【三番組組長道中記 14】




「飲みます、私……!」
妙に真剣な顔でそういわれて、斎藤は面喰ったようにうなずいた。
「ああ……そこに柄杓がある。それで飲むといい」
「は、はい!」

千鶴の頭は、これまでになくらいクリアになった。
これまでの旅でのもやもやに、すべて一本線がとおり、わかった気がする。
そしてこれから千鶴がどうするべきなのかも。

斎藤さんとの赤ちゃんが欲しい……!

千鶴は手に持っていた柄杓で湧き水を汲むと一息に飲み干した。胸元から手ぬぐいをだして口元をぬぐう。
千鶴の様子に斎藤はキョトンとしていた。たかが湧き水を飲むくらいで何をそんな気負っているのかと思っているのだろう。斎藤は先ほども言っていたが「飲めば孕む」などとは迷信だと思っているのだ。
もちろん迷信だろう。同衾もせずに子を身ごもることなどありえないということは千鶴でもわかる。
でも。
もし同衾したら……?

夫婦になっても子供に恵まれない夫婦もいるし同衾したからといって必ず身ごもるわけではない。
でもこの水を飲んで同衾したら……この立札の言わんとしているところは、そうしたら身ごもるよ、ということではないだろうか。
「さ、斎藤さん、は、飲まないんですか?」
「そうだな……特に喉は乾いていないのでな」
「で、でも……こんな機会めったにないですよ?それにおいしかったです。飲んでみたらどうでしょう?」
「ふむ」
考えるように腕を組んでいる斎藤を、千鶴はハラハラしながら見た。
双方飲んだらさらに完璧になるはずだ。

『精、みるみるうちに湧くが如く発せられ意気ようようと挑まんと幾度も……』

先ほどの立札の文言を思い出して、千鶴は真っ赤になった。何度も挑まれる自分を想像して転がりまわりそうになる。

「そうだな、飲んでみるか」
斎藤の答えを聞いて、千鶴は動揺のあまり柄杓を落としてしまった。
「あ、ああ!すいません…土が……」
「いや、いい。そのまま飲む」
斎藤は手で水をすくうとごくごくと飲んだ。そして味わうように目を泳がせる。
「なるほど……普通の水より……なんというか飲みやすいというかなめらかというか……うまいというのかどうかはわからんがどこか違うな」
味の分析をしている斎藤の言葉は、千鶴の耳には入ってこなかった。食い入るように斎藤の口元を見てしまう。
「ど、どうですか?何か……何か……」
変わりはないか、と聞きたかったのだが、斎藤は首を傾げただけだった。「いや、まあ、いい体験だった」
「……」

「ワン!」
神社中を探検してきたのかあちこちに葉っぱや木の枝をつけた仔犬が戻ってきた。
「そろそろ行くか?」という斎藤に、千鶴はうなずいた。


斎藤は前に、妻をめとることはないと言っていた。
となると、千鶴に残された手はこれしかないのだ。幸い子供を身ごもったことが分かったころには斎藤はもう京にいるだろうし、千鶴がそのことを知らせなければ斎藤には知る手段はないので彼に迷惑をかけることもない。
そして千鶴には、好きな人との一夜の思い出と、彼との子供が残る。
結婚もしていないのに身ごもったことが騒動になるほどの身分でもないし、綱道は驚くだろうが追い出しまではしないだろう。蘭方医などとは家業として成立もしていないから家を継がなくてはいけないということもない。
子どもがもう少し大きくなれば、千鶴も働けばいい。お城なら女性でも仕事はいっぱいあるだろう。

そうして一人で斎藤さんの子どもを育てていこう……!

千鶴の気持ちは浮き立った。
男の子だろうか女の子だろうか。どちらにしても彼に似れば、涼やかな美しい子であるに違いない。そして何事にも控えめだが芯は強く、己の中にある信念は決して曲げない子になるに違いない。

男の子だったら剣をならわせよう!

新選組で一二を争う剣の使い手なのだ。きっと息子だったら才能があるに違いない。
千鶴の夢は勝手に広がった。さっきまで斎藤との別れが近くなって鬱々としていた気分が一転する。

でも、その前に斎藤さんに……その、そういうことをしてもらわないと。
どうやればその気になってくれるんだろう?

わからないが、今、斎藤への気持ちに気づいたことも、たまたま赤ん坊をはらみやすい水を飲んだのも、今夜がたまたま同室なのも、これはもう天啓としか思えない。
ようやく気が付いた自分の思いに夢中で下を向いて歩いていた千鶴は、斎藤に名前を呼ばれて顔をあげた。
「はい?」
斎藤は少し前で立ち止まり、あの千鶴の好きな微笑みでこちらを見てくれている。
その顔を見て千鶴の胸は切なく痛んだ。ああ、斎藤さんが好きだ。彼のこのまなざしやすっとした立ち姿。涼やかな視線。もう見ることもできなくなると思うと、喪失感に胸が痛む。
「千鶴、あちらを見てみろ」
斎藤はその微笑みのまま、谷側の方を指さした。
幾重にも重なった山が下に見え、その山肌はけぶるようなピンク色に染まっていた。

「あ……」
「山桜だな。もうこちらは春なのだろう」

桜……

京の桜よりもピンク色が濃い。気づいて周りを見ると、今降りている山にも桜が咲き乱れていた。
風が吹き花びらが舞い上がる。
千鶴はくるくると狂ったように乱舞する花びらを見上げた。夕暮れの空に、それは幻想的な光景だった。
「すごい……」
「ああ」
千鶴と斎藤は視線をかわす。言葉はなくても思いが通じるような感覚。

言葉にならない感動を、分け合えてよかった。

お互いに心の中でそう思いながら、二人は日が沈むまで桜の谷を見つめていたのだった。




夕飯行く前に部屋で荷をほどいたり片づけをしている間も、千鶴はちらちらと部屋の反対側にいる斎藤を見てどうしようかと考えていた。
屯所で新八や原田たちが話していた『女の話』を思い出してみるが、肝心なところは聞かせてもらえていなかったので参考になりそうなところがない。それに島原のような場所は、男性もその気になった時に行く場所なのだから、その気のない男性をその気にさせるようなことはあまりないのではないだろうか。
では夫婦のようにふるまえばいいのだろうか?斎藤の身の回りの世話をしてお風呂で背を流してあげたり?
「……」
千鶴は斎藤を見て、ため息をついた。
旅慣れた斎藤はすでに自分の荷物はきっちりと整理し終え、今はてきぱきと二人の間の目隠しになるように衝立を部屋の真ん中に移動させている。風呂は共同だからもちろん千鶴が斎藤の背を流すこともできないし。妻のように斎藤の世話を焼くどろこか、千鶴自身の荷造り自体がまだぐちゃぐちゃの状態だ。
「この宿には衝立があるんですね……」
残念、という気持ちを込めていったのだが、斎藤は妙に嬉しそうだった。
「そうだな。これなら上から着物をつるすよりもいい。下の部分から転がってこれないからな」
「下から転がる……?」
何を言っているのかと千鶴は首を傾げたが、斎藤は「いや、こちらの話だ」とゴホンとごまかすように咳をした。

「斎藤さん、あのう……」
夕飯の席で、千鶴は迷いながら言った。
「なんだ?」
「その……今夜は夫婦として同室じゃないですか?」
「ああ」
「その……夫婦ってどんなことをするんでしょうか?」
色っぽい話を、斎藤がそういう気になるような話題は……と千鶴は知恵を絞った結果の質問だ。
「夫婦がどんなことを…か。俺も夫婦になったことはないからな、よくは知らんが、俺の両親はよく一緒に茶を飲んでいたな」
「お茶ですか」
違う。
そうではない。
のだが、どうやって話をもっていけばいいのかわからない。
「私、そのう……妻の仕事に興味があって」
しどろもどろに千鶴がそういうと、斎藤は芋の煮っ転がしを食べながらうなずいた。
「そうだな。お前も世間では年頃だろう」
「そうですよね。その、斎藤さんはいろいろ知ってると思うし、その、今はちょうど夫婦として同室ですし、斎藤さんにいろいろ教えてもらえたらって」
清水の舞台から飛び降りる気持ちで必死に言った言葉だったが、斎藤には気づいてもらえない。
「教えるといっても俺も夫婦になったことがないからな。申し訳ないが」
理路整然と返されて、千鶴は「そうですよね」と笑うしかなかった。しかしここであきらめてはこの千載一遇のチャンスを逃してしまうことになる。千鶴はさらに食い下がった。
「あの、斎藤さん、もう最後ですしお酒でもいかがですか?」
こうなれば斎藤の理性を麻痺させるしかない。女としてのプライドが傷つくが、この際かまってはいられない。
千鶴が女中さんを呼び寄せようとすると、斎藤に止められた。
「いや、最後とはいえ隊務中だ。酒は遠慮しておこう」
「……」
もう打つ手がなく、千鶴はあきらめるしかなかった。


千鶴が風呂から部屋に戻ると、斎藤はいなかった。
風呂に行っているのだろう。
千鶴はふうっとため息をついておろした髪を櫛でとく。
どうやって誘惑すればいいのだろうか。やり方がわからない。たとえ、ここで着物を脱いで裸で斎藤を待っていたとしても、無言でふすまを閉めて「失礼した」と表情を変えずに去っていきそうだ。経験もなく女子トークもしたことがない千鶴には、もうどうしたらいいかわからない。
「千鶴?いいか?」
廊下からちょうど考えていた斎藤の声がした。ふすまを開ける前に、千鶴にきちんと大丈夫か確認をとってくれる斎藤の気づかいだ。
「は、はい!!」千鶴は驚いて立ち上がり、ふすまを開ける。と、なぜか斎藤が驚いたように目を見開き、一歩後ずさった。
「お帰りなさい。いいお湯でしたか?」
千鶴は斎藤の様子には気づかずに、にっこりとほほ笑んだ。
「あ、ああ……」
斎藤の様子がどこか変だとは思ったが、千鶴には理由がわからなかった。視線をあわせてくれず素早く部屋の反対側に行ってしまったのが少し変だなとは思ったが。
気にせず荷造りを続きをしていると、斎藤が独り言のように言った。
「その……髪をおろしているのだな」
「え?あ、ああそうですね。すいまぜん、見苦しかったですね」
千鶴が慌てて結い紐でまとめているのを、斎藤はどこかぼんやりとした表情でみている。
「いや、見苦しいというか……初めて見たので、その……」
「お風呂あがりだったんでつい。すいませんでした」
「いや、謝るようなことではない。……そうだな、ふ、風呂上りなのだからな……」
「?斎藤さん?どうしたんですか?様子が変ですよ」
千鶴が立ち上がって斎藤のそばに近寄ると、斎藤は慌てて立ち上がった。
「いや、大丈夫だ。今日は、……今日は早く寝るとしよう」
強引にそう言うと、斎藤はてきぱきと布団を敷きだした。
どうやってそういうムードに持っていくかわからないなりにもいろいろやってみようと思っていたのに、これではなにもできないではないか。かと言って「明かりを消してもいいか?」と言ってくる斎藤に拒否する言葉も理由も浮かばない。
部屋はあっという間に暗くなり、斎藤は衝立の向こうで布団をかぶって眠ってしまった。
千鶴はぺたんと座ったまま途方に暮れた。



夜中、千鶴はいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
隣から聞こえてくる衣擦れの音で目が覚めた。
寝ぼけ眼で千鶴が耳を澄ますと、どうやら斎藤が起きだしているようだ。
「……斎藤さん?どうかしましたか?」
眠っているはずの千鶴が話しかけるとは思っていなかったようで、斎藤がギクリとした雰囲気が伝わってきた。
「斎藤さん?」
「……いや、なんでもない。起こしてしまったようですまなかった。お前は寝ていてくれ」
「どうしてすか?何か……」
こんな夜中にいったいどうしたのかと、千鶴も起きだす。暗闇に慣れた目で衝立の向こうを見ると、立ち上がった斎藤が部屋を出ていこうとしていた。
「斎藤さん、どうして……どこに行くんですか?」
斎藤はなぜか警戒したように千鶴を見る。「いや、その、少し眠れないのでな。外で体でも動かしてこようかと思ったのだ。お前は寝ていてくれ」
「さ、斎藤さん!」
いまだ!と千鶴は思った。今を逃せばもうチャンスはない。もう小手先のテクニックやらその気にさせる会話やらは無理だ。ここで自分の気持ちをぶつけておかなければ、千鶴は一生後悔する。
千鶴は立ち上がると、斎藤の近くまで歩いた。
「ど、どうしたのだ、千鶴。夜はまだ寒い、布団に……」
どこか逃げ腰の斎藤の腕を、千鶴はつかんだ。

「さ、斎藤さん、私……私、斎藤さんが好きです」

斎藤の切れ長の目が見開かれるのが、暗闇の中でもはっきりと見えた。
昼間ならあの蒼い瞳が見られたのに…と、千鶴は必死な頭の片隅でちらりとそう思った。
斎藤がどんな反応をするかなどと考える余裕はもう千鶴にはない。

千鶴はぎゅっと目をつぶると腕を伸ばして斎藤に抱き付いた。







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