【シンデレラの指輪 13】
ようやく明るくなりだした成田空港の滑走路を、斎藤はコーヒーを飲みながら眺めていた。
ビジネスクラス専用ラウンジの大きな窓からは、滑走準備に入っている飛行機が見える。昨夜ふっていた雪は本降りにはならなかったようで、今はもう滑走路の端に少し白いものが残っているだけだった。
千鶴のアパートを出た後、一旦家に寄り着替えを荷物を持ち再度タクシーに乗り成田へ来た。チェックインも済み搭乗まではまだあと1時間もある。
一緒にアメリカに行く予定の左之が、「おー早いな」といいながらラウンジに入ってきた。
「搭乗手続きは済ませたのか?」
振り向いて斎藤がそう聞くと、左之はうなずいた。
「お前は昨日例の近藤さんとこのパーティだったんだろ?どうだった?」
「相変わらず人が集まって、和気あいあいとしたいいパーティだった」
「ありゃあ人柄だろうなあ」
左之はそう言い、斎藤の横に立つ。そして眉をあげ首をかしげた。
「どうした?そんなしょげた顔して。千鶴ちゃんと何かあったか?」
「……」
斎藤は視線をそらし、窓の外の飛行機を見る。
そんなにすぐわかるものなのだろうか。
左之の指摘は図星だった。
自分が、いつどんなことをしてしまったせいで千鶴があんな表情をしたのかわからない。
でも千鶴は確かに傷ついていた。
きっかけはあの金を渡したとき。
渡し方が悪かったのか。タイミングが悪かったのか。
しかしパーティに同伴してくれるよう頼んだのは斎藤で、『アルバイトだ』と最初から言っていたし千鶴もアルバイトだから受けてくれたのだと思っていた。
あんなバタバタしていた時間に渡さなければよかったのかもしれないが、斎藤は今日から1週間出張で不在になってしまう。失礼ながら千鶴の生活はかなり苦しそうだし、年末を迎えるにあたってある程度まとまった金があった方がいいだろうと思ったのだ。
この金のおかげで、千鶴がしばらくあの夜のビルの清掃バイトを入れずに済むのなら早めに渡した方がいいだろうと。
どうせいつか渡す金なら、入用な時期に渡した方が合理的だ。
それが理由でないのだとしたら、後はやはり昨夜のことか。
斎藤はもちろんあんなふうに送り狼になるつもりなどなかった。部屋に上がったのも成り行きで、上がってからも明確に千鶴の意志を確認したわけでない。しかし拒否もなく斎藤を受け入れてくれた彼女の様子から、大丈夫だと思い実行に移したのだが、それがいけなかったのだろうか。
初めて彼女のすべてを手に入れて、斎藤はこれまでにないほど彼女に夢中になっていた。
肌を滑る滑らかな黒髪に、ほんのり上気したピンクの頬。目じりに浮かぶ涙をキスで拭った。
彼女を抱いたその感触全ては、まだ鮮明に斎藤の記憶にある。
今傍に居ないのが不思議なほど、彼女が隣にいるのが自然で。
今別れたばかりなのにもう会いたくてたまらない。あと一週間も会えないのかと思うと信じられないくらい気持ちが沈む。
斎藤の人生において女性がこんなに大事におもえたことはなく、そのためこんなに大事な女性をどう扱えばいいの分からない。
彼女が泣きそうな顔をしていれば斎藤はおろおろして、疲れた顔をしていれば抱きしめて甘やかしたくなって、笑っていればこちらまで笑顔になる。
昨夜から今朝にかけて自分がした失敗がなんなのかわからない。
あんな表情をした彼女は初めて見た。最後、見送る時の彼女の笑顔に何か距離を感じて斎藤は不安になった。
早く仕事が終わらないか……
真面目な斎藤が、仕事に対してこんなことを思うのは初めてだった。
「左之」
斎藤が問いかけると、大きな窓から滑走路の飛行機を見ていた左之は振り向いた。
「……昨夜のようなパーティに女性の同伴を頼む場合、いくらぐらいが相場なのだろうか」
「パーティ同伴?パーティだけか?」
左之の質問の意味がわからず、斎藤は聞き返す。
「パーティだけ、とは?どういう意味だ?」
左之は考える様に視線を彷徨わせた。
「うーん……どう言やいいのか……。金を払うようなプロに頼む場合たいていは水商売でクラブのなじみのホステスとかキャバ嬢とかなんじゃねえか。当然後日その子の店に行って金を使ってちゃら、みたいな。プロじゃなくて知り合いとか女友達とかなら金は払わねえよ、失礼だろ」
斎藤は目を見開く。
「……そうなのか?」
「いや、そりゃ何事にも例外はあるだろうけど、一般的にはうまい食事をおごる程度じゃねえかと思うぜ」
左之はそう言うと、真剣な表情をしている斎藤を見て首をかしげた。
「なんでこんなこと聞くんだ?昨日のパーティ、千鶴ちゃんは楽しくなかったのか?だから次からはプロでも頼もうかとか考えてんのか?でもちゃんとした彼女がいるのにプロを頼むのはどうかと思うぜ。別に無理してお前が行かなくてもいいんだし、来年からは俺が行っても……」
左之はその後もいろいろと気を使ってくれていたが、斎藤にはもう聞こえていなかった。
まさかとは思うが、千鶴は誤解したのだろうか。そういうプロのような扱いをされたと。
いや、それはない。彼女とは前から……その、キスはしていたしそういう関係だったから、そんな……そんな金をはさむような関係ではない。
そこまで考えて、斎藤は今朝千鶴に金を差し出したことを思い出した。
斎藤は指で眉間を押さえる。
「……左之、ちょっと電話をしてくる」
「おお。もう搭乗が始まってるみてえだから急いでな」
突然鳴りだした電話に、千が驚いたように振り向いた。
当然千鶴が出るものと思い話を止めたが、千鶴はちらりと電話を見ただけで出る気配がない。
「……いいの?」
千が心配そうに聞く。
千鶴は困ったように笑いながらうなずいた。泣きはらした目が真っ赤だ。
「うん、ごめんね。それで?千ちゃんは引っ越すの?」
また滲んできた涙を無造作に拭いまた話を続ける千鶴に、千は顔をしかめた。
千鶴の家に来たとき彼女は泣いていた。
斎藤との話は、千はまえからノロケ話を千鶴から聞いていた。あの、千の作ったドレスを着て忍び込んだパーティが縁だとも。その人とどうもダメになったらしい。出直そうかと思ったが、千鶴が引き留めたのだ。『一人で泣いているよりもいてくれた方が嬉しい』と。
「……うん。っていうか今週末からこのアパート、工事業者が入って取り壊すためにいろいろ調べだすみたいだから千鶴ちゃんも引っ越さないとまずいのよ。昨日の夜に大家が来て最後通牒だって」
「……そうなんだ……」
まったくどこまでついていないのか。
千鶴はなんだか笑い出したい気分だった。ここまで悪いことが重なると、ヤケと言うか逆に楽しくなってきてしまう。
「でね、急なことで私も引っ越し資金がないし、いっしょに住まない?って提案しにきたのよ」
「一緒に?」
「そう。私の友達の知り合いが持ってるマンションの賃貸が一つ空いてるんだって。相場からいえば格安なんだけど、私一人じゃ高くて毎月払えないのよ。半額なら今と同じ家賃なの。2DKだからキッチンとかダイニングは二人で共有なんだけど個室もあるし、千鶴ちゃんとなら一緒に住めると思って。ここからちょっと遠くなっちゃうんだけど……」
そう言って千が言った地名は、この街のほぼ反対側だった。
大学にはなんとか通えるが、あのセンタータワーのアルバイトはもう難しいだろう。
泣きはらしてぽっかりと穴の開いたような千鶴には、特に何の感慨も浮かばなかった。
引っ越さなくてはいけなくて、千が素敵な提案を持ってきてくれて。
「ありがとう。とっても助かる。引っ越しも一緒にやれば楽だしね」
「そうなの!で、明日友達が軽トラ貸してくれるって言うから、本当に急だしクリスマスだからなんなんだけど、どう?引っ越し、できそう?」
千鶴は微笑んで頷いた。
―――― 一週間後
成田から戻り家に荷物を置いた斎藤は、すぐにその足で千鶴の家へと向かった。
時間は夜の八時。気温は二度。
凍えそうな寒さだが、昨日までいたニューヨークよりはましだ。空はどんよりと曇り今にも雪が降りそうだ。
空港からした電話はつながらなかった。かけなおす先の電話番号のアナウンスもなく『この電話は現在使われておりません』という無機質な女性のメッセージのみ。
いなくなってしまったということは、電話でわかった。
今実際彼女の家に向かっているのは、その確認のためだけにすぎないのはわかっている。
でももしかして。
もしかして全て気のせいだったのかもしれないという、かすかな望みに斎藤はすがっていた。
あの朝の彼女の傷ついたような顔は気のせいで。今電話がつながらないのも、きっとあまりお金のない彼女が電話料金を払い忘れたか何かで。
斎藤が行くと、驚いたような嬉しそうな顔をしてドアを開けてあの狭い部屋に入れてくれるのではないだろうか。
そして斎藤は安堵に少し震えて彼女を抱きしめるのだ。暖かくいい香りのする彼女を抱きしてめて失っていなかった幸運を神様に感謝する……
アパートは真っ暗だった。
どの部屋も電気がついていない。人の住んでいる気配がしないアパートの階段をあがり、彼女の部屋の前に立つ。
黒い革の手袋をした手で、斎藤はノックをした。
その音は意外なほど大きく響いた。まるで部屋の中ががらんどうかのように。
斎藤はもう一度ノックをする。
「開いてますよ」
ふいに階段の下から声がして、斎藤はふりむいた。
階段の下には中年の男性が胡散臭げな顔をしてこちらを見上げていた。
「私はここの大家ですけどね、もう明日から取り壊しが始まるんで皆引っ越したんですよ。忘れ物ですか?」
みるからに仕立てのいいウールの黒のコートに深いブルーのカシミヤのマフラー姿の斎藤は、あきらかにこのアパートの住人でないことがわかる。このアパートの住人とつきあいがあるようにも見えない。
「いや……違う。知人に会いに来たのだが…この部屋に住んでいた雪村という女性だ。引っ越し先は知らないだろうか?」
大家を名乗る男は、そっけなく肩をすくめた。
「知りませんね」
そう言って早く出て行けと言わんばかりに、階段の端により斎藤が降りるスペースを開ける。
「……そうか……」
アパートを出て、斎藤はタクシーをつかまえるために大通りまで歩いた。
どんよりと曇った空からふわりと白いものが舞い降り、斎藤は空を見上げる。
彼女の大学も出身地も親戚も、何も知らない。
きっとあのビルの清掃の仕事もやめたのだろう。
斎藤の前から姿を消すために。
斎藤は立ち止まり空を見上げる。
もう一度……もう一度だけ話したい。あの金はそんなつもりではなかったと彼女に伝えたい。
しかし……
しかし、きっと彼女はわかっていたのだと思う。もちろんあの晩の彼女の行為に対して払ったお金ではないが、斎藤が彼女の生活のために援助をしたいと思っていたことを、きっと彼女は気づいていたのだろう。
斎藤自身も、彼女に伝えはしなかったが彼女の生活を楽にしたいと思ってあの金を渡した。厳密にパーティの時給だけというだけではなかった。
それが悪かったのか。
しかし斎藤は彼女が疲れ切って、夜遅く一人で帰って、勉強時間がとれないと悩んでほしくなかったのだ。
何か彼女の助けになりたかった。それが彼女の負担だったのだろうか。
空を見上げている斎藤の頬に雪がひとひら舞い落ち、涙のように頬を滑る。
斎藤は無言でそれを拭い、また歩き出した。
「えー、俺でも一君の気持ちすげーわかるんだけど。俺でも多分同じことしたと思う」
左之から話を聞いた平助は、そういうと頬を膨らませて飲み屋の椅子にもたれた。
「好きな子を助けたいって思うのは普通じゃん?」
「でも、金は渡さねーだろ?」
左之がビールを飲みながら平助に言った。平助は唇をとがらせて考える様に顔をしかめる。
「うーん……」
「そうだね。僕だったら……」
総司がワインを飲みながら考える。
「僕だったら一緒に住もうって誘ったかな。そしたら家賃は全部僕が払えるし食費だって一緒に買いに行って払えばいいし?彼女が気になるって言うんなら『じゃあ僕は食事作れないから作ってくれたら嬉しいな』って言えば彼女も後ろめたくないだろうし、僕も美味しいご飯が食べられて幸せだし」
左之がうなずいた。
「そうだな、俺もそうする」
総司と左之の答えは、確かに斎藤のやり方よりもスマートだと平助も納得せざるを得ない。もし平助が斎藤の立場だったとしたらきっと自分の気持ちを全部話し、千鶴の気持ちも聞いて二人で納得できる着地点を一緒に見つけられるようがんばっただろう。それなら千鶴も、突然去るようなことにはならないと思う。
しかし無口な斎藤にはそんなことはできないし、気軽に一緒に住もうなどと提案もできないだろう。
そして千鶴が好きになったのは、そんな不器用な斎藤なのだ。
年が明けて出社した斎藤は、明らかに変わっていた。
千鶴と会ってから頻繁に出るようになっていた笑顔も笑い顔も、最近は全く見ない。周囲が心配になるほど仕事に没頭し、かと思えばぼんやりとオフィスのガラス越しに空を見上げている。
たまたま斎藤抜きで飲む機会があり自然と彼の話になった時に、大体の事情を知っていた左之が、想像を交えて皆に話してくれた。
千鶴が夜の清掃の仕事に来なくなったことに皆気づいていた。斎藤の笑顔がそれで消えたことも。
「千鶴ちゃんが、『あんなことだけでこんなにお金もらえてラッキー!もうバイトもやめちゃお!』って感じの子だったらよかったんだろうけどね。でもそういう子だったら斎藤君がそもそも好きにならないかな」
「だな。あの子の気持ちもわからんでもねえよ。金ってそれだけで力だからな。悪気はなくても自分の意志や考え方がひきずられちまう」
総司と左之がそう言うと、平助が沈んだ表情で言った。
「じゃあ、一君はどうすりゃよかったんかな」
「……」
一同は沈黙する。
わからない。
どうしようもない。
現代はおとぎ話の世界とは時代も人の考え方も違う。
物語のように『そしていつまでも幸せに暮らしました』とはいかないのだろう。意地悪な義母や義姉といったあからさまな悪役はおらず、二人もお互いに愛し合っているのに。
どうしようもならない現実に、三人は無言で溜息をつくしかなかった。
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