【シンデレラの指輪 9】
季節はすっかり冬、街が徐々にクリスマスカラーに染まるころ……
夕方、そろそろ仕事も終わろうかという頃に、総司がレコーダーを持って斎藤に言った。
「今日も千鶴ちゃんを会うんだよね?千鶴ちゃんの声を録ってきてくれないかな?」
渡された薄型高性能のレコーダーを見て斎藤は首をかしげる。
「これは?」
「ほら、いつだったか…かなり前にみんなで話したときに、シンデレラの靴の認証話になったじゃない?」
「ああ、あの指輪の話か?」
「そうそう、それで試作品を今平助と研究開発の奴らとで作ってるんだけど、記念にプロトタイプの声紋認証は発案者の千鶴ちゃんにしようかと思ってさ。で、斎藤君から彼女に贈る、と。ロマンだね〜。開発にはまだ時間はかかるけどとりあえず声だけは欲しいんだ。今日もらっておいてよ。自分の名前とか適当な言葉をお願いできる?」
斎藤は、受け取ったレコーダーを総司に返した。
「申し訳ないが、多分千鶴は今日は来ないだろう」
「そうなの?じゃあ明日でもいいよ」
「いや、多分明日も無理だ」
平日はほぼ毎日千鶴にはアルバイトがあって、帰りはいつも斎藤が左之から借りた車で送っていたはずだ。総司は探る様な目で斎藤を見る。
「……ケンカした?別れちゃったとか?」
「別れるなどと……別にそういう、そういう風につきあうとかそういうことは、そういう関係ではない。いつかは言わなくてはと思っているが……いや、今はその話ではなく、そうではなくてだな、彼女から連絡があって悪性の風邪をひいているようなのだ。もう3日以上になるが、まだ熱が下がらないらしい。アルバイトもそう言う訳で休むと」
斎藤と千鶴は、家まで夜送って行くようになってそれぞれの連絡先をようやく交換した。千鶴は携帯電話をもっていないため家電だが。斎藤の携帯に、風邪だという連絡があり、その後何度か斎藤からも彼女の家電に電話をしているが、ひどい声だ。今、声の録音をしてもそれは声紋認証にはつかえないだろう。だから声の録音はまた別の機会に、と総司に言うと、斎藤も帰り支度を始めた。
千鶴が来ないのなら会社に遅くまでいる必要もない。ちょうど明日は週末だし、斎藤は千鶴に見舞いに家まで行こうと思っていた。
今日千鶴に電話した時にそう告げると、千鶴は来なくてもいい、大丈夫だと言っていた。しかし、熱はまだ38度後半で、食べるものもほとんどないらしい。食欲がないからちょうどいいですと言っていたが、それではよくなるものも治らないではないか。
仕事帰りにそちらに行くと重ねて言うと、珍しく千鶴は受け入れる様に『……すいません、ご面倒をおかけして…』と言ってくれた。
いつもは甘えない彼女が、初めて言ってくれたその言葉が嬉しくて、斎藤は思わず携帯電話を持ったままじ〜んと喜びを噛みしめてしまった。
そういうわけで、斎藤は一旦となりのタワーにある自宅に戻り、着替える。濃いブラウンの細身のチノに、ざっくりとした黒のニットを着て、同じくタワーにある高級スーパーであれやこれやとはりきって買い込むと、タクシーで千鶴の家へと向かったのだった。
呼び鈴やインターホンを探したが、見当たらなかった。
それどころか一度強く叩けば扉自体が外れそうだ。斎藤は迷った末にノックをする。
廊下に面した窓から、中でパッと明かりがついたのが見え、しばらくするとカチャリという音と共に千鶴が扉を開けてくれた。
顔は熱のせいで上気して目がトロンと潤んでいる。立っているのもつらそうで、斎藤は顔をしかめた。すぐに部屋に入り、千鶴をベッドに寝かせる。
「病院は行ったのか?」
YES
「食事は?」
NO
「薬は?」
NO
「台所を借りるぞ」
斎藤はそう言うと、返事を待たずに台所に向かった。
コトコトコト…という静かな音と暖かな匂いが漂ってきて、千鶴は夢うつつながらも心が安らぐのを感じた。一人で熱に浮かされていると寂しくて寂しくて、この世に一人しかいないような気分になってくる。
実際親族は皆いなくなってしまったし一人きりなのだ。このままここで死んでも誰も気づかないかも…いや、同じアパートの千は気づいてくれるかもしれないが、今彼女は卒業展の準備とやらで学校や友人宅に泊まり込みでがんばっているようでほとんどアパートには帰ってきていないのだ。バイトも何日も休んでしまって首になってしまうかもしれないし、授業の単位は大丈夫だが試験のための勉強がまったくできていない。寂しくて心細くて、頭も痛いし気持ちも悪いし……で、しくしく泣いていたときに、斎藤から電話があったのだ。
忙しい彼に看病などさせるわけにはいかないとは思いつつ、弱っていた千鶴は甘えてしまった。
狭い部屋の狭い台所で何かを作ってくれている様子の斎藤の背中を見ながら、千鶴は甘えてしまった自分を反省する。
今日だけ……今日だけだから
自分にそう言い訳をしていると、斎藤が振り向き小さな一人用の土鍋を持ってやってきた。
「鍋焼きうどんを作った。かなり少なめに作ったから食べてみろ」
正直食欲はまったくなかったが、ここ三日間栄養補給のゼリー飲料以外食べていない。さすがに何か食べなくてはと思い、千鶴は素直に起き上った。
こんなに食べれるかな、と不安に思ったうどんは、全て千鶴のお腹に納まった。
あっさりした味付けで暖かくて、千鶴は自分の額に汗が浮かんでいることに気づく。
「大丈夫か?気持ち悪くは無いか?」
優しく聞いてくる斎藤に、千鶴はぼんやりとうなずいた。実際、食べ多分少し元気になったような気がする。
「あの、すいませんでした。ありがとうございます」
声を出すと喉が痛く、自分の声とは思えない。案の定斎藤は眉をしかめる。
「薬を飲んでまた寝た方がいい。熱は……」
そう言うと、斎藤は無造作に手を伸ばし千鶴の額にその大きな手をあてた。
ひんやりとした斎藤の手を感じて、千鶴は目を見開く。
熱とは別の意味で頬が紅潮するのを感じた。斎藤はというと、手のひらで千鶴の熱を計る方に神経を集中させているようで千鶴の様子には気づいていない。二人はバイトの時に毎回会っていたが、まだ手も握ったことがないのだ。千鶴の部屋はただでさえ狭いのに、手で触れるために体を寄せて……千鶴はこんな状態なのにドキドキしてしまった。
「……まだ熱はあるな。ちゃんと寝て……」
そこで斎藤はようやく千鶴の様子に気づく。
「あ、ああ……すまない」
パッと額から手を取り、斎藤は少し体を離す。
「いえ……」
「……」
二人ともなんと言えばいいのかわからず、妙に気恥ずかしい空気が流れた。
これまでもこういう雰囲気になったことはあるが、こんな密室で二人きりで…というのは初めてなのだ。
「早く…早く寝た方がいいな」
「は、はい」
斎藤の言葉に甘えて、千鶴は立ち上がるとうどんの入っていた土鍋を持ち上げ台所に運ぼうとする。
「いや、そんなことはしなくていい。俺が……」
斎藤が止めようとして伸ばした手は千鶴の手に触れ、土鍋がガチャンと音を立てる。
こぼさないように斎藤が慌てて千鶴の手の上から土鍋を抑えた。
結果二人は、立ち上がった状態で千鶴が土鍋を持ち、その千鶴の両手を斎藤が上からおさえるという体勢になってしまった。
「……」
これまでにない至近距離で目があい、千鶴は目を見開いたまま斎藤を見上げた。
斎藤の蒼い瞳は深く輝いて千鶴の瞳を射抜くように見つめる。
そしてその視線はゆっくりと千鶴の頬をすべり、ほんの少し空いたままのピンク色の唇へと移動する。
これまでにそんな経験はないのに、千鶴は斎藤が何を考えているのか、何をしようとしているのか何故かわかった。
キスされる……
ゆっくりと近づいてくる斎藤の唇に、千鶴は期待と不安で押しつぶされそうだった。斎藤の体を手で押さえようとしても、土鍋を持っているために身動きが取れない。
自分のドキドキいう心臓の音がうるさい位に耳に響く。
「……風邪がうつります…」
小さな声で言ったこの言葉が千鶴にできる最後の抵抗で。
「かまわない」
当然ながらその抵抗はあっさりと斎藤に無効にされてしまったのだった。
その夜、千鶴は熱に浮かされて眠ったり起きたりを繰り返した。合間合間でファーストキスを想い出す。パジャマにカーディガン姿で土鍋を持ってすっぴんで…という状況を斎藤はどう思ったかと考えるとのた打ち回りたいほど恥ずかしい。
おでこにあたるひんやりした手の感触にうっすらと瞳を開けると、斎藤が枕元で心配そうに見つめているのが見える。
泊まってくれたんだ……
心細くて寂しかった気持ちが消えていく。
斎藤一人がいてくれるだけで、千鶴は強くなれる気がした。この部屋で見る斎藤は、いつものきらびやかな環境ではないせいか妙に身近に感じられて甘えたくなる。
千鶴は熱でぼんやりした頭のまま手を斎藤の方に差し出した。斎藤は少し驚いたようだが、握り返してくれた。
千鶴は守られて安心する気持ちを、久しぶりに感じた。こんなに……何もかも預ける様に安心するのは、多分両親が死んでから初めてだろう。
かろうじて踏ん張っていた最後の気持ちも、今夜すべて斎藤に持って行かれてしまったように感じる。もう止められない自分の気持ちを感じながら、千鶴は再び眠りについたのだった。
結局週末ずっと斎藤が泊まって看病してくれた。
そして何度かキスもした。
もちろん千鶴はまだ熱があったから、そんなに熱烈なキスではないが。
日曜の夕方、千鶴の熱がようやく下がり、斎藤は自分の家に帰ることにする。
週末の間も千鶴が眠っているときに、斎藤は一旦自分の家へ帰り、シャワーを浴び服を着替え、スーパーで食材を買い出ししていた。千鶴の小さな冷蔵庫は、斎藤が買って来た病後の体にいい消化がよくて栄養価の高いものがぎっちり詰まっている。
「では今夜はゆっくり眠るといい。明日の朝には治っているだろう」
狭い玄関で体を折るようにして靴を履いている斎藤に、千鶴は微笑んで礼を言った。
「はい、本当にありがとうございました。あの、またバイトで」
「そうだな、待っている」
たった三晩だけ、しかもほとんど千鶴は寝ていたのだが二人でいるのが自然すぎて、別れがたい。斎藤が帰ってしまったこの部屋は、さぞかしがらんとしているだろう。
千鶴は寂しさをこらえて笑顔を作った。
斎藤は何か言いたそうに口を開いたが、思い返したようで口を閉じた。
そして「じゃあ」と小さく言うと、千鶴のアパートから出て行った。
次の日、月曜の夜7時。
総司が斎藤のデスクに座り、何事かを紙に書いている。
隣でそろそろ帰ろうかと準備をしていた平助が、ひょいと覗き込んだ。
「何書いてんの?」
「んー?千鶴ちゃんにさ。今日斎藤君がいると思ってアルバイトに来て、いなかったら心配するじゃない?だから斎藤君は熱だして、今日は途中で帰りましたよ〜って」
「そんなんかいたら余計心配するんじゃね?」
平助の言葉に、総司はにんまりと笑った。
「別にいいんじゃないの?自分がうつした風邪だし責任取るのも自分でとってもらってさ」
え?というように首をかしげる平助に、総司は説明した。
「金曜日にさ、風邪を引いた千鶴ちゃんの看病に行くって斎藤君から聞いてたんだよね。で、週末挟んで週明けに今度は斎藤君が風邪。週末の間風邪菌をうつしあっこするようなことをしてたんだよ、きっと」
「ああ〜……」
楽しそうな総司の様子を、向かいの左之が呆れたように見ていた。
「意外にガキな、総司」
「何、左之さん。左之さんは楽しくないの?だってあの斎藤君がこれだよ?『総司、自分の健康管理ぐらいするのが大人というものだ。お前は風邪をひきすぎる、たるんでいるのではないか』って、僕が熱出すたびに看病がてら言われてて、実際斎藤君と付き合い長いけど風邪ひいて寝込んでるとこなんて見たことないからね。それがさー!かわいい彼女のおうちに看病いってうつされるとか……っ!」
楽し過ぎて震えている総司に、平助と左之は顔を見合わせて肩をすくめたのだった。
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