【シンデレラの指輪 6】









夜の12時過ぎ。
千鶴はそーっと社長室の鍵を開けた。いつも通り手際よく社長室の片づけと掃除を終えると、千鶴はこれもいつも通り幹部室の部屋手前側の電気をつける。
千鶴の視線は我知らず幹部の机の上へと行く。
昨夜、仕事の後にこっそりとカフリンクスを置いておいたのだ。
あのカフリンクスの銀色の部分も蒼い石飾りもとても高そうだった。イヤリングもそうだがカフリンクスだって二つなければ意味がない。
招待状だけではなくカフリンクスまで盗んだ様になってしまった事を、千鶴は心苦しく思っていた。
あの人……斎藤さんは知らないだろうが、幸い千鶴はほぼ毎夜このオフィスに仕事に来ている。彼の机の上にこっそり置いておけば、彼も『あの時あの女の子に渡したかと思ったが気のせいだったか?』と思うのではないだろうか。この部屋にあの時の女が出入りしているなど思ってもいないだろうし。
そうすれば、あのカフリンクスは一対そろって無駄にもならない。
千鶴はそう考え、昨夜カフリンクスを持って掃除のアルバイトにやってきたのだ。
彼のだろうと目星をつけておいた机の、引き出しの中は鍵が閉まっているから無理だが、机の隅っことかにこっそり紛れ込ませておけば……と。

「……え?」
机の上を見た千鶴は、思わず声をあげた。
カフリンクスが置いてあったのだ。
しかも、千鶴が昨夜置いた方の机ではなく、その斜め前の机の真ん中に。
実は千鶴は、カフリンクスを置いた方の机かその斜め前の机のどちらかが斎藤の机ではないかと迷っていた。どちらもすっきり綺麗に片付いていたからだ。散々迷った末に、一番最初に彼が寝ていたときに机から落ちたファイルと同じようなファイルが置いてあった手前の方の机にこっそりとカフリンクスを置いたのだが、今それは違う方の机に……斜め前の机の真ん中に置いてある。
「…なんで?」
千鶴はそうつぶやいて、その机まで行きそっとカフリンクスをつまみあげた。

「そちらが俺の机だ」

突然向こう半分の暗い部分から声がして、千鶴は「ひゃっ!!」と叫び飛び上がる。それと同時に向こう半分の電気がついた。
「やはりそうか……」
続けて聞こえてくる静かな声。
千鶴が声のする方を見ると、そこにはYシャツにネクタイ姿の斎藤が壁に立ち、電気のスイッチに手をあてていた。
「……」
驚きのあまり声もでず、千鶴はあんぐりと口を開けカフリンクスを持ったまま固まっていた。

彼女だ。
あの夜の彼女がそこにいる。あの夜のふんわりと結いあげた髪でも、きれいに化粧した顔でも、妖精のようなドレスでもないが、斎藤にはそれは全く関係のないことだった。
あの瞳、肌、表情。斎藤が魅かれた女性がそこにいる。
斎藤は少し気恥ずかしさも感じながら微笑むと、ゆっくりと千鶴の方へと足を進めた。
「こんなだまし討ちのようなことをしてすまない。だが、俺もイヤリングを返したいと思っていて……」
話しながら彼女に近づいて行くと、彼女は突然パニックをおこしたように辺りを見渡した。そして顔を赤くしながら斎藤に言う。「ご、ごめんなさい!だましてスイマセンでした!あの……会社に言って首にしてくださって構わないので……なので、私、これで失礼します!」
千鶴はそう言ってバッとその場から逃げ出した。
斎藤は慌てて千鶴の手首を掴む。
「待ってくれ!逃げないでくれ」
「きゃあ!は、離してください!もう、ここには来ないので……」
「いや、それが困るのだ!」
斎藤の強い口調に、千鶴は青ざめて彼の顔を見た。千鶴を脅かしてしまった事に気づき、斎藤は心の中で自分に舌打ちをする。
落ち着け落ち着け、と言い聞かせながら一度深呼吸をする。そして彼女の手首は握ったままだが力を緩めた。
「大きな声を出してすまなかった。あの夜からずっとあんたを……千鶴を探していた。……千鶴という名前は本名なのだろうか?」
斎藤の問に、千鶴は頬が赤くなった。嘘つきだと責めたいわけではなかったのに、彼女に気まずい思いをさせてしまったことに気づき、斎藤はまたもや心の中で自分に舌打ちする。
「はい、本名です。……すいませんでした」
「いや、謝ってほしいわけではないのだ。その……」
斎藤は口ごもった。
何を言えばいいのだろうか?彼女に会いたいと思い続けてようやく会えた今、いったい何を話せばいいのかわからない。
気づけば彼女の手を握り(…というより掴み)、かなりの至近距離で顔を覗き込んでいた。
見開いた黒目がちの大きな瞳は、さらに大きく零れ落ちんばかりに見開かれている。その周りをぐるりと幾重にも重たげな睫が取り囲んでいた。
ほんの少し開いた唇は柔らかなピンク色で、なめらかな頬はきめが細かく陶器のような透明な白さだ。
あの夜はほとんど月明かりだったので、今こうして電気の下で初めて見る彼女の顔を、斎藤はまじまじと見つめてしまった。

……美しい……

場違いだが、斎藤は心からそう思った。
完璧だ。
頬のラインからまつ毛がつくる影まで。まるで魂まで吸い込まれてしまいそうだ。
ただでさえ口下手な斎藤の思考は、一瞬思考が宇宙まで飛んでしまったせいでさらに破綻し全く言葉がでてこなくなってしまった。何を言えばいいのかわからない。
「あ、あの……手を、離して下さい……」
彼女がそうつぶやく声で、斎藤ははっと我に返った。
「逃げないと約束するのなら」
そう言った後、斎藤は自分の舌を噛み切りたくなった。なぜこんなぶっきらぼうで高圧的な言い方をしてしまったのか。後ろ暗いところがある彼女が余計怯えるのは目に見えているではないか。
「いや、俺は怒っているのではない」
「……」
千鶴が顔をあげて、斎藤の顔を見たその顔は、怯えて目が潤んでいる。
「もう一度会いたかった」
そして、それだけでは言葉が足りないかとさらに付け加える。
「カフリンクスを返してくれてありがとう。礼が遅くなってすまない。俺もイヤリングを返さなくてはと思っていたのだ」
「ああ…」
と千鶴ははじめて表情を緩めた。
「噴水の中に落ちた……?持っていてくださったんですか?」
「もちろんだ」
少しだけ警戒の溶けた様子の千鶴に、斎藤は手首を離して自分のズポンのポケットをさぐる。
「これだろう?」
そう言って差し出した、白い薔薇のイヤリング。千鶴は嬉しそうに微笑む。

これで千にちゃんと返すことができる。好意で彼女のイヤリングを借りたのに、一つ失くしてしまって申し訳ないと思っていたのだ。値段的には高くは無いと言っていたが、なんとか同じものを探して買って返したいと思っていた。しかし同じものを見つけるのはなかなか難しくて。
「ありがとうございます。助かります」
「それと、例のあの記者だが」
斎藤にそう言われて、千鶴はあの夜いきなり写真を撮られたことを思い出した。あれはいったいなんだったのだろう?斎藤は実は有名人だったのだろうか?
「うちの会社は最近業績を伸ばしていて、マスコミが芸能人とのつながりを狙ってきているのだ。なんの根拠もないのだがな。あのパーティにも紛れ込んでいたらしい。警備員に突きだして処分してもらったが、壁を乗り越えてきたとの事だった。撮られた写真のデータは全て削除してあるから安心してほしい」
「あ…ありがとうございます……」
マスコミに写真を狙われるなんて……と、千鶴はますます斎藤に対して萎縮した。
住む世界が全く違う。
あの夜はとても楽しく幸せで、ずっと続いて欲しいなんて思ってしまっていた。
でも。

千鶴はそう思い、斎藤の姿を見てみる。
高級そうなスーツに糊のきいた清潔なYシャツは、きっと毎回クリーニングに出しているに違いない。そしてブランド物のネクタイ。そしてこの……豪華なオフィス。
対して自分はみっともない掃除用の作業服に、手に持っているのは掃除道具。

これが現実なのだ。
あれは一夜の夢。
忘れよう。
招待状のことや何も言わずに帰ってしまった事、仕事上の便宜を使ってこっそりカフリンクスを返した事について謝って。
そうして忘れるのが一番いいのだ。
千鶴はそう思うと、もう一度斎藤を見上げた。
「あの……招待状は、ゴミ箱に入っていたのを、間違えてポケットに入れて家に持ち帰ってしまいました。家に帰ってから気が付いて、魔が差したというか一度だけ、華やかなパーティみたいなのに出たいなって思って使ってしまいました。本当に……本当にすいませんでした」
千鶴はそう言って、腰を深く折って謝った。そして自分の指を見ながら続ける。
「カメラマンの人と斎藤さんがやり取りをしている最中に何も言わずに帰ってしまってすいませんでした。家が遠くて地下鉄の終電があの時間で……本当は残ってきちんとお話するべきでした。ごめんなさい」
もう一度ぺこりと頭を下げる。
「その……ご覧になればわかるかと思いますが、私はここのセンタービルのテナントでもオーナーでも住人なんかでもなくて、夜間の掃除アルバイトなんです。それでゴミ箱の中の招待状もこの部屋で見つけました。でもああいう風に物を盗ってしまったのはあれが初めてです。こんなことをいまさら言っても、もう信じていただけないかもしれませんが……。カフリンクスを返すのも他にもっといい返し方があったとは思うんですが私には思いつかなくて、あんな形になってしまいました。本来なら掃除以外の事はしてはいけない立場でこんなことをしてしまって、本当にすいませんでした。反省してますし不信感を持たれるのも当然だと思いますので、担当ビルを変えてもらいます」
担当ビルの変更希望など、アルバイト先に言えばきっとクビだろう。このバイトを失うことは正直とても痛い。夜間で接客もなくこの給料をもらえる仕事は他にはない。
これから教採用の試験勉強も本格的になるし、大学卒業まであとまだ1年半もある。アパートの立ち退きを粘れなくなったら引っ越しをしなくてはいけないし、そうなるとまた費用もかかるだろう。
でも仕方がない。全て身からでたサビなのだ。
言いたいことを言いきって、千鶴が「じゃあ……」と最後の掃除をはじめようとすると、斎藤がもう一度「待ってくれ」と呼びとめた。振り向いて続きの言葉を待つが、斎藤はその後の言葉がでないようだった。
「なんでしょうか?」
千鶴が聞くと、斎藤は腕を組み考える様に視線を彷徨わせる。
「つまり……謝罪は受け入れる。その…そもそも怒ったり不信感などもっていないのだ。招待状は俺が捨てたのだし捨てたものをどうされようと俺の関知するところではない。まあ、パーティの運営側からしたら規則違反なのだろうが結果として何も不祥事を起こしていないのだし問題もないだろう。途中で帰ってしまった事は、個人的にとても残念だが、しかしあの状況であんたが居なくなってくれた方がカメラマンや他の対処がしやすかったのは事実だ。だからこれも問題ない。最後に掃除のアルバイトの立場を利用してカフリンクスを返してくれたことだが、これも俺の関知するところではなく、逆にカフリンクスをかえしてくれたのだから感謝している。だからもちろんこのことを掃除会社に言うつもりもないし、この会社のこのフロアの掃除の担当を変わってほしいとは思っていない」
一気に言い切った斎藤は、はあっと息を吸ってもう一度吐いた。千鶴は立て板に水の斎藤の演説をポカンとして聞いている。
「今度は逆に俺の方から……その、あんたに聞きたいことがあるのだがいいだろうか?」
目を見開いたまま千鶴はしばらく考え、コクリとうなずいた。

「携帯電話の番号を教えて欲しい」

千鶴の目は更に見開かれた。
「え?」
千鶴が聞き返すと、斎藤は慌てたように手をあちこちに動かした。
「いや、悪用するわけではない。あの夜、あんたがいなくなったあと、もうどうやってももう一度会うことができないのだと思い愕然としたのだ。つまり……」
斎藤はそう言うと、緊張したようにごくりと唾を飲んだ。
「つまりもう一度会いたい」
「……」
「……だめだろうか?」
うっすらと目じりを染め、斎藤は気まずそうに聞いた。

思いもしなかった展開に、千鶴の呼吸は浅くなった。手が汗ばむのを感じる。
返事をまつ斎藤と、答えを考える千鶴。
深夜の高層ビルの最上階に、緊張した空気が満ちる。

「携帯電話は……その、だめ、なんです」
斎藤の表情がこわばるのを見て、千鶴は慌てて続けた。
「その、携帯電話を持っていないので!あの、あの、でももう一つの方は……その、会う方はそっちは、だめじゃない…です」
「え?」
「……嬉しい、です」

千鶴の言葉の内容が理解できると、今度は斎藤は全身をピンク色のハートで覆われたような、脚が浮かび上がる様な幸福感に包まれた。
目の前で、あの月夜のシンデレラが恥ずかしそうに微笑んでいる。
しかし、この堅物王子は手も握ることもできず、「そうか、それなら……よかった」と他人事のように(頬は染めていたが)うなずいただけだった。







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