るだろうとも思う。それに京の情勢は不安定だと聞いている。斎藤になにかあるかもしれないではないか。何かできるなんておもわないけれどそれでも少しだけでも助けになるようなことが、京にいればできるかもしれない。ここでじっと待っているよりは、まだ納得のいく生き方ができるのでは。
それが千鶴が京行きを決めた理由だった。
斎藤には何度も断られているし、妻をめとるつもりがないことも彼の口からはっきりときいている。
でも、見合いの日が近づくにつれ千鶴はその前にもう一度だけ斎藤に会いたいという思うようになった。もう一度、斎藤の口からきっぱりと断ってもらわないと、どうしても思いきれない。
櫛はとても高価なものだった。
髪飾りのようなものがないと一度だけ話した自分の言葉を覚えてくれていた。
いったいいつ買ったのか、千鶴のことを思いながら買ってくれたのだろうか。
どうしてこの櫛を選んだのだろう?
それに。
手をつないだ。
そして別れの時の会話……
このままずっと心に斎藤を置いたまま、他の男性と夫婦になるのはつらいし、相手にも失礼だし……
それになにより、もう一度。
もう一度だけ会いたい。
彼に自分を見てもらいたい。
自分の思いがけないしつこさに、千鶴は苦笑いをした。団子屋の客たちが千鶴と平助を避けて店に入っていく。
千鶴は今度は心からの笑顔で平助を見た。
「ごめんね、平助君。気にしないで。本当に、斎藤さんは来ないだろうなってわかってたの。何度も言われたし……でもこれできっと吹っ切れると思うから。最初から来てくれないだろうなって思ってて平助君にたのんだんだから、本当に気にしないでね」
「千鶴ぅ……」
平助の方が泣きそうな顔になった。
「ほら、平助君、もう帰らないと土方さんに叱られるんじゃないの?」
「……」
平助は、しかし去りがたそうだ。
「その……余計なお世話かもしれねーけど、見合いっていつ?」
「……明日のね、夜に」
でも見合いをすればもう婚姻は決まったようなものになる。そのあとで斎藤と個人的に会うことはできないだろう。千鶴だけではなく相手の、さらには家の問題にもなる。許嫁が男と会っていてそれが新選組などとは。
皆と一緒に会うのも、巡察を見に行くのもしばらくはやめた方がいいだろう、と千鶴は思った。縁あって夫婦となる人に対して不実なことはしたくないし、斎藤に会ってしまったら心が乱されるのは当然ながらわかっている。
「でも、斎藤さんには言わないでね。もうきっぱりあきらめるから。たぶんお見合いした後は気軽に藩邸を出られないと思う。今日あえてうれしかったよ」
「俺も。たぶんみんなもそうだと思うぜ」
なおもその場にとどまっていた平助は、少し考えるようにすると再び聞いた。
「藩邸の住み心地はいいのか?特になんか……問題とか?」
「問題?ううん、みなさん親切だし……って言っても、まだ荷をほどいたり足りないものを用意したりであんまり藩邸の様子は知らないんだ。ほかの藩邸がどうなのか知らないし……」
平助が「そっか」といったあと、千鶴はふと思いついたようにつづけた。
「あ、でも新選組とか西国に比べると人の出入りがすごく多いなあって思う。やっぱり京は賑やかだね」
「……そっか」
平助は、一瞬最悪のことを想像して瞳を曇らせた。
不穏な動きの報告がある、千鶴のいる西国藩の京藩邸。このまま若い武士たちの動きを家老が抑えられなければ、幕府側と西国藩との戦になってしまうかもしれない。
そうなったら新選組が京藩邸へと攻め込むこともありうるのだ。女子供は殺さないだろうが、抵抗されればわからない。それに千鶴が世話になっている人間を殺すところを目の当たりにさせてしまうかもしれない。
仕事に忠実な斎藤が、仕事と千鶴のはざまで苦しむようなってしまったら。
いや、そもそも新選組の幹部の皆も苦しむし、平助自身もいやだ。
ったく!一君がとっとと千鶴をもらっちまえば話は早いのにさ!
千鶴に再三促されて、ようやく平助は「じゃあ」と背を向けた。
「一君、バカだよな。今度稽古の時にみんなで一君をぶちのめしとくから!」
あながち冗談とも思えない強い口調で平助はそういうと、走り去った。
千鶴はほほ笑みながらため息をつく。
ふと視線をあげると、ちらほらと咲き出した桜。
そういえば桜を求めて南下したような旅だったな……
山と谷を覆うけぶるような桜。
最後の宿場町で斎藤と一緒に見た濃い桃色の雲。
千鶴はそのまま視線をそらすと、藩邸へと足を向けた。
斎藤は桜並木の続く川沿いの道を、めずらしくぶらぶらと歩いていた。
京都奉行所での土方の所要はあっけなく終わってしまったため、少しだけ遠回りをしているのだ。
新選組の皆は、千鶴とは昼時に会うと言っていた。
京都奉行所からそのまま町中をとおると、待ち合わせの店の近くを通ることになる。ここまで必死になって避けたのに、偶然出くわしてしまうのは困る。
それに早く屯所についてしまうと平助たちがまたうるさい。
久しぶりに千鶴と会った興奮で、きっと千鶴の話を皆でしていることだろう。そんなところにノコノコ顔を出したら何を言われるかわかったものではない。なぜ来なかったのかと詮索されるのも面倒だし、千鶴がああ言ったこう言った、かわいくなってた、別嬪だなどという話も聞きたくない。千鶴がかわいいことを一番知っているのは自分に決まっているではないか。
でもそれも一年前の記憶だ。この年代の一年は、娘にとっては大きな一年だろう。きっと千鶴は最後に分かれた時よりも、娘らしく美しくなっているに違いない。
ぼんやりと桜を眺めがら歩いていると、最後に見た千鶴の表情が目に浮かぶ。
戸惑ったような、傷ついたような顔をしていた。
大きな黒目勝ちの瞳が、隠せない感情をあらわしていた。
握った指の細さや柔らかさ、微かな震えは今も覚えている。
斎藤は川べりを歩きながら、自分の手のひらを見た。
祭りで山車を見ていたらふと手が触れて……
後はあまり覚えていない。
頭で考えて、というより手が勝手に動いてしまっていた。
手を握っただけで、斎藤の信念は大きくゆらいだ。このまま城へ戻り綱道へ、千鶴を嫁に欲しいと告げたらどうなるだろうか。
ここまで来た道を、一人ではなく二人で戻るのだ。
幹部の妻帯は最近許されるようになったし、近くに家を借りて二人でそこに……
ふいに『ドドン!』という大きな太鼓の音がして、想いの中にさまよっていたその時の斎藤は、はっと我に返った。
前を見るとすでに山車は出尽くして、観客たち散り始めている。
祭りは終わったのだ。
もう決めたことだ。
斎藤は心の中で、あの時西国藩で出ていく山車を見ながらつぶやいた言葉を同じ言葉を、今、八分咲きの桜の木々を眺めながらもう一度つぶやいた。
もう少しここで時間をつぶしてから帰ろうと、斎藤はゆっくりと歩く。
このあたりは日当たりがいいのか桜が満開に近く咲いている。近所の者や仕事途中らしき者たちも歩きながらの花見をしているようで、、そこの川べりはいつもよりも人通りが多かった。
ふと、視線を感じて、斎藤はあたりを見渡した。
左右の人たちはみな、おしゃべりをしながら、忙しそうに、のんびりと、それぞれに歩いているが、斎藤を見ているものはいない。
だが確かに視線を感じる。
斎藤は立ち止まると、刀に腕をかけて振り向いた。
そして視界に入ってきた姿に驚く。
「千鶴……」
斎藤よりも驚いた顔をして、立ち止まっている。
先ほどまで頭の中で思い浮かべていた千鶴が、本当にそこに立っていた。