【三番組組長道中記 15】





「ちっ千鶴!」
上ずった斎藤の声。
驚きのあまり斎藤の腕は空中で固まったままだ。
「斎藤さん、今夜だけ、今夜だけ、お、思い出が欲しいんです。もう会えないかもしれないし、このまま何もないまま会えなくなってしまうのは嫌なんです!決してご迷惑はおかけしないので、お願いします…!!」
何をお願いするのかは、これだけ体を押し付けてくればさすがの斎藤でもわかる。しかし斎藤の頭は真っ白だった。
「ま、待て千鶴落ち着け」
「いやです!落ち着いたら、斎藤さん出て行っちゃうでしょう?お願いします!」
恥ずかしさに気絶しそうだったがもう後には引けない。千鶴はさらに体を押し付けた。
ぐいぐいと押しの一手の千鶴に、斎藤の足がよろめく。
「あっ」
という声を上げる間もなく押されて斎藤が倒れ、そのうえに千鶴が転がった。ゴツンと鈍い音がして「うっ」という斎藤のうめき声が聞こえる。はっとして千鶴が見ると、斎藤の頭が刀掛けの角にあたったようで斎藤が手で頭を押さえていた。
「斎藤さん!大丈夫ですか?すいません私……!!」
千鶴が身を乗り出して頭の方をのぞき込むと、柔らかなものに顔面を押しつぶされた斎藤が慌てて千鶴を押しのけた。
「大丈夫だ。ちょっと……ちょっと降りてもらえるだろうか」
下りずにそのまま押すべきだと千鶴は迷ったが斎藤の頭が心配だ。千鶴は素直に斎藤の体の上から降りた。斎藤が転んだところはちょうど彼の布団の上で、頭以外はそれほど痛めていないだろう。
斎藤はとりあえず倒れた刀掛けをたて、その上に刀を置き、そして隣にちょこんと正座している千鶴を見た。
千鶴は気まずすぎて消えてなくなってしまいたかった。だがここまで来て引き下がるわけにはいかない。
「斎藤さん……」
意を決してさっきの告白の続きをしようとしたとき、斎藤に止められた。
「言うな」
「私、斎藤さんが……え?」
夢中になって続きを言おうとしていた千鶴は聞き返す。
「……」
斎藤はじっと見てくる千鶴の視線を避けるように、部屋の窓の方を見た。打った頭を押さえていた手で髪をかき上げ眉間にしわを寄せて何か考えているようだ。
「あの……」
「すまなかった」
「え?」
「二人きりで旅をして、少しなれなれしくしすぎたのかもしれん。夫婦の振りなどさせたから余計にだ」
なぜ斎藤が謝るのか千鶴にはわからない。
「私は……嬉しくて……」
幸せだったのに。なぜ謝るのだろう。まるで間違いだったとでもいうように。
斎藤は静かな瞳で千鶴を見た。
「勘違いをしたのだ。まだお前は若い。男にもなれていない。こういう……二人旅という特殊な状況で、屯所からの知り合いである俺に親近感を抱くのは当然のことだ。そしてそれをその、恋やそのほかの想いと勘違いをするのも当然だ。もう少し節度をもって接するべきだったと反省している」
千鶴の紅潮していた頬は、どんどん冷たくなっていった。表情も固くなる。
「勘違い……じゃないです……」
「自分でそう思い込んでいるだけだろう。忘れろ」

断られてるんだ……

あからさまな拒否に、千鶴の胸はざっくりと傷ついた。喉の奥からせりあがってくる苦いものを必死でのみこむ。
思っているのは私だけだった。期待なんかはしていなかったけれど……でも今、心が冷たく固くなっていくのはやはり少し期待していたのだろうか。『俺も好きだ』と、『大事に思っているから京へともに帰ろう』と、そう言ってくれると期待していたのか。
千鶴はじわじわとにじみ出てくる涙を、唇をかんで我慢しようとした。
「私の、気持ちを……わ、忘れれば、一晩の情けはかけてもらえるのでしょうか?」
「千鶴……」
斎藤が大きくため息をつき、千鶴は肩をすくめた。
「女子がそのようなことを言うものではない。将来他の男と夫婦になるとき後悔するぞ。それに子供ができたらどうするのだ」
「斎藤さんにはご迷惑はかけないです。す、好きとかそういうことはもういいません。だから……」

ぽろぽろと大きな瞳から涙をこぼす千鶴を、斎藤は見つめていた。正直なところ伸ばしそうになる手を、血がにじむほど握りしめている。
慰めるためとはいえいま彼女にふれたら、自分を止めることはできないだろう。
やわらかそうな桃色のくちびるに自分のくちびるをおしつけ、涙を舌で拭い、体温をわけながら、旅の初めから知りたいと思っていた彼女の全身を自分の体で確かめることになる。
自分の熱くなっている体に組み敷かれた彼女の白い肌は、さぞかしなめらかに違いない。柔らかく暖かく触れるうちにほどけていく……
今後のことは後で考えればいい。今自分は気が狂いそうなほど全身で彼女を欲している。彼女も同じ思いだと、女子の身でありながらも伝えてくれたのだ。抱きしめて深く深く彼女を味わうことになんの問題がある。
一方で、今の衝動に負けたそのあとに残るものについても、斎藤はわかっていた。
京にもどれば巡察に捕り物、土方からの直名による暗殺。明日をも知れぬ日々が自分の仕事だ。待つ身にはつらいだろうし、自分のような男に妻子を養い幸せな日々を送る資格があるとは思えない。命を惜しんでできるような仕事ではないのに、千鶴のような妻ができればどうしても惜しんでしまうだろう。そして自分が殺してきた分だけの報いを受けた後、残された千鶴はどうなるのか。もっと悪ければ斎藤に殺されたことを恨みに思った仲間たちから千鶴が狙われることだとてありうるのだ。
だが、娶らずに抱くことなど斎藤にはできない。そんなことをするには、斎藤は千鶴を知りすぎ、いとおしく思いすぎていた。
斎藤にとって、千鶴は男が軽々しく手をだし、一夜の思い出として扱っていいような女子ではないのだ。それは斎藤がその「男」だとしても同じことだ。
斎藤は大きな瞳を潤ませてこちらを見ている千鶴を見た。

新選組に来たばかりのころはガリガリで少年のようだったのに。
今では柔らかな肩の輪郭や白い肌、長い睫から清潔な色気がにおい立っている。斎藤でさえもクラりとするが、だがしかし斎藤は彼女が屯所でどれだけ頑張っていたか、一生懸命だったか、やさしく思いやりがあったか知っている。
彼女には同じような扱いをうける十分な資格があるのだ。

「……もう寝るといい。俺は今夜は外で過ごす」
斎藤はそういうと、刀を持ち千鶴を見ずにふすまを開けて部屋を出ていった。少しでも彼女と会話を交わせば、もう出ていけなくなってしまうということはわかっていた。彼女と目が合ったら。
きっと自分の心を隠しておくことはできないだろう。
だが告げることはできない。彼女の幸せを思えば。若い娘の一時の気の迷いにつけ込むようなことはできない。
後ろ手に閉めたふすまの向こうで、小さくしゃくりをあげる声が聞こえた。



泣きはらした目の周りがひりひりと痛い朝。
千鶴はずきずきと痛む頭で、朝の身支度をした。斎藤はいないから着替えも気にせずにできる。千鶴は勝手場でおにぎりをもらうと部屋で黙々と食べた。
がやがやと出発の準備でにぎわっている玄関あたりで行商のみんなと会う。
「あんたたちはもう旅も終わりだね。会うこともないだろうけど旦那と仲良くやりなよ」
明るく言われて、千鶴は泣きそうになった。そうだったらどんなに幸せなことか。彼の妻の芝居の間はとても満ち足りていたが、今となっては残酷な思い出だ。しかしなんとか笑顔を作ってうなずく。
「あんたの旦那、外の荷物置き場に犬といたよ。じゃあ私らは先に出るから」
「ありがとうございました、いろいろと」
千鶴はお辞儀をして行商の一団を見送った。胸が痛くて頭が重くて。でも朝日は昇るのだ。斎藤と一緒に最後の旅路をたどらなくてはいけない。
先ほど気づいたが、千鶴は屯所で使っていた手ぬぐいを昨日の神社に忘れてきてしまった。出発前に取りに行こうと、千鶴は外に出た。外の荷物置き場を見ると、斎藤が仔犬のそばにしゃがみ込み頭をなでている。斎藤の表情も千鶴と同じく寝不足で暗いように見えるのは、千鶴の気のせいではないだろう。
だが仔犬は斎藤がそばにいるのがうれしいのかはしゃいで転がってしまう。それを見た斎藤が、ふっとほほ笑んだのを見て、千鶴の目にまたもや涙がにじんだ。
やさしい微笑み。斎藤のあの笑みを見ると千鶴はいつも緩やかで静かな風を感じる。彼の周りの空気はいつも澄んでいるようなそんな透明感がある。
あのやさしそうな蒼い瞳に映る自分を見るのが千鶴は好きだった。だがもうそれも二度とないのだろう。
これがいわゆる『失恋』というものなのかと、千鶴はどこか麻痺したような心で思った。斎藤にとっては千鶴は女として魅力などないのだ。隊命で仕方なく付き添いの護衛をしていただけなのだ。それを恋だと勘違いしたのだと、昨夜の斎藤は言っていたではないか。
千鶴の心はズタズタだったが、これ以上変な態度をとって斎藤に迷惑をかけたくはない。
千鶴はこみあげてきた涙をごくりとのみこむと、まっすぐに前を向いて斎藤の方へ歩き出した。
「千鶴…」
気づいた斎藤の表情が笑みから微妙に気遣うようなものに変わる。千鶴の胸は痛んだが無理をして笑顔を作った。
「……おはようございます。あの、私手ぬぐいを昨日の神社に忘れてきてしまって。ちょっと取りに行ってきます」
「そうか。いやそれなら俺が取ってこよう」
「いいんです。斎藤さん、あの、部屋に荷物が置いたままなので……朝の準備もできなかったですよね。ゆっくりしていてください。その間に私、取ってきます」
「いや、では少し待て。したくを整えたら俺もついていこう」
「いえ、大丈夫です。ちょっと走ってすぐに帰ってきますから」
「千鶴……」
呼び止められたのを無視して、千鶴は強引に門の外に出た。斎藤も、昨夜の今日で気まずい千鶴の気持ちを察してくれているのか、それ以上強くは言わない。それをいいことに千鶴はそのまま小走りに神社に向かった。なんとか会話を交わせたことに安心した。この調子でいけば今日一日を乗り越えられるだろう。

手ぬぐいをもって、昨日の効能のある湧き水を無駄にしちゃったな……とぼんやり考えながら千鶴が帰り道をあるいていると、どこからから小さな叫び声が聞こえてきたような気がした。
「……?」
千鶴は足を止めて回りを見てみるが、特に何もいない。気のせいかと歩き出したとき、今度はドサッと何か大きなものを地面に投げ落とすような音がした。直後に男の叫び声。「うわあああ!」「あんた!」
男の叫び声の後に聞こえてきたのは、女の声で、どこか聞き覚えがあるような気がする。千鶴は、声のした方に向かって足を速めた。道の脇の林を入っていくと小さな廃寺がありそこの境内に何人かの人影が見える。見事な桜の木が、忘れ去られた寺に花をまき散らしている。
その桜の舞い散る中に立っている男が四人。地面に倒れている男が二人に、座り込んで後ずさりをしているのが一人。その後ろに女が一人。
大きな荷物が地面に転がって、男が一人その荷物をあさっている。
「これで全部か?」
「お金は、お金は持って行っていいから命だけは……!」
「これで全部かと聞いてるんだ!命が惜しいんなら金のありかを言え!」
立っている男がすらりと腰から刀を抜いた。
「!!」
木の陰から見ていた千鶴は息をのんだ。あの人は、前になんどか一緒になった目つきの悪い四人組だ。あの峠の山小屋で話しかけてきた嫌な感じの…。そして地面に倒れているのはお世話になった行商の一団の中の数人ではないか。

千鶴はすぐに立ち上がると身をひるがえした。宿に帰って知らせないと。東海道、西国街道沿いには道中の治安をまもるために地元の住民が自警団をつくったり腕に覚えがある浪人を雇い治安維持にあたらせている。あの宿屋にもそういう人がいるはずだ。
走り出そうとした千鶴は、足元にあった大きな石に気づかずに転んでしまった。
冬の間の枯葉と枯れ枝が、ガサガサ!と大きな音を立てる。千鶴がはっとして境内の方を見ると、立っていた四人組がこちらを見た。

見つかった……!

千鶴は慌てて立ち上がると走り出した。
「お嬢ちゃん!」
行商の女の叫び声が背後に聞こえる。「見られたぞ!殺せ!」仲間の男の声も聞こえる。千鶴は自分の心臓の音が耳の奥で大きく鳴っているのを聞きながら必死で走った。すぐ後ろにガサガサッという大きな音がせまってくる。
「あっ!」
カチャリという刀の音を聞いて、千鶴はよけようと反転した拍子に地面に転がった。
見上げると男が一人、刀を持って立っている。
新選組で見慣れている千鶴には、男の刀の持ち方が武士のものではなく型などなにもないものだとわかった。物盗りのため、自分たちの欲のためにふる刀だ。大義も志も何もない。事実男の目には、弱い獲物を追い詰めたという嗜虐性の光しかなかった。
「かわいそうにな、若いのに。いらんもんを見ちまった自分の運の悪さを恨むんだな。あの行商の一団は京からずっと後をつけて金をもうけるのをじっと待ってたんだ。わかるか?収穫なんだよ、今が」
「……」
じり、と近寄ってくる男に、千鶴もじり、と座りながら後ろに下がる。圧倒的に有利という油断から気持ちよく話している男の隙をついて、千鶴は手のひらに掴んだ土や枯葉を男の目を目がけて投げつけた。同時に立ち上がり走り出す。
「わっ!この…!」
男がやみくもに伸ばした手に、運悪く千鶴のたもとがふれてしまった。力任せに引っ張られ、千鶴は再び地面にひきたおされる。
「きゃあ!」
思わずあげた悲鳴と同時に、男が刀を自分の上に振り上げるのが見えた。

もうだめ……!

観念してぎゅっと目をつぶる直前に、視界の端に茶色の矢のようなものが一直線に走るのが見えた。
「ぎゃあ!」
それと同時に男の叫び声。驚いて千鶴が目を開けると、男が自分の片足を必死で振り回している。
乱暴に蹴り飛ばそうとしているその足首には、あの仔犬がかみついていた。
「わんちゃん!」
「この…!クソ犬!離せ!」
男が足にかぶりついている犬を蹴り飛ばし、仔犬は「キャン!」という鳴き声とともに蹴り飛ばされ近くの木にぶつかって倒れた。「わんちゃん!」駆け寄ろうとした千鶴の襟首を捕まえて、男は今度は本当に忌々しそうに引き倒した。
「とっとと殺してやる!」

振り上げが刀が振り下ろされる直前、男の背中から血しぶきが散った。
「!」
千鶴が目を見開いてみている目の前で、男は驚愕の表情でゆっくりと倒れていく。
その後ろにいたのは、抜き身の刀を構えた斎藤だった。







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