【シンデレラの指輪 7】












その後の二人の会い方は、結局斎藤も千鶴もそれぞれ忙しく、改まってのデートやお出かけではなく斎藤の会社で、会う時間は千鶴のバイト時間の前後におしゃべりというスタイルにおちついた。お互いの顔を見て話しているだけで幸せな二人には、それで充分らしい。
社内でスーツ姿で仕事をしたままバイト中の千鶴と会うときもあれば、Tシャツにチノのラフな格好で、千鶴のバイト前にビル内にあるコーヒーショップで軽くお茶をするときもある。
千鶴が朝から晩まで勉強とバイトを頑張っているのを、斎藤は応援してくれた。
ただ、あまりにも体力的にきつい千鶴の毎日を知るようになると、斎藤は心配するようになってきた。そのため、詳細を話したわけではないが千鶴は学生で来年の試験を受けるために勉強していることと、親族はおらず一人で頑張っていることのみを、斎藤に伝えていた。そしてこの過酷な日々が一生つづくわけではなく、試験を受け合格すれば独り立ちできるのだとも。
「いわゆる『苦学生』というやつか」
バイト前のひと時、コーヒーショップで斎藤はコーヒー、千鶴はミルクティーを飲みながら話す。

あれから何度も二人で話したが、やはり最初のパーティの夜の時に感じたようにとても楽しい。
波長があうのだろう。彼と会って話ができると、千鶴は何故かほっと肩の力が抜ける気がするのだ。張りつめていた気持ちを緩めることができると言うか。
忙しい斎藤の時間を使わせていいのだろうかと、千鶴が心配してそう言った時に、斎藤も『逆に会って話すのがいいストレス解消になる』と言ってくれていたから、斎藤も同じように想ってくれていたら嬉しい。

「ふふっそうですね」
斎藤の『苦学生』というどこか古めかしい言葉に、千鶴は小さく笑った。
「まあ、人生の一時期、がむしゃらにがんばるのはいい経験だとは思うが……」
しかし彼女の苦労は自分が何とかしてあげたいと思うのは、男のサガなのだろうか。
まだ会って少ししかたっていないが、彼女は見事に人に甘えない。どんなに苦労しても自分ひとりでなんとかしてしまうのだ。そんな彼女だからこそ、なにか手助けをしたい、楽にしてあげたいと思ってしまうのだろう。
「バイトの帰りはどうしてるのだ?終電はとっくに終わっている時間だろう?」
「自転車で帰ってます」
千鶴の言葉に斎藤は眉間にしわをよせた。
「あんな夜遅くに危ないな。家までどれくらいかかるのだ?」
「えー……と……」
千鶴はちらりと心配そうな斎藤の顔を見る。ここで正直に一時間と言ったら、きっと彼はまた心配するだろう。
「そんなにかからないです。大通りばかりですし。大丈夫です」
「そうか、ならいいが……」

そんな会話をした次の夜。
バイトが終わり千鶴は自転車置き場に置いてある自転車で帰ろうと、従業員出入り口の近くにある駐輪場で自転車を出していた。
「あれ…!」
妙にガコガコ音がする自転車に気づき、千鶴は屈んで調べてみる。
「あーあ…パンクしちゃってる……」
こんな夜遅くやっている自転車屋などないし、地下鉄はもう終わってしまっているし、タクシーにのったら2週間分の食費が飛ぶ。
「どうしよう……」
帰り道は緩やかな下り坂だが、一時間もパンクした自転車で走れば自転車自体壊れてしまうかもしれない。家に帰ってお風呂に入ってぐっすり眠りたいが、始発までどこかで時間をつぶすしかないだろうか……
千鶴が下唇を噛みながらそう考えていると。

「まだ帰っていなかったのか」
ちょうどビルから出てきた斎藤に出会った。今日は斎藤は残って仕事を片付けながら千鶴のバイト中会社にいたのだ。(実際のところは千鶴に会うために会社に残っていたのだが)
斎藤は当然のことながら千鶴の困った顔に気づき、べこべこになった自転車にも気づいた。



「この先か?かなり道がせまいが……」
タクシーが入っていく路地を斎藤は気遣わしげに見た。千鶴は自分の住んでいる辺りの環境があまりにも斎藤と違うので、少し恥ずかしい。犯罪を犯したりしているわけでもないのだから恥ずかしく思う必要もないのだが、頬が熱くなるのを感じて、千鶴はうつむいた。
「はい。あ、そこを斜めに入ってください。そして右に曲がって……そこです。ありがとうございます」
千鶴がタクシーの運転手に指示して止まった場所は、かなり入り組んだ路地の突き当たりの場所だった。
周りには人が住んでいるのかいないのかわからない平屋がならんでいる。
正直なところ、斎藤は自分が子どもの時も、大学で一人暮らしをしているときも、今より金がないときでもこんな所には住んだことがなかった。
斎藤の実家は特別裕福な家庭というわけではなかったが、問題なく斎藤と妹の学費をだせる環境ではあった。特に潔癖症でもないし偏見もないが、しかしこの辺りに千鶴が一人で住んでいるとなると話は別だ。
「このあたりは……安全なのか?あまり人気がないが……」
「この辺り一帯を取り壊してビルを建てる計画があるんです。それでほとんど立ち退いてしまったか立ち退く予定で……。だからがらんとした感じですよね、どの家も。でも逆にそんな風だから治安は結構いいと思います。これまでも危ない目にあったことも無いですし。あの…すいませんでした、おくって頂いちゃって。とても助かりました。タクシー代、今は払えないんですがバイト代が入ったら必ずお支払いしますので……」
「いや、必要ない」
そう言って、斎藤はこれだけだと千鶴は気にしてバイト代が入れば払いに来るだろうと思い、言葉を加えた。
「この後、行こうと思っている所があるのだ。そのついでだから気にすることは無い」
「……こんな時間にですか?」
「そうだ」
疑わしそうに聞く千鶴に、斎藤はきっぱりと嘘を言った。誠実は美徳だと思うが、この場合は嘘も方便だろう。千鶴は少し考えて、ぺこりと頭をさげる。
「わかりました。ありがとうございます」
カチャという音とともに千鶴側のドアが自動で開く。千鶴がアパートの階段を昇り自分の部屋に入るのを確かめてから、斎藤はタクシーに「センタータワーへ戻ってくれ」と告げた。


走り去るタクシーのエンジン音を聞いて、千鶴は閉じた玄関のドアに背をあずけて小さく溜息をついた。
千鶴は視線をあげて、薄暗い自分の部屋の中を見る。
先ほどまでいたタワービルとは、当然ながら雲泥の差だ。
六畳一間の狭い部屋。ベランダもないせいで洗濯物は部屋に干している。実家を手放すときに持ってきたベッドが、部屋の半分を占めていて残りの半分に勉強したり食事をする小さな炬燵机。
明るい色のカーテンやカーペットを使い、可愛らしく清潔にはしているが、部屋に置いてある家具や小物はやはり安物で、斎藤の持ち物や着ている物を見た後ではみすぼらしさが目立つ。

あんなパーティに行かなかったら、この部屋で充分だったのにな。
斎藤さんに会わなければ、恥しいなんて思わなかった。

でも今は、そう思ってしまう。
大学を卒業して、子供の頃からの夢だった教師になって、両親の残した借金を少しずつ返しながらも、オシャレや旅行を楽しんで……
そんな目標があるから現在がこんなに苦しくても、つらいなんて思わなかったし、みじめだとも感じなかった。

千鶴は重い気持ちのままで、バイト後の疲れた体を引きづるようにして靴を脱ぎ、部屋に上がった。
電気をつけたくなくて、そのままベッドに倒れこむ。
シミがついた低い天井をぼんやりと眺めながら、千鶴は認めようとしなかった自分の心に目を向けた。

多分自分は斎藤を好きなのだ。
それもかなり真剣に。
いつ、どんなところが好きになったのかもよくわからない。いや、最初から好きだったのかもしれない。
少しだけ仲良くなれて、会ってどんな人なのかがわかっていって。
どんどん好きになってしまった。
彼との時間は、必死な毎日での唯一幸せな一時なのだ。

そして彼の事を思えば思うほど、哀しくなる。
斎藤がどういうつもりで千鶴と会っているのかわからないが、好意は持ってくれているのだろう。
でも彼と自分とでは世界が違う。立っている立場も違う。
彼はもう自分の道を自分で見つけ順調に歩き出していて、千鶴は今必死に道にたどり着けるよう頑張っている時期だ。
彼の隣に立てるのは、きっとあの時あのパーティにいたようなきらびやかな世界の人なのだろう。
たとえ千鶴ががんばって道にたどり着けたとしても、あのパーティに行けるような立場には到底ならない。

一夜の夢にしておくべきだった。
それは最初からわかっていたのに。
彼を好きになっていくのと反比例で、千鶴は自分を、自分の環境を恥ずかしいと思うようになっていく。
両親が借金もなくまだ生きていてくれたら、少なくとも千鶴は普通の女の子でいられた。そんな普通の女の子だったらと思ってしまう。
きっとあのパーティには恵まれた生まれでそのまま育ち、なんの心配もなく毎日楽しく暮らしている女性がたくさん来ていたに違いない。きっと斎藤と何の屈託もなくつきあって、勉強やお金のことを心配するのではなく二人のこれからのことだけを考えていればいい人たち。
そういう人達がうらやましくて妬ましくて、そしてそんなことを考えてしまう自分がとても嫌だ。
千鶴はベッドの上で瞼を閉じた。

もう寝よう。疲れて睡眠不足だとイヤなことしか浮かんでこない。
明日はきっと今日よりよくなるはずだから。




次の日、バイト前に自転車を直さなくてはと早めにセンタービルへ行った千鶴は、駐輪場に止めてあった自分の自転車を見て驚いた。
何故かパンクが直っている。
更に心なしかピカピカしているような……
ビルの裏口にいる守衛さん聞いてみたところ、パンクを直す等の細々としたことなら多分コンシュルジュサービスだろうと教えてもらった。きらびやかな表玄関のすぐ近くにある重厚な机(多分コンシュルジュと書いてある外国語のプレートがかかっていた)に行き、千鶴が恐る恐る威厳のある男性に聞いてみた。その人(多分コンシュルジュ)は背が高く綺麗に折り目の付いたブラックスーツを着ており、胸にあるピカピカのネームプレートには『天霧』と書いてある。
彼は無表情ながらも、古いジーンズに見るからに量販店で買ったパーカーを着た千鶴を、場違いな人物だというように上から下まで見た。そして『このビルのテナントの方に頼まれ修理を手配いたしました』と深い声で慇懃に答えた。
「でもあれは、私の自転車で私はそんなこと頼んでないんですけど……」
千鶴が困惑してそう尋ねると、彼は無表情のまま手元にある革の表紙のノートのページをめくり何かを確認する。
「……雪村様でいらっしゃいますね。斎藤様からのご依頼です。聞かれたらそう答えてくれと言われております」
「……」
突き放すような彼の言い方に、千鶴はそれ以上聞けずに「そうですか……」と言って踵を返す。その背中から、コンシュルジュの声がかかった。
「あわせて点検もするようにとのことで、そちらもいたしました。自転車屋から聞いた話では、タイヤがかなり摩耗しており、ブレーキも緩くなっていて、サビもあった事でした。タイヤとチューブを変え、ブレーキを取り換えて油をさしております」
「……ありがとうございます」
淡々と彼は事実をつたえただけなのだろうが、千鶴は「よくあんなボロイ自転車に乗ってますね」とでも言われたような気分になった。


そして当然のことながら、その夜のアルバイトが終わった時に、一人幹部室で仕事をしていた斎藤にそのことを告げる。
「自転車の件ですが……」
「ああ、直しておくよう指示しておいたのだが、直っていたか?」
くったくのない斎藤の笑顔に、千鶴はどう伝えればいいのか迷った。
「あの、ありがとうございました。お金、お支払します。パンクだけじゃなくてタイヤとかブレーキとかいろいろ代えていただいたようなので……」
「いや、別に気にしなくてもいい。大した金額ではなかった」
そうくると予想していた千鶴は、しかしひきさがらなかった。
「そういう問題ではなくて……。払っていただく理由がありませんし、あれは私の自転車なので私が払います」
食い下がる千鶴に、斎藤はようやく書類から顔をあげて、千鶴の顔を見た。
「……何か気を悪くさせたのだろうか。昼間の内に直しておいた方が時間の無駄が省けると思い勝手にやってしまったが……」
戸惑うような表情の斎藤に、千鶴の胸は痛んだ。
多分本当に斎藤にとっては本当に大した金額ではなくて、気をきかせてやってくれておいただけなのだろう。こんな過敏に受け取るのは、きっと自分が今はパンク代さえ払うのが苦しい生活だから。でもお金に余裕がないからと言って心にまで余裕をなくし、人に……しかも大事な人にあたっていいわけがない。
「あの……いえ、どうせ直さなくては行けなかったので……。ありがとうございます。でも修理代は本当に私が払いたくて……。すいません、お気持ちはありがたいんですが……」
「しかし……昨日はタクシー代もバイト代が出てからと言っていたし、修理代も今は払えないのではないか?こう言ってはなんだが、あの自転車の修理は千鶴のためでもあるが俺の為でもあるので、払ってもらわなくてもいいと思っている」
斎藤の言葉の意味が分からず、千鶴は首をかしげた。
「…斎藤さんのため、ですか?」
斎藤は頷く。
「そうだ。前々からお前の自転車を見ていて不安に思っていた。途中で壊れたりパンクしたらどうするのか、小さな自転車だから速度もそれほど速くないだろうしスプリングもよくない。家が近いのならまだいいが、送って行ってわかったがあの距離であの自転車なら一時間近くかかるのではないか?夜も遅いし、心配……と言うと差し出がましいのは百も承知だが、心配なのだ。もしよければここでのバイトの帰りは昨日のように俺に送らせてほしいとも思っている」
「ええ?毎回、タクシーでですか?」
千鶴は目を見開いた。そして次の瞬間思わず笑い出す。
「そんなことをしたらバイト代がタクシー代で消えちゃいます」
「いや、もちろんタクシー代は俺が払う」
千鶴は笑いながら首をふった。
「心配してくださるお気持ちは嬉しいですけど、遠慮します。さっきも言いましたけどそんなお金を使ってもらう理由がないです」
斎藤は手に持っていた書類を机の上に置いて、千鶴に向き直った。
「理由なら、ある。俺が心配だからだ。送っていくことでその心配をしなくていいのならタクシー代くらい安いものだ。いや、それでも毎回お金をタクシーに払うのが心苦しいと言うのなら、車を買ってもいいな。もともといつかは買おうと思っていたのだ。忙しくて延ばし延ばしになっていたがこの機会に買うのもいいかもしれん。自分の車で送るのなら、金はかからんからお前も気兼ねなく乗れるだろう?」
斎藤の提案に、千鶴は笑えばいいのか呆れればいいのか、それとも感激すればいいのかわからずポカンとしていた。
「これなら大丈夫だろうか?」
澄んだ蒼い瞳でかすかに首をかしげてこちらに問いかけてくる斎藤に、千鶴は曖昧に首を横に振った。
「あの……いきなりで、よくわからないです。……その、車はご自身が欲しいときに買えばいいかなって思います」
千鶴はそう言うと、ぺこりと頭をさげた。
「掃除終わったので……今日はもう帰りますね。自転車、ありがとうございました。お金は修理内容をもう一度聞いてからお支払いします。お疲れ様でした」
そう言うと、千鶴は掃除用具の乗ったワゴンを押して急いで幹部部屋から出て行った。
唐突に会話を打ち切った千鶴を、きっと斎藤は変に思っているだろう。それはとはわかっているのだが、どう答えればいいのかわからない。

どきどきと胸が高鳴る。
何とも思っていない女の子に、ここまでするのだろうか?もしかしたら……もしかしたら好意以上に思ってもらえているのかもしれない。いやでも、斎藤のような立場なら女性などより取り見取りだろう。こんなみっともない作業服姿の千鶴など物の数にも入らないに違いない。
そして、素直に好意を受け入れられない自分に胸がズキズキと痛む。
斎藤にとってはたいしたことではないのは明らかなのに、むきになってしまった。
でも飲み物をおごってもらったりというのとはこの自転車の修理代は違う気がするのだ。千鶴の性格からして「ありがとうございます」とあっさり払ってもらえるような類のものではなくて。
でも、お金に困ってなくて生活に困ってなくて自分に自信があったらきっと、斎藤の好意も素直に受け入れることができただろう。
そしてそんな自分の小ささにも胸が痛い。

幸せな気持ちと自己嫌悪とを抱えて、千鶴は自転車に乗って夜道を走る。
直ったばかりの自転車のペダルは、千鶴の心とは裏腹にとても軽かった。





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