【シンデレラの指輪 4】







「おいしい!」
名前だけの自己紹介を済ませた後、一口料理を食べて千鶴は目を輝かせた。その笑顔を見ると斎藤はなぜだか嬉しくなる。
膝の上に乗せた皿。ベンチの手すりに置いたシャンパングラス。
あまりいい環境でないのだが、彼女は全く気にしていないようだ。先ほど簡単に自己紹介をして、彼女の名前が雪村千鶴ということを知った。
『雪』という言葉が白をイメージさせるからだろうか、彼女のドレスの色や雰囲気にぴったりだと、斎藤は柄にもなく思う。
千鶴はペロリと食べてしまった。
「腹がすいていたのだな」
先程千鶴のお腹が鳴ったことを思い出し、斎藤がそう言うと千鶴は赤くなった。
「はい、少しだけ……すいません」
「いや、別に謝ることではない。どうせ会場には溢れるほど料理があるのだから、腹いっぱい食べればいい。酒は?おかわりはいいのか?」
ほとんど口をつけていない千鶴のグラスを見て、斎藤が言う。
「お酒はあまり強くなくて……あの、もしよろしければどうですか?」
すっかり空になっている斎藤のシャンパングラスを見て、千鶴は自分のグラスを斎藤に差し出した。斎藤は目を瞬くと、自分の膝の上にある、まだ料理がたくさん乗った皿を持ちあげて千鶴に差し出した。
「では交換しよう」
そして千鶴の手からグラスを受け取る。千鶴は恥しがればいいのか喜べばいいのか…と言った微妙な顔をして皿を受け取った。しばらく考えていたようだが素直に喜ぶことに決めたらしい。相変わらず頬は染めたまま、斎藤を見ると嬉しそうに「ありがとうございます」と礼を言った。
斎藤も微笑み返して頷くと、千鶴のシャンパングラスに目を落とし、飲もうと口を寄せる。
そして、はたと動きを止めた。

……なんだ、これは?

グラスの縁に淡いピンクのあとがついている。汚れかと拭き取ろうと指を伸ばして、斎藤は気づいた。
これは千鶴の口紅のあとだ。
「……」
指で触れるのは何故かためらわれるし、もちろん唇で触れるのなど論外だ。しかし隣で千鶴が無邪気に「飲まないんですか?」と聞いてきている今、シャンパングラスに口をつけないのは不自然だ。
斎藤は茶道の茶器ようにシャンパングラスを慎重にまわし、千鶴の唇のあとに唇が触れないようにしてからそっとシャンパンを飲んだ。
気のせいかもしれないが……いや、完全に気のせいだと思うが、なんだか少し彼女の匂いがするような……

こんなことを考えている自分がまるで変質者のように思えてきて、斎藤は千鶴から目をそらした。ほんの少し赤くなっている目じりが隠れるよう、月が雲に隠れてくれないかと祈りながら。


斎藤がシャンパンを飲み干し、千鶴がお皿を空にする間二人はのんびりと話をした。
薄暗闇なのと、横に並んでいるせいで顔をあわせなくてもいいのと、もともと二人ともあまり社交的でなく波長があうのとで、心地いいゆっくりとした会話が続く。
「そうか、こういうパーティははじめてなのか。では会場の中に居ても手持無沙汰だな」
一人で来ており、誰も知り合いがいないのならそれこそ食べるか飲むかしかできないだろう。しかし千鶴は飲めないし、食べるのも衆人環視の中一人で立ち食いをするのも彼女のような年齢の女性には恥ずかしかろう。
「はい。でもみなさん本当にきれいだし、机の上の食器とか、壁の飾りとかキラキラしてて……それに生で演奏してる人達までいました!ピアノを弾いてる方もいて、もういろんなものがたくさんあって、芸能人の人とかも見ちゃって、頭がいっぱいになったので一息入れようと思ってここに来たんです」
「そして俺が足を踏んでしまったのだな。すまなかった。大丈夫か?」
「はい、もう全然大丈夫です。もともとたいしたことなかったのにこんな食事までいただいてしまって……こちらこそありがとうございます」
礼を言われて斎藤は面食らった。
「いや、別に俺は何もしていない。料理は会場の机の上にたくさんあるし持ってきてくれたのもボーイだ」
「そうなんですけど、私一人だと食べにくくて…。だからこうやって落ち着いたところで座って食べられて嬉しいです。とってもおいしかったです」
斎藤自身はこんな気の張るところで何か食べようと言う気もなかったので、千鶴の言葉で改めて空の皿を見た。
「そうか、うまかったか」
「はい。こんなにおいしいものを食べられて、おしゃれして、綺麗な場所で……とっても楽しいです」
そう言って恥ずかしそうに笑った千鶴の顔は、本当に可愛らしく、斎藤は再びハートを撃ち抜かれた。
素直に喜びを表す姿が新鮮で、なんでもしてあげたくなってしまう。
「そうか……」
彼女の笑顔をみているだけでこちらが幸せな気分になる。
これは一体どういう事なのかと、斎藤は首を捻った。


空の皿とグラスを持って、二人は長い間話していた。空気はひんやりと気持ちよくて、月もきれいで。
斎藤は女性とこんなに長い間話していて全く疲れていない自分に驚いていた。女性とはつきあったことはあるが、どうも疲れることが多く最近は仕事の忙しさにかまけてすっかり遠ざかっている。
でも今は。
疲れるどころか、これまでにないくらいリラックスしている自分に気が付いた。
こりかたまっていた背中の筋肉や頭が、ゆるやかに解放されていくのを感じる。
彼女の話や表情に引き込まれ、自分も声を出して笑っていることに斎藤は驚いた。
そして話の流れから、テラスのさらに向こうにある空中庭園を見に行くことになった二人は、ベンチに皿とグラスを置いて立ち上がった。
「あの、お皿はかたづけなくていいんですか?」
「大丈夫だ。我々が立ち去ればすぐに片付けてくれるはずだ」
はあ〜すごいですね。と目を丸くしている千鶴に、斎藤は微笑む。
今日がパーティははじめてだと言っていたが、本当に世慣れていないようだ。そのすれていないところが新鮮で好感が持てる。もともと斎藤も、そんなセレブな産まれや育ちでもないしセレブにあこがれていたわけでもないので、波長があうのだろう。

空中庭園は意外に広く、ここが20階だということを忘れてしまいそうだった。綺麗に手入れされた緑と花が、まるで本当の公園のように配置されている。
今日はこのパーティのために、この空中庭園ごと20階は貸切になっているのだが、パーティの出席客はこんな外で花や木を暗いなか眺めるよりも、華やかな会場の方がいいらしく、その庭園にはほとんど人影はなかった。
面白いものがあるから、という斎藤の案内で歩いて行くと、膝ぐらいの高さで水を張った広い池のような噴水のようなものがあった。水は吹き出しておらず、まるで鏡のように凪いだ水面のみ。
その水面には、ちょうど空に浮かんでいる満月が鏡に映したようにぽっかりと浮かんでいる。そしてかなり広いその水面の先は、もう何も無く空へとつながっていた。
「え?あれは……あれはビルから下に水が落ちちゃってるんですか?」
千鶴がぎょっとして斎藤を見ると、斎藤は笑いながらその水の端の、台のようになっている所に座った。すぐ後ろは水だが、細い溝があり水はそこに落ちて溢れないようになっている。
「いや、俺も最初はどうなっているのかと思ったが、ちゃんとその下に受け口があり、水を循環させているようだ。さすがにビルの20階から水をたれながしにはしないだろう」
「そ、そうですよね……」
しかし見れば見るほど不安感を煽る。多分すぐに空、というところも妙に心もとないのだろう。たいていこんな高いところだと頑丈すぎるくらいの柵があるものなのに、ここにはそれがない。しかしこの水のプールのようなものが一面にあるせいで、もしビルの端に行こうとしたら水の中をざばざばと歩いて行かなくてはいけなくなるので、柵は必要ないのだろう。
千鶴も斎藤の隣に座る。そこから水面を覗き込むと、きれいに髪を結いあげてメイクをした自分が見えた。
そして水面に映っている月と、夜空に浮かぶ月。
隣には、優しくて素敵な男性。

こんな素敵な夜なんて……夢みたい

これもシンデレラの魔法をかけてくれた千のおかげだ。たった一夜の夢だけど一生の思い出ができた。
千鶴がそう考えていると、斎藤が口を開いた。
「こんなことを聞くのは失礼かもしれんが……」
「はい?」
「その、あんたはどこの……テナントなのだろうか?それとも住居タワーか?」
「……」
千鶴の心臓がドクンと大きく鳴り、さっと血の気がひくのがわかった。
どうしよう、どうやってごまかそう……と千鶴が口ごもると、斎藤は少し照れたように続ける。
「いや、不審に思われたら困るのだが、俺は怪しいものではない。ここのテナントでもあり、住居タワーの方に住んでもいる。まあこのパーティはこのタワービルのテナントか住人しか来れないから当然だが。何故こんなことを聞くのかというと、その……とても、その、楽しいというか有意義だったので、もし……もし嫌でなければなのだが、またこれからもこうやって時々会って話せたらどうだろうかと……」
少しだけ頬を染めて、視線を合わせないように斎藤が履いているの黒い革靴を凝視しながらそう言ってくれる彼の言葉は、千鶴にとってはとてもつらい。
千鶴だって、斎藤のことを……とても素敵だと思った。
今日のこの一時もとても楽しくて夢みたいだった。
これがずっと続いてくれたら…と思うけれど、それは無理なのだ。
現実の千鶴は、まだ学生でお金もなく取り壊し予定のアパートに住んで、必死に働いている。両親の借金もあるし、教採も受かるかどうかわからない。ほとんどない時間の中で、余った時間は勉強にあてなくてはいけないし、斎藤とまた会うにしても普段着の服しかない。こんなセレブな人とデートするのにふさわしい時間も服装もないのだ。
彼との接点は、彼の職場の深夜の掃除バイトというだけ。そしてそれを伝えたら、千鶴が……わざとではないものの招待状を泥棒してしまったことを彼に言わなくてはいけない。
「あの……えっと……」
全て身から出たさびだ。千鶴は、髪を耳に賭けるふりをしてこわばった表情を隠すために俯いた。
その時指がイヤリングにひっかかり、パチンと小さな音を立ててイヤリングが跳ねる。
「あっ」
落ちた先は水の中。
千から借りた象牙風の大きな白いバラのイヤリング。
「水の中に……!」
幸い水は膝丈くらいしかないし、落ちた場所は手を伸ばせば届く場所だ。千鶴が慌てて伸ばした手を斎藤が止めた。
「いや、俺が取ろう」
そう言ってジャケットを脱ぎカフリンクスを外しだした斎藤に千鶴は驚いた。
「いえ、そんな悪いです。シャツが濡れて…」
「腕まくりをするから大丈夫だ。これを持っていてくれるか」
そう言って、斎藤は外したカフリンクスを千鶴の手の中に落とす。長い節ばった指に大きな手。むき出しの腕は以外にたくましく、千鶴はドキリとする。
「すいません……」
「いや、すぐとれる」
そう言って斎藤が水の中に手を入れ、イヤリングを掴んだとき。

パシャ!パシャパシャ!という連続音が聞こえた。
そして強烈なフラッシュ。
さらに続けざまにパシャパシャと何回ものシャッター音と連続した光。
目がくらんだ千鶴は手で光を遮ろうとする。隣にいた斎藤も驚いたようにそちらを見た。
「最近急成長しているIT会社の取締役の方ですよね?斎藤さんでしたっけ?今お付き合いされてる方はそちらの方ですか?モデルさん?背が低いから違うかな?タレントさんですか?アイドル?」
矢継ぎ早の質問に、千鶴はあっけにとられてポカンと口をあけたままそのカメラマンを見た。
斎藤は即座に状況を把握したらしく立ち上がり、カメラマンに怒ったように近寄る。
「撮ったデータを渡せ。どうやってここに入った」
カメラマンは斎藤をよけると、今度は一人座ったままの千鶴にカメラを向け写真を撮る。
「貴様…!」
斎藤が怒り、カメラマンに掴みかかった。しかしカメラマンは慣れているのかそんな体勢のままでも写真を撮り続ける。
千鶴が誰かを呼んできた方が良いかとおろおろと立ち上がったとき、カバンの中で何かがピピピピピッとアラーム音をたてた。
千鶴は何の音かと一瞬戸惑ったが、すぐに千から借りた携帯電話からの音だと気が付き、そして青ざめる。
これは家を出るときに千が設定してくれた12時を示すアラームだ。この時間にここを立ち去らないと地下鉄の最終が出てしまう。そうしたら家まで歩いて帰らなくては行けなくなるのだ。ここから歩きで家までだと、朝までかかるかもしれない。いや、その前にこの華奢な靴では長距離はあるけないし途中の道は物騒で、こんな薄着で歩くのはかなり危険だ。
千鶴はまだカメラマンと争っている斎藤を見た。
なんとか力になりたいけれど、今は無理だ。彼から尋ねられたこの先の二人についての問いにも答えられないのだし……

「ご、ごめんなさい!」

千鶴は大きな声でそう言い、ぴょこんと腰をとって頭をさげると、即座に踵を返した。
会場を抜けてエレベータを降り、地下鉄の階段を駆け下りて……全力で走ってもぎりぎりだ。間に合うだろうか。
シンデレラが12時にかぼちゃの馬車に乗らなければ、魔法は解けてしまう。王子様の目の前で。

後ろで斎藤が自分の名を呼ぶ声が聞こえる。
しかし千鶴は心の中で彼に謝って走り出した。




息を切らして飛び乗った地下鉄の最終電車はすいていた。
千鶴ははぁはぁと肩で息をしながらドサッと最終電車の椅子に座る。
そしてぎゅっと握っていた手をゆっくりと開いた。

そこには先ほど斎藤から受け取った、彼のカフリンクス。深い蒼色の石が鈍く輝く。
そして多分斎藤の手のひらの中には、千鶴の片一方のイヤリング。

一夜の夢が夢でなかった証拠だ。
だが多分もう二度と会うことのできない、現実の夢。

「……」
千鶴はそっとそのカフリンクスを握りしめた。






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