【シンデレラの指輪 12】








千鶴が目を覚ましたとき、部屋は薄青い光に満たされていて、水の中に居るようだった。
もう明け方ではあるのだが太陽は地平からは出ておらず、予感だけ感じさせる時間。
一日の中で一番寒い時間だが、千鶴は暖かかった。
千鶴は、彼女をを抱きしめたまま静かに眠っているすぐ隣の彼の顔を覗き込む。
長い睫にすっと通った鼻筋。いつも無表情ともいえるくらい表情を変えない彼だが、昨夜は違った。
頬を染めて熱く潤んだ瞳で千鶴を見つめて、何度も何度も千鶴の名を呼んだ。
切なそうに、愛おしそうに彼の唇からこぼれる自分の名前は、まるで魔法のように千鶴を酔わせる。
普段なら恥ずかしくてできないようなことも、彼のなすがままになって千鶴は我を忘れた。
痛みも感じたけれど、それよりも幸せの方が大きくて。

明け方の静けさと夕べの余韻は、『ピピピピピッ』という無機質な音にさえぎられた。
一瞬の間をおいて、また音。
何の音かと千鶴が体を起こそうとする前に、斎藤の裸の腕が伸びて枕元に置いてあった彼の携帯を操作した。
「……アラームだ。もう行かなくては」
物問いたげな顔をしている千鶴に、斎藤はそう言った。
そして千鶴を見る。柔らかな色が浮かぶ彼の瞳を見て、千鶴は裸の自分の恰好を思いだし慌てて布団にもぐった。
「……」
恥しくて斎藤の顔が見られない。どうしようかと思っていると、斎藤の優しい声が聞こえた。
「……おはよう」
「……おはようございます」
小さく答える千鶴に、斎藤は顔をよせ頬にキスをする。そして、そのまま立ち上がり着替えだした。
千鶴はどこに視線をやればいいのかわからず、無駄にあちらこちらを見る。
「ゆっくりできなくてすまない。今日は出張で……」
昨夜斎藤がそう言っていたことを千鶴は思い出した。千鶴もあわてて立ち上がり、斎藤に見えないように布団を器用に使いながら急いで下着をつけて部屋着に着替えた。
「ま、間に合いますか?」
昨夜自分を送ってくれて、その後さらにあんなことになってしまって成田に行くのに間に合わなくなってしまったらたいへんだ。
斎藤は昨夜のブラックスーツのジャケットを羽織り、腕時計を見る。
「ああ、多分大丈夫……」
その時、斎藤の足が千鶴の炬燵テーブルにぶつかり、上につみあげてあった参考書がカーペットの上に散らばる。
「すまない」
「いえ、大丈夫です」
千鶴はあわてて散らばった参考書やルーズリーフを集めた。
散々だった模擬試験の結果もあったが、幸せな気持ちに浸っていた千鶴の表情を暗くするまでにはならない。
だってこれは現実なのだ。
斎藤がいるのは現実の千鶴の安物のアパートで、あのきらびやかなお城のようなセンタータワーではない。これまでは、センタータワーでの斎藤との一時が夢で、この現実のボロアパートの千鶴とは分離しているような気分だった。だから勉強していなくてはいけない時間を、夢の世界で遊んでいることに罪悪感を持っていたのだが、今のこれは千鶴の世界におこった変化で。
斎藤の存在を含めた未来が、千鶴のこれからの人生にあるように感じられた。時間もないし立場も違うから難しいかもしれないけど、きっと千鶴は千鶴の夢を追うためにがんばって、斎藤とも付き合っていくことができるに違いない。

ネクタイは締めずに首にかけ、しわくちゃになってしまったYシャツのボタンをはめている斎藤を、千鶴はベッドに座って幸せな気持ちで見上げていた。
携帯電話をジャケットのポケットに入れたとき、斎藤は何かに気づいたようだ。一瞬動きを止める。
そして斎藤が取り出したのはサイフだった。
「……相場はわからないのだが……」
斎藤はそう言うと、財布の中から紙幣を抜きだしベッドに座っている千鶴に差し出した。
何枚も重なっている一万円札を、千鶴は目を見開いて見、そしてこれは何かと斎藤を見上げる。
斎藤は困ったように少し頭をかしげて説明した。

「足りないのだろうか。多すぎたのか?昨夜のアルバイト料なのだが」

斎藤の言葉は、千鶴のふわふわと浮かれていた気持ちに冷水をかけるものだった。
彼の言葉に頬を打たれ、千鶴は一気に目が覚める。
どんな言葉を期待していたのかはわからない。けれど、この言葉ではないことだけは確かだ。
これまで漂っていたピンク色の雲が、一瞬にして現実の薄暗く寒いアパートにかわる。

そういえばそうだった。昨夜のパーティは、あれはアルバイトでデートなどではなかった。
髪も化粧も服も、全て千鶴がやったのではなく千鶴のものではない。
パーティの後にあったことは、あれはもちろんアルバイトなどではなく斎藤もそんなつもりでお金を払っているのではないが。
……ないと思いたい。

いつまでも受け取ろうとしない千鶴に、斎藤は戸惑う。そして炬燵テーブルの上にお金を置いた。
「……何かまずかっただろうか?」
「いえ……」
目をそらした千鶴と視線をあわせるために、斎藤はひざまずいて彼女の顔を覗き込む。
「千鶴?何故そんな……傷ついた顔をしている?俺は何かしてしまったのだろうか。夕べの事か?夕べは…その、急な出来事だったが…不本意だったのだろうか」
心配そうに曇る斎藤の蒼い瞳。その蒼の奥には心から千鶴の事を思っている色が浮かんでおり、今千鶴が傷ついていることに斎藤が苦しんでいることもわかる。そして理由が分からず戸惑っていることも。
千鶴は無理に笑顔を浮かべた。
「夕べは…その、素敵でした。とっても素敵で……幸せでした」
気持ちをそのまま言葉にしただけなのに、過去形になっていた。
そしてそのことに千鶴をさらに傷つく。

幸せだった。
暖かくて安心できて。
全身を愛してもらった。

でもいったい私は何をやっているんだろう?

千鶴は斎藤の肩越しに、炬燵机の上に置かれているお金を見る。

昨日の夜のパーティはデートなんかじゃない。斎藤さんが誘ってくれて一から十まで準備してもらってようやくあのパーティに……斎藤さんの隣に立てることができた。
私は何もやっていない。
今の私がどれだけ努力しても何一つ彼の役に立つことはできないのだ。彼だけじゃない。
誰の役にも立てない。
斎藤さんにおんぶにだっこで、こうやってお金をもらって自分一人では何もできないままの、そんな人生を私は望んでいたの?
お父さんとお母さんが死んで一人になった時の不安。自分の手では何もできないもどかしさ。
そいういうのが嫌で、子供の頃から夢だった教師になろうとしたんじゃないの?ちゃんと一人で生きていける力が欲しかったんじゃないの?
今のこんな自分が、私がなりたかった自分なの?

このままでいいの?

上手く笑えているかはわからなかったが、千鶴はなんとか斎藤を送り出した。
斎藤は千鶴の様子がおかしいことに気づいていて、気にしていた。しかし飛行機の出発の時間は迫っている。
『一週間後に戻って来るから、そうしたらまた会いに来る』
斎藤はそう言い残してアパートを出て行った。『もう一度、会えるな?』と念を押していたことから考えると、斎藤も千鶴の様子から何か感じていたのだろうか。

後悔はしていない。
とても幸せな夢だった。
手を軽く上げて去っていく斎藤に手を振りかえしてから、千鶴は彼の遠ざかる背中が見えなくなるまで見送っていた。
これがきっと最後だから。
そして狭く薄暗い自分のアパートに戻る。
知らず知らずのうちに頬を伝う涙を拭いながら、昨日着ていたドレスを丁寧にたたんで炬燵机の横に置く。

参考書にパーティドレス。

両方を手に入れる能力もないくせに、どちらも欲しがった自分が馬鹿だったのだ。
斎藤も、何もかも中途半端のままの今のままの千鶴だったら、きっといつか興味を失くしてしまうだろう。そうしたらきっと千鶴は必死に斎藤にすがりつく。だって、斎藤を失くしてしまったらもう千鶴には何もなくなってしまうのだから。
千鶴がどんな試験を受けてどんな職業につきたいのかとか、どこの大学に通っているのかとかは斎藤は知らなかったが応援してくれていた。
しっかり自分の人生を考えているな、と言ってくれた。それがとても嬉しかったのに。
このままだと、斎藤が好きだと言ってくれた千鶴ですらなくなってしまう。

千鶴は丁寧にたたんだラベンダー色のパーティドレスとファーのストール、真珠のアクセサリーをひとまとめにして紙袋に丁寧にしまった。
そして、少し考えて炬燵の上のお金を手に取る。
千鶴は、数えもせずにそれも紙袋に一緒にいれ、ガムテープで口を塞いだ。







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